カーター・ディクスン『パンチとジュディ』

(本書の内容に触れています。)

 

 1935年の『一角獣の殺人』がカーター・ディクスン名義の最後の作品となるはずだった、という。ヘンリ・メリヴェル卿のファンなら腰を抜かしそうな話だが、カー名義の出版社からペンネームに関するクレームが来たのが、理由だったらしい。ディクスン名義をあきらめる代わりに、新しい有利な条件で契約したところ、ディクスン名義の出版社からも好条件を提示されて、つい断れずに、という話[i]は、いかにもカーらしい、豪快な、あるいはずぼらなエピソードだ。結局、我々は、こうしてフェル博士ものも、H・Mものも20冊以上楽しめることになったのだから、ミステリの神様に感謝しなければならない。

 1936年は、『サー・エドマンド・ゴドフリの殺人』の執筆もあり、カー名義のミステリ作品も1冊きり。ディクスン名義はゼロだったので、翌1937年の『パンチとジュディ』が再開第一作だった。再開第一作だから、当然、満を持して力の入った長編を発表、と思いきや、どうもそうではないのが、これまたカーらしいのか?

 まあ、生活のために書いている職業作家なのだから、そこそこのアイディアでも本にしなければならない。本書は、ファース・ミステリと評されているが、前作の『一角獣の殺人』もその気味はあったとはいえ、こうしたユーモアを強調した作風は、むしろカー名義の作品の特徴だった。もはや、カー名義とディクスン名義の書き分けなど、どうでもよくなったのだろうか。同年のカー名義の長編は、シリーズ外の超異色作『火刑法廷』とバンコランの復活長編『四つの凶器』で、一旦フェル博士を休ませたかたちになっている。それでフェル博士シリーズ的な長編をH・Mものに移し替えたのだろうか。かといって、不可能犯罪を特徴としたH・Mシリーズを打ち切ったわけでもなさそうで、続く『孔雀の羽』はまた密室物。翌年の長編も、おなじみ『ユダの窓』と『五つの箱の死』で、いずれも不可能犯罪ミステリである。

 確かに同じファースでも、本作では、ヘンリ卿のキャラクターによるギャグが多く、フェル博士向きではなかったのかもしれない。作中、ヘンリ卿から任務を指示されて車で出かけたケン・ブレイクが、途中警察に捕まって、ヘンリ卿から車の窃盗届けが出ているぞ、と言われるところが最初の爆笑ポイントだが、フェル博士がこれをやったらイメージが狂うだろう。個人的に一番笑ったのは次の箇所だが、これもヘンリ卿でなければ、ツボに入らない(髪の薄い人は不愉快かもしれないが)。

 

  「今は帽子を脱いでいるので、昔のH・Mの面影がよみがえっていた。椅子に戻っ

 た彼は、腰を下ろし、吸い取り紙の上から見つめている頭蓋骨と向き合った。彼はそ

 の頭蓋骨と同じくらいはげあがっていた。この奇妙な一対は、医師の診察室の衛生的

 で愛嬌のない光の下で互いに見つめ合っていた。」[ii]

 

 カー作品の特色については、松田道弘の「新カー問答」[iii]以来、ストーリーテラーとしての側面が強調されるようになり、その後、フーダニット作家という一面が、戸川安宣らによって主張されたが[iv]、近年では、ホワットダニット作家として評価する[v]、という声もある。ディクスン・カーぐらい、作品の性格をめぐって熱い議論が交わされてきたミステリ作家は他にいない。天国のカーも、日本人はこれほど俺の小説を気に入ってくれたのか、と感激していることだろう(その割に、売れなかったな、とぼやいているかもしれないが)。

 確かに、ファース・ミステリという特色のほかに、本書の場合、事件の全体像がなかなかつかめず、「何が起こっているのかわからない」のが特徴となっている。

 ケン・ブレイクの任務とは、ドイツの元スパイのポール・ホウゲナウアという人物の調査だが、彼は、大物スパイのL(『デスノート』みたいだな)の正体を教える、と地元の警察署長に申し出ていた。ところが、ブレイクがホウゲナウアの自宅に不法侵入すると、奇妙な実験道具に囲まれた死体を発見する。警察の追及を逃れたブレイクが婚約者のイヴリンとともに、ホウゲナウアの友人のケッペルという人物が滞在しているホテルの一室に忍び込むと、またしても同じような姿勢で椅子にすわるホウゲナウア(実はケッペルとわかる)の死体を見つける。・・・

 実に見事な展開で、ミステリ・ファンならこたえられないし、繰り返しのギャグとしても秀逸だ。しかし、もちろんこんな不可解な状況を合理的に説明しようとすれば、はなはだ常識的にならざるを得ない。そして、事件の本質は、実は紙幣贋造にあったことがわかる。

 途中までの不可解な二重殺人は、偽札事件の真相をカヴァーする煙幕だったのだが、まさにここまでは、何が何やら見当もつかない、という読者が多いだろう。そして肝心な部分は巧妙に暗示にとどめて、容易に悟らせない。ホワットダニットの典型のような小説といえそうだ。こうしたプロット展開の長編は、『帽子収集狂事件』(1933年)や『アラビアン・ナイトの殺人』(1936年)のようなカー名義の作品に多く見られた。それをさらに徹底した、という印象で、そういう意味でも、フェル博士ミステリ的なH・M長編といえるだろうか。

 ただ、こうした不可解な事件の真相は、作品の真ん中あたりで、ほぼ読者の前に明かされる。それも推理によってではなく、自然に割れてしまうのである。そして後半は、ヘンリ卿を議長とした犯人探しのディスカッションへと変化する。このガラッと変わる構成も計算のうちなのだろうか。

 本作のこうした構成をみると、カーの多様性と指摘されてきた様々な特色の基底にあるのは、フーダニットをハウダニット(密室などの不可能トリック)やホワイダニットでカヴァーするスタイル、と定義できそうである。

 ただし、犯人を指摘するヘンリ卿の推理は、二人の関係者の証言が食い違っている。ひとりは嘘をついている。そいつが犯人だ、という荒っぽいもので、説得力に欠ける。しかも、ヘンリ卿は、最後に犯人を見逃してやるのだが、その理由も、あいつはいいやつだ、というでたらめなもので、二人も殺しているのに、そりゃないでしょ、と思わせる。犯人探しのディスカッションの終わりに、各自が犯人と思う人物を紙に書いて、ヘンリ卿に手渡す。卿は、自分が書いた紙片を隣の人物に見せると、彼は抗議の声をあげる。そのあと、ヘンリ卿が犯人の名を明かすのだが、どうやら、カーはこの場面が書きたくて、犯人を見逃す結末にしたかのように見える。

 また、本作では、主人公格のブレイクが翌日にイヴリンとの結婚式を控えていて、一晩で任務を果たさなければならない。いわばウィリアム・アイリッシュの『暁の死線』(1944年)のようなタイム・リミットの課されたサスペンス・ミステリの結構をもっている(?)のだが、アイリッシュとは対照的な捧腹絶倒のオチが最後に待っている。ファース・ミステリとしては、カーの最上作かもしれない。

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、148-49頁。

[ii] 『パンチとジュディ』(白須清美訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2004年)、251頁。

[iii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、201-41頁。

[iv] 『死時計』(創元推理文庫、1982年)、380-82頁、『帽子収集狂事件』(創元推理文庫、2011年)、399頁。

[v] 『貴婦人として死す』(創元推理文庫、2016年)、山口雅也による解説、311頁。