J・D・カー『毒のたわむれ』

 『毒のたわむれ』(1932年)はディクスン・カーの第五長編で、パット・ロシターを主人公とした唯一の作品である。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、1993年にハヤカワ・ポケット・ミステリで復刊され[i]、・・・とここまではまったく『蠟人形館の殺人』と同じだが、『毒のたわむれ』は、今のところ新訳版は出ていない。

本作で、カーはついにアンリ・バンコランを見限って(?)、新探偵を創造した。ダグラス・G・グリーンによると、「カーはバンコランをアメリカで活躍させたくて、五作目の『毒のたわむれ』を書き始めたようだ」、という[ii]。この推測が正しいとして、それでは、なぜ探偵を交代させたのだろう。グリーンの見解では、「この小説には、バンコラン物のあらゆる特徴-陰鬱な雰囲気、グロテスクなイメージ、狂気につきまとわれ凶運に打ちひしがれた家族-があり、ジェフ・マールが語り手となる」[iii]。ならば、バンコランをロシターに変更する理由はないように見える。ジェフ・マールをそのまま起用したことをみても、バンコラン・シリーズにおける「ワトソン役による一人称小説」というスタイルを変えるつもりはなかった、と思われる。

 もうひとつの変化は、本作で初めてアメリカが舞台となることである。アメリカ人作家であるカーが、母国のしかも郷里であるペンシルヴァニアを舞台にしたミステリを書こうとした理由は理解できる。いつかは、自分が生まれ育った土地を小説に書こうと思うのは自然である。これまでもバンコランは、パリそっちのけで、さんざんドイツやイギリスで探偵仕事をやってきたのだから、グリーンの推定どおり、アメリカを舞台とした新作にバンコランを登場させることになんら問題はなかったはずである。

 カーはバンコランを持て余し始めたのだろうか?さすがに演出過剰で装飾過多なミステリに飽きてきたのかもしれない。『毒のたわむれ』はバンコランものと変わらない、とグリーンはいうが、本作では、被害者はひざまずいて首を切り落とされたりはしないし、火だるまになって城壁から墜落したりもしない。そもそも毒殺がテーマだから、刺殺されて蝋人形に抱かれたりもしない。少なくとも『夜歩く』以下の諸作に見られた、凄惨で残虐な殺人シーンは出てこない。それが探偵交代の理由ではないか。アンリ・バンコランは(カーにとっての)異国の絢爛たる犯罪絵巻のなかでこそ映えるが、さすがに地元アメリカを舞台に、『髑髏城』や『蝋人形館の殺人』のようなエキセントリックな殺人とエキセントリックな探偵を書くことには気がさしたのではなかろうか。

 カーの描写はリアリズム的だが、プロットはリアリズムではない。少なくともバンコラン・シリーズは。『毒のたわむれ』の第一章で、ジェフ・マールはクエイル元判事と対話しながら回想にふけるが、まるで普通小説のような趣がある。アメリカの地方の旧家を舞台にしたミステリには、確かにバンコランは似合わない。しかし、続く作品で再びバンコランのシリーズに戻るつもりがあったのかどうかは何とも言えない。次の作品は、言うまでもなくギデオン・フェル博士が探偵役でイギリスが舞台の『魔女の隠れ家』(1933年)である。同作品は、まだアメリカに在住中に執筆されたが、1932年にカーはイギリス人女性クラリス・クリーヴズと結婚して、翌年早々にイギリスに移住している。『魔女の隠れ家』執筆中から、カーは近い将来イギリスに移り住み、イギリスを主な舞台にミステリを書くことを考えていたのかもしれない。アガサ・クリスティのポワロ探偵のような例もあるとはいえ、当然探偵もイギリス人で、と考えたことは想像に難くない。とすれば、やはりバンコランに代わるシリーズ探偵を創出するつもりだったのか。これもグリーンの分析では、「ロシターの性格-不器用さ、とりとめのない空想癖、穏和な優しさ、謎めいた言葉、悪魔祓いの能力-の多くは、まもなくギデオン・フェル博士に受け継がれ」[iv]ることになる。それなら、シリーズ探偵は、パット・ロシターでもよさそうである。そうしなかったのは、やはりロシターの造形に不満があったからだろうか。

 以上を整理すると、バンコランからロシターへの交代には、それなりの理由があったとして、その次の作品については、三通りの可能性が考えられた。バンコランを再び起用するか、ロシターを続投させるか、あるいはまったく新しい探偵を登場させるか。答えは三番だが、そこに至る経緯はいかなるものだったのか。

 ところで、上記のグリーンの文章における「悪魔祓いの能力」という指摘は興味深い。グリーンは「カーの作品の変遷を見るうえで、『毒のたわむれ』は重要な作品である」[v]という意見だが、重要という意味が、まさにこの「悪魔祓い」にあるからである。つまり、パズル・ミステリにおいては、非日常的な謎を論理によって解決することで日常世界を回復するという理が貫徹しなければならないが、バンコランは存在自体が非日常的過ぎて、日常世界を取り戻すには不向きだった。グリーンの解析が妥当なら、やはり早晩バンコランが退場することは必然だったということになる。ただ、そういうためには、カーが非日常世界のまま完結するミステリからの脱却を目指していたと考えなければならないが、『毒のたわむれ』はその第一歩だったのか。

 さて、ひとまず『毒のたわむれ』に戻ろう。例によって、江戸川乱歩の「カー問答」をみると、『毒のたわむれ』は、「もっともつまらない」第四位の六作のひとつである[vi]松田道弘の「新カー問答」はどうかというと、まったく言及されていない[vii]。カーの長編は70冊にも及ぶから、まったく挙げられなくとも不思議ではないが、乱歩に大いに異論のあった松田にとっても本書はその程度の存在に過ぎなかったということだろう。二階堂黎人の評価では、D級ではないので、B級らしい。具体的には、「何とも珍妙な味のある作品」で、泡坂妻夫『毒薬の輪舞』の「先駆的作品」とのことだ[viii]が、パズル・ミステリとしての特徴については、とくに言うべきことがないらしいことはわかる。

 しかし、グリーンとは言わんとするところは異なるが、「カーの作品の変遷を見るうえで、『毒のたわむれ』は重要な作品である」、と思われる。バンコラン・シリーズからの脱却という点とも関連するが、『毒のたわむれ』でカーは、過度な装飾を排したパズル・ミステリに取り組んでいるからである。

 本作にも怪奇的な味つけはあって、カリギュラの石像から欠けた右腕が暗がりで蠢くところが目撃される。しかし、グリーンが「カーはもぎ取られた腕のことは忘れてしまい、最後になっておざなりに持ち出す。それはプロットとはほとんど無関係なことが判明する」と説明する程度のことで、中心は同時多発する毒殺および毒殺未遂事件に置かれる。基本アイディアは、カーがエピローグで述べている「(毒殺者は)いつも同じ毒薬を使う」[ix]という事実から(逆の意味で)ヒントを得たものだろう。先駆的という意味では、本書は、毒殺講義で知られる『緑のカプセルの謎』(1939年)の先駆であり、すでにカーが歴史上の毒殺事件を研究していたらしいことがわかって興味深いが、現実の毒殺事件とは違い、三人の被害者が異なる毒を盛られ、一人が死に、二人が助かる。なぜ異なる毒が用いられたのか、犯人が本当に狙っていたのは誰か、そして動機は、という風に、いくつかの謎を組み合わせることで、プロットを組み上げていく。真相はわかってみれば単純だが、動機にひとひねり加わっている(日本のミステリにも類似例がある)[x]ので、パズルとしてはなかなかよく考えられている。

 つまり本作は、犯人がいかなる動機で誰を狙って犯行を企てたのかを明らかにする、その意味ではごくストレートなパズル・ミステリである。家族のなかの少ない容疑者の間で、読者に容易に的を絞らせない手際は見事で、傑作とまでは言えないが、パズル・ミステリ好きなら十分に満足できるだろう。ただし、この方針転換は永続的なものだったのか、それともアメリカを舞台にした本作限りの試みだったのか、本作からだけではわからない。

 カー自身は、『毒のたわむれ』を「私の最大の失敗作」と言ったらしい[xi]。多分、あまり売れなかったのだろう。それはバンコラン・シリーズと比べてみても、想像がつく。なんとも地味で、内容以前の問題として、バンコランものほど面白そうには見えない。そうすると、バンコランに戻ることも考えていたのか。そうではなかったのか。結果から見れば、バンコランは忘れられ、1937年まで再登板はない。

 前述のように、バンコラン・シリーズのような、あくの強いミステリを書き続けるのは易しいことではない、とカーが悟ったのかもしれない。早晩飽きられるだろう、と思ったのだろうか。1920年代以降、英米で次々にパズル・ミステリの作家が登場し、本格ミステリの黄金時代を現出する。読者にとっては黄金時代だが、作家にとってはマーケットの占有率をかけて鎬を削る状況になった、と想像する。そこで思い浮かぶのはエラリイ・クイーンである。カーが、一年早くデビューしたこのアメリカ作家のことを知らないはずはなく、そのミステリの特徴にも関心をもっていただろう。しかも、クイーンの『オランダ靴の謎』(1931年)、と『エジプト十字架の謎』(1932年)は、全米ベストセラー一位を獲得した[xii]、という。後者は『毒のたわむれ』と同年の出版だが、カーがベストセラー一位になったとは聞かない。その正体(カーと同年代の二人の青年による共作)は知らなかったとしても、同じ新進作家同士、意識しなかったわけがない。クイーンの現代アメリカの都市社会に即したパズル・ミステリの成功を目にしたことが、カーのこの方向転換にも影響を及ぼしているのではないか。だが、派手な外観で装った無国籍ミステリから、アメリカを舞台としたパズル重視のミステリへの移行の第一作は、結局地味で退屈な印象を与える結果になってしまった。しかし、いまさらバンコランを呼び戻すわけにはいかない。この現状を打開する道としてカーが選んだのが、イギリス伝統の怪奇小説とパズルを組み合わせたギデオン・フェル・シリーズだったのではないだろうか。しかし、その検討は『魔女の隠れ家』に譲らなければならない。

 

[i] 『毒のたわむれ』(村崎敏郎訳、早川書房、1958年)。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、106頁。

[iii] 同。

[iv] 同、108頁。

[v] 同。

[vi] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、317頁。

[vii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、201-41頁。

[viii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、340、346頁。

[ix] 『毒のたわむれ』、247頁。

[x] 同、123頁。横溝正史『魔女の暦』(1958年)で同一のアイディアが使われている。横溝が本書から拝借したのかどうかはわからない。

[xi] 『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、107頁。

[xii] エラリー・クイーン(越前敏弥・佐藤 桂訳)『エジプト十字架の秘密』(角川文庫、2013年)、飯城勇三による解説、538-40頁。