J・D・カー『ニューゲイトの花嫁』

(犯人その他に触れています。)

 

 1950年、いよいよディクスン・カーの歴史ミステリが始まる。1934年にはRoger Fairbairn名義の歴史ロマンスDevil Kinsmere があり、1936年にはノン・フィクション『エドマンド・ゴッドフリー卿殺人事件』の出版があったが、謎解きを中心としたフィクションの歴史ミステリは『ニューゲイトの花嫁』(1950年)が最初といえる。

 カーの歴史ミステリは、A・デュマなどで培った、彼の歴史冒険小説好きが嵩じて始まった趣味的な創作と捉えられているが、最後に必ず付いてくる「好事家のための覚書」を見ると、極めて学究的なところが特徴で、完全なエンターテインメントでないのがカー流の歴史ミステリである。あるいは、カーには学術研究への志向というか、憧れがあって、知識をひけらかしたいという欲求があったのかもしれない。歴史ミステリに先立って、まず、歴史ロマンスの『デヴィル・キンズミア』と、純然たる歴史推理の『サー・エドマンド・ゴッドフリー』を書いているのは、その点からしても暗示的だ。本業のミステリから離れて、歴史ロマンスと歴史推理という、書きたくてたまらなかった小説を半ば余技として公表したものの、この時点では、二つの志向は分離していた。それらを弁証法的(?)に合一したものが1950年代以降の歴史ミステリだったわけだ。

 その最初の一作は、しかし、カーお気に入りのチャールズ2世時代ではない(次作の『ビロードの悪魔』で、王政復古時代が舞台となる)。より現代に近いナポレオン戦争終結の1815年を背景としている。まさにウォータルー(ワーテルロー)の戦いが起こった同年6月18日が重要な日付けとなるが、直接、ストーリーには関係しない。プロットの要となるのは、何といっても、上流階級の令嬢キャロライン・ロスが、祖父の遺産を相続するためだけに、死刑囚のリチャード・ダーウェントと結婚する、という奇想天外なアイディアである。恐らく、このアイディアが浮かんだ瞬間に、カーは、書ける、と思ったのだろう。歴史小説ならではの発端であり、カーらしいずば抜けた発想である。

 主人公とヒロインの二人も、いかにものカー作品世界の住人っぽい。ダーウェントは、フェンシングの師範だが、ある夜、怪しい覆面の御者に襲われ、貴族のフランシス・オーフォードの邸宅に連れていかれる。そこで、オーフォードの刺殺死体を見たダーウェントは、再び頭を殴られ、気がつくと、オーフォードの死体とともに、自宅近くの道端に倒れているところを発見される。殺人の罪で有罪となり、ニューゲイト監獄に収監されている彼のもとに、弁護士とともに現れたのがキャロラインである。彼女は、25歳の誕生日前に結婚することを条件に、祖父から莫大な遺産を相続できることになっている。ところが、それに不満な彼女は、絞首刑になることが決まっているダーウェントと結婚することで、独身の自由を謳歌しながらぜいたくな暮らしを満喫しようと企んでいるのである。

 しかし、当然予想されるとおり、ダーウェントの処刑は土壇場で取り消される。ここのアイディアが本書のもう一つの工夫で、近代以前の身分制度による貴族特権を利用したもので、ここで冒頭のナポレオン戦争終結が関わってくる。都合のよい偶然の活用ではあるが、作中、キャロラインが口にするように、戦勝による恩赦で解放されると読者に予想させておいて[i]、裏をかいて、爵位の継承と結びつけたところが秀逸である。そこは面白いのだが、ダーウェントが罪を着せられて死刑宣告されるまでの過程が、19世紀とはいえ、あまりに安易で杜撰な展開すぎるように思う。主人公が死刑を免れる方法の考案に苦心するあまり、冤罪で有罪判決が下されるまでの経緯がなおざりになってしまったようだ。

 ミステリの謎は、主人公が連れていかれた贅沢で豪奢に飾り立てた屋敷が、発見されてみると、とうに荒れ果てた廃屋となっている、というものだが、あまり冴えた解決ではなく、そちらのトリックには期待しないほうがよい[ii]。犯人の設定はというと、二段構えで、主人公を拉致した御者と殺人犯は別で、それぞれが、いかにも冒険スリラーで犯人になりそうな連中である。簡単にいえば、主人公の味方と思われた登場人物のなかに犯人が隠れている、というもの。

 というわけで、トリックもおざなり、犯人も定型的というわけで、一向映えない小説のようだが、そして、カー長編恒例の、回りくどく、思わせぶりな会話の応酬で読みづらくもあるが、物語としては面白い。その面白さは、ダーウェントとキャロラインの性格と、二人の関係の変転にありそうだ。

 ダーウェントは、この後の歴史ミステリでも登場するお馴染みのカー的ヒーローで、逆境にあってもへこたれない、誇り高く、腕の立つ伊達男である。しかし、いささか執念深く、キャロラインにいいように利用されそうになったことを根にもって、愛人の女優ドロシーを、病気(実は盲腸炎で、この時代には原因も治療方法もわからない)で苦しんでいることを口実に、キャロラインの邸宅に連れて来させる。おまけに、キャロラインが入浴中に浴室に乱入する、という素敵な場面が描かれる。

 キョロラインのほうも、獄中のダーウェントを訪問する際、ちゃんと彼は死刑になるんでしょうね、とか、指輪の交換はいらないでしょ、薄汚い囚人に触られるなんて、ごめんだわ、などと口走って、嫌な女全開であるが、我儘なお嬢様っぷりが際立って、いっそ清々しいくらいである。それに、えらそうな亭主のいいなりになるなんて我慢できないわ、などと言い放って、女権拡張論者のような口ぶりなのは、フランス革命後という時代背景を考慮してのことなのか、それとも、妻と娘たちという女性だらけの家庭で男一人だったカーが日頃聞かされ続けた愚痴だったのか[iii]

 とはいえ、ダーウェントが、ドロシーとキャロラインとの間で、ぐらぐら揺れ動くのは相変わらずで、キャロラインのほうも、ダーウェントを始めて見た瞬間から気になる風情なのは、こちらも恒例のカー的ロマンスで、はいはい、最後はそうなるよね、と、読者も、犯人は当たらずとも、二人の行く末ははずしようがない。最終局面、ドロシーの死をめぐって、二人の間に最大の危機が訪れるが、それが解消されて、めでたく大団円となる。

 あれっ、犯人は誰だったっけ、などと言ってはいけない。二人の末永い幸せを願って、私たちも本を閉じるとしようではないか。

 

 最後に蛇足。395頁に、「マームズベリー卿」という名前が出てきて、訳注で「イギリスの歴史家」と書いてある[iv]が、12世紀の歴史家であるウィリアム・オヴ・マームズベリは修道士なので、貴族ではない[v]フランス革命時代に活躍した外交官で、後のマームズベリ卿ジェイムズ・ハリス(1746-1820年[vi]のことだろう。

 

[i] 『ニューゲイトの花嫁』(工藤政司訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、27頁。

[ii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、382頁も参照。

[iii] 本書は、クラリスに捧げられているが、ひょっとして、キャロラインの人物造形は、彼女がモデルなのだろうか。いや、我儘な性格が、ではなく、自立心ある女性らしいところですが。

[iv] 『ニューゲイトの花嫁』、395頁。

[v] 原文では、Lord Malmesbury。John Dickson Carr, The Bride of Newgate (New York, 1986), p.240.

[vi] ウィキペディア:ジェームズ・ハリス(初代マームズベリー伯爵)。