J・D・カー『帽子収集狂事件』(補遺)

 ジョン・ディクスン・カーの長編を系統的に見ていくと、探偵の交代とともに、作風の変化が見て取れる。バンコラン・シリーズの4作品から、ロシターものの『毒のたわむれ』を経て、1933年の『魔女の隠れ家』でフェル博士のシリーズが始まる。バンコランの無国籍ミステリからフェル博士の英国風ミステリへの転換だが、続く『帽子収集狂事件』は、さらに大きな方向転換の第一作という印象を受ける。

 その一つは、プロットの特徴の変化である。バンコランのシリーズでは、グロテスクな殺人場面や冒険活劇的場面が多出して、それらがセンセーショナルな外観を与えていた。しかし、『帽子収集狂事件』にはそうしたシーンがほとんど見られない。ロンドン塔での死体発見という劇的な場面で幕を開けるが、小説の大半は、ロンドン塔と被害者のアパート、彼の伯父の邸宅における関係者の聞き取りに終始する。これほど動きのないプロットは、これまでのカー作品には見られなかったものである。つまり、いかにもイギリス的な、警察の尋問で進行する、いかにもありふれたミステリとなっているのだ。

 この作風の変化から当然生じてくるはずの退屈さを和らげるためにカーが採用したのが、ユーモアである[i]。カー作品におけるユーモアないしファースの要素については、評価が分かれている[ii]が、本作に続く『剣の八』(1934年)と『盲目の理髪師』(同)が同じような、いやさらにファースの度合いが強まった長編になっているところを見ると、カーが意識的にこの路線を進めようとしていることがわかる。

 この方向転換は何に起因するものなのだろうか。常識的に考えれば、カーも「大人」になったということだろう。残虐とグロテスクをブレンドしたバンコラン・シリーズの鬼面人を驚かすミステリから、ユーモアを湛えた休日の読書にふさわしいゆとりのあるミステリへの変化ということである。

 このように『帽子収集狂事件』は、初期のカーのイメージを一新して、新たな小説スタイルの確立に向かう作品だったように思える。

 カーも「大人になった」、と述べたが、この変化はイギリスへの移住の影響も感じられる。カーがイギリス作家として生きていこうと決心したのかどうかはわからないが、今後はイギリスの読者を意識して書かなければならない、とは考えただろう。アメリカ読者向け(とまではいえないかもしれないが)の煽情的な場面を売り物にしたミステリから、思わせぶりな会話の応酬を軸にした英国風ミステリへの緩やかな転身をはかった、と見ることもできる。もっともディクスン名義では、イギリス的怪奇趣味を正面に掲げて、ある種煽情的なミステリを書くのだが。

 さらに憶測を重ねれば、他のアメリカ作家の影響も考えられる。『帽子収集狂事件』にはちょっと面白い一節がある。フェル博士は小説の名探偵を気取っている(これもメタ・ミステリ的な発言だが)、というハドリー警視に対し、フェル博士が、現実の警察官はといえば、

 

  「小説の探偵のように鮮やかにはいかんじゃないか。納税者を厳粛な目つきで見つ

 めて、″この殺人の謎を解く鍵はマンドリンにあります、乳母車にあります、ベッド 

 用の靴下にあります″と納得させて、彼らにこれぞ真の警察の姿だと感心させたりは 

 せん。そうしないのは、そうできないからさ。」[iii]

 

、と言い返す。この発言を見ると、フェル博士は前年に出版されたばかりのエラリイ・クイーン(バーナビー・ロス)の『Yの悲劇』を読んでいるようだ。さすが読書家の博士らしい。

 わざわざ引用するまでもなく、フェル博士、いやカーがクイーンの作品に注目していたのは間違いないだろう。クイーンが描くアメリカの都市社会で起きる事件を推理によって解決する小説は、ヴァン・ダインの先行例があるとはいえ、ほぼ同時期にデビューした同業作家であるだけに、強い印象を与えたと思われる[iv]。うっかりすると、パルプ・マガジン小説とも取られかねない煽情的なミステリから、本来目指していたはずの知的興味を主眼とする巧緻なミステリをイギリスを舞台に描こうとした、と考えれば、この転身には納得がいく。

 もう一つ付け加えれば、クラリス・クリーヴズとの結婚も、作風の変化に影響したのではないか。こんな夫婦間の会話が浮かんでくる。

 

  「ねえ、ジョン。私、このバンコランという探偵、好きになれないわ。あまりに冷 

 たすぎるんですもの。」

  「うーん、そうだね、ハニー。実は、僕もそう思い始めたところさ。この男は、こ 

 のところ、どうにも扱いづらくてね。何で、こんな性格にしたのかな。若気の至りと

 いうやつだね。」

 

 イギリス移住後はカーに同行して探偵作家クラブの例会に出席し、名だたる女性作家(アガサ・クリスティを筆頭に、ドロシー・セイヤーズやマージェリー・アリンガムなど)にも臆することなく接した[v]、というくらい度胸があったと思われるクラリスである。そもそも、誕生日のパーティを開いてもらうより、一人でアメリカ旅行に行きたい、と両親にねだって[vi]、実行してしまう。結婚後、妊娠すると、これでこっちのものと言わんばかりにジョンを連れて、さっさとイギリスに戻る[vii]女性である。カーも頭が上がらなかったに違いない。

 もっとも本質的なところは変わっていないのかもしれない。『絞首台の謎』や『蝋人形館の殺人』では、バンコランは犯人たちに対してはむしろ同情的だ。彼らに共通するのは、誇り高いことである。卑劣なのはいつも被害者のほうなのだ。『蝋人形館の殺人』のラスト・シーンも、バンコランの冷徹さより、犯人の時代遅れだが狷介な性格を際立たせるための演出である。

 『帽子収集狂事件』でも、最初フェル博士は同情から犯人を見逃そうとする。しかしこのままなら、フェル博士の配慮にはあまり説得力がない。だが、最後の最後で、犯人は(フェル博士以外には)疑われていないにもかかわらず、自分を救ってくれた人物が犯人として葬られることを黙過できず、ハドリー警部に告白する。ここで初めて、この事件の犯人は矜持を見せるのである。「未解決」とハドリー警部が述べるラストは、警察官が何やってんの、と言われようとも、カーが「そういう」作家だったことを如実に物語る。そこがカーの小説のある意味通俗的な所以でもあるが、それは終生変わらなかった。

 

[i] フェル博士の真面目くさってバカなことをするユーモアは、新訳よりも、少々堅苦しい田中西二郎訳(創元推理文庫、1960年)のほうが、おかしみが出ているように感じる。田中訳に親しんできたせいに過ぎないかもしれないが。

[ii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、208-209頁、瀬戸川猛資・鏡 明・北村 薫・斎藤嘉久・戸川安宣「内外ミステリ談義2 ジョン・ディクスン・カーの魅力」『ユダの窓』(高沢 治訳、創元推理文庫、2015年)、394-95頁。

[iii] 『帽子収集狂事件』(三角和代訳、創元推理文庫、2011年)、186頁。

[iv] クイーンとロスを混同した書き方になってしまったが、もちろん、1935年当時は、別の作家だと思われていた。(2022年4月23日追記)本書は、タイトル自体が『Yの悲劇』をもじっていることを付け加えておかなければいけなかった。エラリー・クイーン『Yの悲劇』(越前敏弥訳、角川文庫、2010年)、24頁。

[v] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、212-16頁。

[vi] 同、99頁。これに、「あなたがこの国にいるなら面倒をみるけど、よその国で暮らすなら生活費は出せないわよ」と答えたというクラリスの母親もナイスだ。

[vii] 同、109-110頁。