J・D・カー『四つの凶器』

(本書のトリック等に触れています。)

 

 『四つの凶器』(1937年)は、五年ぶりにアンリ・バンコランを登場させた長編ミステリである。ハヤカワ・ポケット・ミステリ版で何回か復刊されてきたが、2019年に、こちらは61年ぶり(!)の新訳が創元推理文庫に収録された[i]

 なんでいまさらバンコラン、という疑問が浮かぶが、新訳版の解説でも言及されているように、カーは1935年にもバンコランの新作を書くつもりだった[ii]、という。それが『三つの棺』の原型だった、というのだから驚きだが、このことは、フェル博士シリーズは、ユーモアを強調したイギリス風ミステリ、というのがカーの方針だったらしいことを改めて裏付ける。ダークで不可能興味を前面に出した長編はバンコランで、という発想だったのだろう[iii]。しかし、久方ぶりにバンコランを書くことは困難だったようだ。

 

  「だが、このいまいましい探偵ではどうすることもできない!実在感がなく、生命

 のない、マネキンでは。」[iv]

 

 生みの親の言葉にしては、なんとも手厳しいが、それではますます、その二年後の再登場はなぜ、と問いたくなる。恐らく、性格から変えることで、これなら書けると判断したのだろうか。商業作家となる以前に大学文芸誌に発表した諸短編に登場するバンコランに回帰した、との指摘もあり[v]二階堂黎人は、「自分のかつての級友たちへのサービスなのだろう」[vi]、と穿った見方をしている。

 『四つの凶器』の前に書かれたのは『火刑法廷』で、これはシリーズ探偵の登場しない、アメリカが舞台のミステリだった。カーは本名で書く小説では、色々新しい挑戦を試みるつもりだったのかもしれない。あるいは、フェル博士に本当の意味でまだ馴染んでいなかったのだろうか。ディクスン名義のヘンリ・メリヴェル卿は、コミカルな面が強調されるようになり、書きやすくなっていった様子が作品からもうかがえる。

 もっとも、『四つの凶器』のあとは、フェル博士シリーズの『死者はよみがえる』で、しかもイギリスでは、こちらが『四つの凶器』の前に出版されたらしい(『四つの凶器』が雑誌に先行掲載されたため)[vii]。『死者はよみがえる』は、かなり急いで書かれた模様で、このことは、フェル博士ものが書きやすかった、というようにもみえる。もしくは、イギリスを舞台にするほうが、といったほうがよいのか。『四つの凶器』は、フランス人のバンコランが探偵なので(というのは、本当は理由にならない。バンコランはしょっちゅう、ヨーロッパを飛び回っていた)、フランスが舞台になっている(イギリス人ばかり出てくるが)。イギリスが舞台のミステリほど書きやすくはなかったとしても、ひょっとしたら、この後も不定期にバンコランが探偵を務める作品を書くつもりがあったのだろうか。『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』(1942年)のように、カーは、書こうと思えばいつでも、フランスを舞台にしてミステリを書けただろう。

 しかし、結局、カーは『四つの凶器』を最後に、再びバンコランを起用することはなかった。本書はバンコランの別れの挨拶となったわけだ。

 事件は相当に複雑で、タイトルがG・K・チェスタトンの短編小説からインスパイアされていることは、種々指摘されているが[viii]、被害者の遺体の周りに、拳銃、短剣、かみそり、睡眠薬と、凶器となり得る四つの証拠品が見つかり、しかも被害者の死因は不明という、一種の不可能ミステリを描いている。

 高級娼婦のローズ・クロネツは、元愛人のラルフ・ダグラスとよりを戻そうと、パリ郊外の別宅で会う約束をする。当日深夜、ローズの女中は、ラルフと思しき人物がローズの部屋に入るのを目撃するが、翌朝、弁護士リチャード・カーティスがラルフに同道して同宅を訪れたときには、ローズはベッドに死体となって横たわっていた。

 これに、ラルフの兄ブライスと、ローズの現愛人ルイ・ド・ロートレック、ラルフの恋人マグダ・トラーといった登場人物が入り乱れて、事件は錯綜していく。

 正直なところ、カー作品でしばしば指摘されるように、とくに男性の登場人物が(外見はともかく)似たようなしゃべり方をするので、見分けがつけにくい。とくに、本書では、各人物が思惑を抱えて動き回るので、ますます混乱する。実は、この登場人物の複雑な行動が本作のミステリ的趣向となっている。

 肝心の死因をめぐるトリックは、化学に素養がないと(あっても?)理解することさえ難しい。カーはどこからこんな知識を仕入れたのだろう。ディティクション・クラブあたりからだろうか。四つの凶器は、そのうちのひとつがトリックに関係するので、このトリックをカヴァーするためのミスディレクションと取ることもできるし、単なるお景物と見ることもできる。偽の手がかりがなくとも、このトリックは一般読者には推測不可能だろう。

 しかし、ミステリとしての見所は、トリックではなく、一種のアリバイ・トリックのほうにある。といっても、それほど唸らせるようなアイディアではない。(以下、内容を明かす。)

 「私は、○〇が部屋にいるのを監視していました。従って、○〇にはアリバイがあります」、と証言した当人が自分のアリバイをそれとなく強調している、ところが・・・、というアイディアで、本作以前に類例があるかどうかわからないが、本書の特徴は、アリバイを証明してもらった○〇のほうが、実は、証言者である犯人が殺人に出かけている間に、別の場所で犯罪を犯しており、証言者が嘘をついていることに気づく。そこで双方に、相手をかばう、ないしは牽制する理由ができて、これが犯罪を複雑化する、というところにある。他人のアリバイを証言する証人のアリバイが偽物だった、というトリック[ix]は、その嘘を証明するのが難しいが、本書では、アリバイを証言してもらった人間のアリバイも偽物だったことから、両者の間の駆け引きが始まり、探偵がそこに気づく、という展開になっており、その辺は巧みである。ただし、ひたすらややこしい。

 もうひとつの読みどころは、バンコランの探偵法で、本作でのバンコランは、快刀乱麻を断つ、というわけではない。相変わらずもったいぶって偉そうだが、ときに、自分に向けられた批判的言辞にむっとしたり、やられた、という態度も見せる。その辺りが、カーが、本書のバンコランは、「生きた人間になっている」、と自画自賛した所以なのだろう[x]

 何もかも見通したような態度で座を支配し、思わせぶりな発言で回りを煙に巻く。カーの探偵全員に共通する、こうした性格はこれまでどおりだが、初期の四作のような、こけおどしの悪趣味な振る舞いは影を潜め、穏やかで、ときに感情を滲ませた言動も見せるようになった。なぜか、姿を現わした途端に、捜査の陣頭指揮をとり始め、一体フランス警察はどうなってるんだ、と思うが、第八章で、早速、「犯人ならわかっていますよ」、と言い放つ[xi]。相変わらず、やらかしてくれますなあ、と思うが、実はこんなものではない。本書で、一番傑作なのは、次のバンコランのセリフだろう。このセリフが書きたくてバンコランを起用したのではないか、という気さえする。

 

  「さきに私は、犯人は名指しできるが、事件の全容を解明できていない、と申し上

 げたでしょう。そこへ運命の輪が動いて、世界が一転しました。マルブル荘事件の謎

 めいた全容は解明できますが、(世界最高のジョークではありませんか)犯人の名は

 わからなくなりました・・・・・・。」[xii]

 

 この後、バンコランは、実際に犯行現場で起こった事件の顛末を解明して、犯人を指摘するが、その人物は殺人犯人ではない、と言い出す。このときのバンコランの推理は、被害者の寝間着やら化粧クリーム、タオルなどの物的証拠を警察さながらに(いや、警察なのだが)、いちいち吟味して推論を重ねていく。いやに手堅い推理法を採っている。一方、犯人を指摘した後の推理では、関係者の何気ない発言や行動を組み合わせて事件を再構成する、いつものカーの得意技である。と、いうより、本書の場合、人物の動きによって事件が複雑化し、ねじれているので、いちいち論理的にそれを解きほぐすのは不可能に近い。結果的に、バンコランが到達した事件の再現図に手がかりをあてはめていくしかないのだろう。

 こうした捜査と推理を、例の韜晦とはぐらかしで進めていくのだが、どうも、本書でのバンコランは、カーがフランス人探偵っぽいと考えていたイメージに合わせて造形されているようだ。といっても、メグレ警視などとは似ても似つかないが、アルセーヌ・リュパンルコック探偵、何よりカー自身が創造した『一角獣の殺人』のガスケ警部のような印象なのだ。要するに、学者然としたフェル博士や豪放磊落なヘンリ卿と異なる、エスプリと洒脱さを感じさせる瀟洒な(身じまいはよれよれ、とあるが)探偵として描きたかったのではないか、と思われる[xiii]

 果たして、それでカー自身が満足したような「人間バンコラン」になっているのかどうか、疑問も残るが、本書の最後、古いカード・ゲームで、実質的な主人公カーティスが、莫大な金額を賭けて、ド・ロートレックと渡り合う。カーの大好きな「決闘」場面だが、最後のカードをめくる前に、犯人逮捕に至ってしまい、ゲームそっちのけとなる。裏返したままテーブルに残されていたカードが何だったのか、小説の最後はその確認場面で終わる。『蝋人形館の殺人』のラストを彷彿させるが、もう少し味わい深い。バンコランの最後の挨拶に相応しい幕切れといってよいだろう。

 

  「ラルフはあの小箱から一組のトランプを慎重に出して、おもむろに見にかかっ

 た。すぐ笑い出す。カーティスも笑った。バンコランだけは、椅子にくつろいで例の

 我慢ならないパイプを取り出しながら、一瞬だけ沈んだ顔になった。」[xiv]

 

[i] 『四つの凶器』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)、『四つの凶器』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2019年)。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、163-64頁、『四つの凶器』(創元推理文庫)、真田啓介による解説、359頁。

[iii] 『死時計』の22章で、バンコランの名が言及されているのは、次回作(『三つの棺』)の予告のつもりだったのだろうか。『死時計』(創元推理文庫、1982年)、377頁。グリーン前掲書、163頁参照。

[iv] グリーン前掲書、164頁。

[v] 『四つの凶器』(創元推理文庫)、359頁。

[vi] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、345頁。367頁。

[vii] グリーン前掲書、187-88頁。

[viii] グリーン前掲書、186頁、『四つの凶器』(創元推理文庫)、360頁。

[ix] 横溝正史『悪魔の降誕祭』で類似のトリックが用いられている。同長編(中編)は、1958年7月刊行の書下ろしだが、原型となる短編は、1958年1月に雑誌掲載。ハヤカワ・ポケット・ミステリ版の『四つの凶器』は1958年12月刊行なので、偶然の一致だろうか。ただし、横溝が原書を読んでいる可能性はもちろんある。

[x] グリーン前掲書、186頁、『四つの凶器』(創元推理文庫)、359頁。

[xi] 『四つの凶器』(創元推理文庫)、136頁。

[xii] 同、203頁。

[xiii] もっとも、これは、新訳の和邇桃子版が醸し出す雰囲気なのかもしれない。

[xiv] 『四つの凶器』(創元推理文庫)、352頁。バンコランが「沈んだ顔になった」というラストは、原文では”looked serious”で、やはり翻訳のムードは、訳者の持ち味によるものらしい。John Dickson Carr, The Four False Weapons (Collier Books, 1984), p.254.