J・D・カー『魔女の隠れ家』

 『魔女の隠れ家』(1933年)はディクスン・カーの長編第六作。いよいよギデオン・フェル博士が登場する。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、1979年に創元推理文庫に収録される[i]と、1981年にはハヤカワ・ミステリ文庫でも復刊され[ii]、一挙に二種類の翻訳が読めるようになった(、と『夜歩く』でも書いたような)。

 『魔女の隠れ家』が執筆された1932年の6月に、カーはイギリス人女性クラリス・クリーヴズと結婚した。秋に彼女が妊娠したことから、二人はクラリスの両親が住むイギリスに移り住むことを決意する。翌1933年1月にニュー・ヨークを出港し、2月にイギリスに到着。以後、カーは16年間にわたって、イギリスで執筆活動を続けることとなる[iii]

 『魔女の隠れ家』はこの慌ただしい時期に、1932年秋に書き上げられた、という[iv]。舞台は、イングランド中東部のリンカンシャのチャターハムという小村落。「魔女の隠れ家」と呼ばれる、かつて罪人を絞首した地、その近くに18世紀末に建てられた監獄を望む場所にフェル博士の住まいがある。そこを訪れたアメリカ人青年タッド・ランポールが遭遇する二重殺人事件が主題となる。

 リンカンは、典型的なイギリスの田園地方で、リンカン・グリーンという当地の緑の伝統的な織物は、ロビン・フッドのバラッド(四行連句の物語詩)にも描かれ、実際本書でも冒頭にロビン・フッドに言及されている[v]。まだイギリスに移住する前に書かれたものとは思えない緻密な描写で、この架空の村の様子がヴィヴィッドに描かれている。もっとも、カーは以前にも何度かヨーロッパ旅行でイギリスを訪れており、バンコランものの第一短編であった「山羊の影」もやはりイギリス中部のノッティンガムシャを舞台にしている。よほど、この辺りの土地に魅せられたとみえる[vi]。ただし、「山羊の影」は短編だけに情景描写も上っ面にとどまっており、『魔女の隠れ家』とは比較にならない。

 イギリス人探偵の登場の理由は、グリーンによれば、単純なことで、クラリスとの結婚のおかげだという[vii]が、『魔女の隠れ家』におけるイングランドの田園地方の憧れと郷愁に満ちた情景描写も結婚がもたらした効果なのだろう。

 イギリス田園地方を舞台とすることで、バンコラン・シリーズの特徴だった残虐味の強い煽情的な殺人描写は影を潜め、英国ならではの足元から恐怖が忍び寄るゴースト・ストーリーの雰囲気が濃厚に立ち込めている。一つ一つの動作が恐怖を煽るカーならではの執拗な情景描写が全開である。

 しかし、比較的短い小説のせいもあり、人物描写はそれほど細密ではない。というよりも、カーとクラリスを投影したようなランポール青年とドロシーの邂逅と深まっていく関係、そして何よりもフェル博士の造形に力を注いだせいか、他の登場人物の描写が相対的になおざりになっている。登場人物もさほど多くなく、見分けがつかなくなるようなことはないが、一番重要なスタバース家の次期当主マーティンと従弟のハーバートがほとんど印象に残らないのはマイナスだろう。

 物語は、マーティンが監獄内の一室で夜を過ごし、そのことによってはじめて当主と認められるという、ミステリならではの意味不明な家訓を果たそうとするところから始まる。

 スタバース家の代々の当主は首を折って死ぬという、これまた怪談につきもののお題のような伝承に不安を感じたフェル博士やチャターハムの司祭が博士の家で様子を見守ることにするが、予定の時間より10分早く、監獄の明かりが消えてしまう。驚いたランポールと司祭が駆けつけると、マーティンが首を折られた死体となって発見される。しかも、夕刻どこへともいわずに出かけたハーバートがそのまま行方不明となっていた。マーティン殺害の容疑はハーバートにかかるが。・・・というところで、物語は佳境に入る。

 本作は、江戸川乱歩の「カー問答」[viii]では取り上げられていない。1936年の『アラビアン・ナイトの殺人』以前の作品では、本長編のみ未読だったようだ。松田道弘の「新カー問答」では、フェル博士ものの第一作ということのみ言及されている[ix]。どうも、扱いがぞんざいなようで気の毒な気がする。二階堂黎人の評価は、「すっきりしたストーリーと、舞台となるイングランド中東部の深みある情景描写が素晴らしい」、「不可能犯罪が出てこない点が物足りなくもある」[x]、と短いながら的確なものである。

 諸家の評価を見るに、本作はあまり特徴のないカーとしては平均的な作品というところだろうか[xi]

 しかし、本作は、カーのミステリ作法の進化を見ていく上では非常に重要な作品である。とくにトリックの扱いかたについて。本作を二階堂は「不可能犯罪が出てこない」と言うが、他方、解説を書いている戸川安宣は、不可能犯罪を本作の特徴に挙げている[xii]。この対立する見解は何に起因するのだろうか。メイン・トリックは、一人二役、というより、二人二役によるアリバイ・トリックである。従って、いわゆる不可能犯罪ではないが、犯人には完全なアリバイがあるように見え、その意味では不可能犯罪という評価も可能なのである。

 実はこのように一人二役ないし入れ替わりによるトリックは、初期のカーの常套的なトリックである。『髑髏城』のトリックが典型だが、密室ないし不可能犯罪のトリックでも、この入れ替わりトリックが応用されている。バンコランの第一作である短編「山羊の影」がそうだし、長編第一作の『夜歩く』もそうである。つまり初期のカーは、一人二役というもっともありふれたミステリのトリックを多用してプロットを組み立てていた。ある意味ワン・パターンである。バンコランの第四短編「四号車の殺人」で、かなり創意のある不可能犯罪のトリックを考案しているが、これは相当無理があった[xiii]

 こうした使い古されたトリックを用いながら、カーは次第にセンスのあるアイディアを考案するようになる。『魔女の隠れ家』も一人二役トリックはありふれているが、なかなか巧妙に無理なく使用して、効果をあげている。時計が10分進んでいるところがミソで、これは犯人が予期しなかった偶然だが、そのために犯人のアリバイが完璧になるのである。次作の『帽子収集狂事件』のアイディアを先取りしたかたちだが、ただし、被害者の時計が10分進んでいたのがただの偶然のように書いているので、ミステリの結構としては、やや雑な印象を与える。被害者同士が入れ替わりを画策し、それを目撃者と犯人が監視するという段取りも、トリックを成立させるための要になる部分であるがゆえに、いささか強引ではある。

 気になる点はあるが、本作ではトリックの扱いがこなれてきており、パズル・ミステリとして難点が少なくなってきている、という印象である。翌年の『プレーグ・コートの殺人』あたりから、カーは奇術的なアイディアに様々な小道具を組み合わせて不可能犯罪のトリックの案出に熱を入れるようになる。同時に、本書の怪奇小説的装いも、カーター・ディクスン名義の長編のほうに受け継がれ、カー名義では、次の『帽子収集狂事件』以降、不可解な謎に満ちた諧謔味の濃い作品がしばらく続くことになる。そうした意味でも、本作は過渡期に位置する長編であるといえる。

 ちなみに、本作の結末は、『絞首台の謎』や『蝋人形館の殺人』に比肩する印象的なものだが、前二作のようなグロテスクな風味はやや薄れて、しかし、かなり皮肉味のあるラストになっている。フェル博士は、なぜ犯人に自殺の自由を与えたのだろうか。この作品の犯人はそれほど博士の同情を引くような人間ではないように感じるのだが。それともこの結末は、フェル博士のキャラクターを際立たせるためだけの演出だったのだろうか。

 再びグリーンの見解を引用すると、イギリス人探偵の登場は、イギリス人女性と結婚し、イギリスに移り住もうとしていたカーにとっては、ごく自然な成り行きだったというが、そして実際そうなのだろうが、ではなぜパット・ロシターでは駄目だったのだろうか。ロシターの奇矯な性格や言動は確かにフェル博士にも受け継がれており、その意味では探偵交代の必然性はなかったように思える。

 にもかかわらず、カーが新探偵としてフェル博士を創造し、以後も起用し続けたのは、彼が作中探偵に父親のような存在を求めたからかもしれない。同時代作家のエラリイ・クイーンが自分(達)自身を探偵に投影したのとは対照的に、カーが自身を投影した作中人物は、ワトスン役のアメリカ人青年たちだった。ジェフ・マールにとってのアンリ・バンコランは、自分を真実へと導いてくれる導師のような存在である。しかし、バンコランは父性のイメージとはあまりにかけ離れている。パット・ロシターやジョン・ゴーントも同様である。それに対し、タッド・ランポールや後続のフェル博士ものに登場する青年たちは、いずれもフェル博士を父親に代わる庇護者として見ているように思える。これはカー自身が求めていた父親像だったのだろうか[xiv]。ディクスン名義のヘンリ・メリヴェル卿は、父ニコラス・カーがモデルで、ペンネームも、最初は父親の名前にちなんだニコラス・ウッドを名乗るつもりだった、という。フェル博士とヘンリ・メリヴェル卿が、ときに見分けがつきにくいほど似かよっているのは、カーが彼らのなかに無意識に父親の姿を求めていたせいかもしれない。さらに憶測を加えれば、妻の妊娠も影響したのではないか。自身が父親になる、という喜びと不安[xv]が、作中探偵の造形に父親のイメージを知らず知らずのうちに埋め込んでいったのではないだろうか。

 結婚の影響ということでいえば、冒頭に述べたように、本作はクラリスとの結婚後、最初に書かれた長編である。イギリス人探偵が活躍するイギリスを舞台としたミステリ。カーなりの新妻(古臭い言い方だなあ)への結婚プレゼントだったのだろう。

 

[i] 『魔女の隠れ家』(高見 浩訳、創元推理文庫、1979年)。

[ii] 『妖女の隠れ家』(斎藤数衛訳、早川書房、1981年)。

[iii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、108-110頁。

[iv] 同、150頁。

[v] 『魔女の隠れ家』、10頁、『妖女の隠れ家』、8頁。

[vi] ノッティンガムシャはロビン・フッド伝説の中心となる地域で、「山羊の影」のなかでもロビン・フッドの名前が出てくる。『カー短編全集4/幽霊射手』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1982年)、65頁。

[vii] グリーン前掲書、108頁。

[viii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、300-35頁。

[ix] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、217頁。

[x] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、346頁。

[xi] 創元推理文庫版の解説を書いている戸川安宣によると、本作はアンソニー・バウチャーが「カーの作品中のベストの一つとして推奨した」、という。また、戸川自身も、(解説だからある意味当然のことだが)絶賛している。『魔女の隠れ家』、306-307頁。

[xii] 同、306頁。

[xiii] 停車中の列車の窓から手を突っ込んで、車中の被害者を絞殺するというもの。こうやって書くと、あほらしく見えますな。

[xiv] カーが母親と非常に折り合いが悪かったことは、グリーンの伝記で明らかになったことだが、父親とは良好な関係だったようだ。『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』の諸所参照。

[xv] グリーンによれば、カーは「自分は子どもが持てないと思い込んでいた」、という。グリーン前掲書、109頁。