J・D・カー『ビロードの悪魔』

(本書のほかに、アガサ・クリスティの『アクロイド殺害事件』、ヘレン・マクロイの『殺す者と殺される者』、エラリイ・クイーンの『盤面の敵』の真相に触れています。)

 

 1950年から始まったディクスン・カーの歴史ミステリのシリーズは、新世代のカー評価のなかで、高い人気を誇っている。

 もっとも印象に残っているのは、少々古いが、『ロンドン卿が落ちる』[i]が久々のカー長編として翻訳刊行されたとき、瀬戸川猛資が書いた解説である。そのなかで同氏は、『ニューゲイトの花嫁』、『ビロードの悪魔』、『喉切り隊長』、『火よ燃えろ!』の四作を代表に挙げて「正直なはなし、普通の本格物よりもこちらの方が、ぼくには全然面白い」[ii]、と断言している。瀬戸川を始めて意識した解説ということでも記憶に残っているが、まだ上記の諸作を一冊も読めなかった時期で、おおいに期待を抱かせられたものである。しかし、その後、カーの歴史ミステリをひととおり読んだ結果、現在では瀬戸川の意見には同意しかねる。もっとも、『ロンドン卿が落ちる』(1962年)自体は、個人的には好きな長編である。氏の解説にもかかわらず、同書は全然評判はよくないが。この作品を褒めた文章なぞ読んだことがない。

 話を戻すと、『ビロードの悪魔』[iii]の解説でも、山口雅也が、A・デュマなどと比較して、「カーの本書も、これら名作と比べて、なんら遜色のない出来ばえを示している」、と褒めているが、そして解説なのだから、誉めないわけにもいかないのもわかるが、果たして、そうかなあ。子どもの頃に読んだデュマの『三銃士』以下のダルタニャンもの-従って、ジュニア向けの翻訳だったかもしれない-のほうがはるかに面白かった思い出がある。もっとも、大デュマと比べたのでは、さすがにカーも赤面するだろう。しかし、私は、カーのパズル・ミステリのほうがデュマの歴史小説より「全然面白い」し、好きである。従って、三段論法で、カーの現代ミステリのほうが歴史ミステリより面白い。

 という前提のうえで、『ビロードの悪魔』(1951年)については、カーの歴史ミステリのなかでも一、二を争う傑作との評判が高い、そして、それには完全に同意する。さらにまた、本書は、カーの全長編のなかでベスト・テンに入れてもよい。こういっては何だが、ディクスン・カー最後の傑作ではないだろうか。

 作品は冒頭から、ミステリらしからぬ、いや戦後に書かれた小説とは思えないようなファンタジーで始まる。もっとも、舞台となるのは第二次大戦前の1925年である。ある夜、主人公のニコラス・フェントン教授は、同僚の娘であるメアリー・グレンヴィルに向かって、悪魔に魂を売って(!)、その代わりに、18世紀末のイギリスに転生するつもりだ、と告げる。過去に戻って、同名のニコラス(ニック)・フェントン卿に乗り移る、というのだが、SFとも、幻想小説ともつかないこのアイディア(恐らく、カーには両者の区別など、わかっていないのだろう)は、明らかに『ファウスト』から採ってきたもののようだ。ゲーテもギョエテっである。

 1675年(すなわち、作中の現代より250年前)、フェントン教授とメアリーが話をしている当の屋敷で、ニック卿の妻リディアが毒殺され、犯人が逮捕、処刑された。しかし、それを記した執事のガイルズの手記は肝心な箇所が失われており、犯人がわからない。フェントン教授は、自分なら、リディアの命を救い、犯人を明らかにできる、そのために悪魔と取引きをしたのだ、と話す。ミステリというより、幻想怪奇小説だが、さすがにカーの筆は、悪魔との取引きも子供だましにはみせない。読者の冒険心を捉えて、作中に惹きこむ語りの技巧をもっている。

 翌朝、目覚めたフェントン教授は、自分がニック卿となって、18世紀に生きていることに気づく。かくして、一か月後のリディア殺害の日までに、真相を突き止め、彼女の命を救うことはできるのか、というサスペンス・ドラマのごとき枠組みが出来上がり、毒殺トリックの解明に加えて、暗殺者との剣戟、暴徒集団との絶体絶命の対決、と波乱万丈、大衆冒険小説のお膳立てがすべて揃ったサービス満点のドラマが展開される。その一方で、チャールズ2世やシャフツベリー卿などの実在の人物が作中を闊歩、あるいは暗躍し、歴史小説としての側面も有している。もはやカー作品の準レギュラーと化したチャールズ2世王ばかりではなく、アイザック・ニュートンのような著名人が点景のように姿を見せ、まるで山田風太郎の明治小説である(カーのほうが早いが)。

 そして風太郎と同様、歴史小説としての本書は、カーの細密な描写によってリアリティを得ている。とにかく、主人公やリディアその他の女性達が何を身につけているのか-タイトルは、主人公がいつもビロードの服を着ていることによる-、室内の家具がどのようなものか、当時の生活慣習は、とか、しつこいくらいに書き込まれて、それが『三銃士』のようにはテンポがよくない原因である。しかし、最後の恒例の「好事家のための覚書」に作者が得々と書いているように、そこがカーのこだわりだから、読者は辛抱して付き合わなければならない。

 歴史小説としてのもうひとつの特徴は、1936年の『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』[iv]がそうであったように、宗教と政治をめぐる陰謀のドラマであることで、カトリックに寛容なステュアート王家と、大衆の反カトリック心情を反王室派の主張に結び付けたいシャフツベリー卿との対決が事件の背景となっている。そのなかで近づくリディア殺害の期限を間近に迎えて、フェントン教授は、同じく18世紀に転生していたメアリーことメグ・ヨークの住まいで、悪魔と再会を果たす。ここからのスリリングな展開は見事で、実は、前日の暴徒との戦いの疲れで日付けを一日間違えていた主人公が、必死に自宅に戻ると、リディアはすでに死んでいる。ショックで昏倒したニック卿が目覚めると、王の派遣した兵士達が現れ、卿はロンドン塔へと連行、幽閉されてしまう。リディア殺害の謎が解けないまま、王の真意をはかりかねていた主人公が、処刑の危機を免れようと脱出を企てる終盤まで、息も継がせぬ緊迫のシーンの連続となる。この畳み込みの手際はさすがである。

 最後、王からの手紙を携えたメグが、ニック卿ことフェントン教授に、リディア殺害の真相を告げるが、パズル・ミステリとしての『ビロードの悪魔』の最大の魅力は、この犯人の意外性にある。歴史ロマンスとしての面白さもさることながら、やはり本作が歴史ミステリのなかでも別格といえるのは、最後のこの大技にあるといってよいだろう。

 本書の犯人のアイディアは、いってみればアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』(1926年)のヴァリエーションともいえる。つまり、主人公の視点で描かれたミステリの犯人が主人公自身で、しかも彼は自分が犯人であることを知らない、というものである。

 主人公は、必死でリディアの命を救おうと奔走し、犯人の正体を明らかにしようと頭を絞る。それが主観的描写として描かれるのだが、それでいて、犯人が主人公だというのだから、普通のミステリでは成立しないアイディアである。しかし、冒頭の悪魔との取引きが、実は重大な伏線となっていたことに、読者は気づく。

 この手の話ではおなじみの悪魔の罠を避けようと、主人公が様々な条件を考え出し、要求するのに対し、悪魔は引き換えに、主人公が怒りで我を忘れると、十分間だけ、もとのニック卿の意識に支配される、という条件を持ち出す。実際に、この後の決闘の場面では、フェントン教授の意識が失われ、ニック卿が(逆に)憑依する場面が描かれている。非現実な前提であっても、最初にそれを世界観として提示しておけば、アンフェアにはならない、というSFミステリのルールにならって、トリックを仕掛けているわけである。

 上記の条件があれば、犯人がニック卿であっても、意外でも何でもないのだが、カーは、例によって、巧妙な、もしくはずる賢い手口で読者を煙に巻こうとする。主人公は、チャールズ王から、リディアが自分をシャフツベリー派に売り渡した、という(嘘の)情報を聞かされて、妻に対する激しい怒りに囚われるが、そこでニック卿の意識に憑りつかれる。しかし、その場面は主人公の主観で描かれるため、その後ニック卿が何をしたかは省略されている。意識が飛んだ、というわけである。『アクロイド』的な叙述トリックで、カー十八番のペテンではあるのだが、その常習的手口がもっとも効果的に使用されている、といえるだろう。

 本書の犯人のアイディアは、第二次大戦後に隆盛となる精神分析を扱ったミステリのうち、二重人格をテーマとした長編小説の発想に近似していると見ることができる。この手のミステリには、エラリイ・クイーンの『盤面の敵』(1963年)などがあるが、もっとも著名なのはヘレン・マクロイの『殺す者と殺される者』(1955年)だろう。これら諸作でも、犯人は自分が殺人者であることを知らない。もちろん、そこが意外性でもあるのだが、カーの本作は、同種のアイディアを、精神病理などとは無縁のアンリアルな手法で処理して、パズル・ミステリに仕上げた異色作といえるだろう。しかもマクロイより早いのだから、えらいものである。

 果たして、江戸川乱歩は本書を読んでいたのだろうか。もし、読んでいたとしたら、どのような感想をもっただろうか(『皇帝のかぎ煙草入れ』にあれだけ夢中になったのだから[v]、と思うと興味がわく)。無論、犯人の意外性だけが、本書の長所ではないし、むしろ、それ以外の部分に作品の魅力を見いだす人も多いことだろう。とはいえ、本作が、歴史ミステリの代表作という以上に、カーの傑作のひとつであることは、間違いないと言えそうだ。

 

[i] 『ロンドン卿が落ちる』(川口正吉訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1973年)。

[ii] 同、313頁。

[iii] 『ビロードの悪魔』(吉田誠一訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)、548頁。

[iv]エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』(岡 照雄訳、創元推理文庫、2007年)。

[v] 江戸川乱歩「イギリス新本格派の諸作」『幻影城』(光文社文庫、1987年)、136頁。