狐を嗅ぎ出せ-『フォックス家の殺人』

 『フォックス家の殺人』(1945年)は、『災厄の町』とともに、第二次大戦後のエラリイ・クイーンを代表する長編と見られてきた・・・日本では。

 戦後間もない随筆で、江戸川乱歩は、これら二編を取り上げて、クイーンの作風の変化の大きさに触れながら、『フォックス家の殺人』について、「殊に後者は全く挑戦のない、ごく地味なきめの細かい作風であって、一口で云えばクィーンが大人になったという感じである」[i]、と記している。これを受けてか、中島河太郎は、『災厄の町』を「ロス名義の作品に現れたあの重厚な作風となっている。ライツヴィルといういなか町の地方色をあざやかに浮かばせながら、登場人物の描写にも深味を見せ、意外性や動機などにも周到な用意があって、・・・地味ながらも彼の新しい傾向を示す力作である」、と激賞し、続けて「それは、『フォックス家殺人事件』(四五年)にも受けつがれており、クイーンの再生を語るものとして期待された」[ii]、と述べている。どうやら、クイーンは一度死んでいるらしい。

 これらの評論のせいか、クイーンの長編で読むべきは、『災厄の町』『フォックス家の殺人』まで、という一般的な評価が定着していたように思われる。

 ところが、フランシス・ネヴィンズ・ジュニアのクイーン伝が翻訳されて、風向きが変わった。『災厄の町』はクイーンの最高傑作と認められるが、それと比肩するのは『十日間の不思議』と『九尾の猫』で、その中間の『フォックス家』は、エアポケットに落ちたような印象だった。無論、「クイーンの作品中、真実探求の興奮をこれほどよく伝える作品は他にはない」、「知的昂揚のイメージがここにはある」、と一応称揚してはいるが、「登場人物がうまく描けているとはとうていいえず、他の作品に比べて文章もかなり平板、プロットの出来も劣っている」[iii]、と、よく読むと、全部駄目、と言っているような辛辣さである。その後に出た増補版では、こうした酷評はカットされたようだ。その代わりに、マンフレッド・リーの愚痴(フレデリック・ダネイに、うるさく指示されたことに対する)が紹介されている(リーには申し訳ないが、すごいおかしい)[iv]

 もうひとつ、ネヴィンズ・ジュニアは、はっきりとそうは口にしていないが、日米の評価に共通するのは、どうやら一言で言える。「地味」、ということらしい。

 確かに、クイーンの作品のなかでも、これ以上地味なものはないかもしれない。12年前に起きた殺人事件の調査に、エラリイが再びライツヴィルを訪れる。しかし、町を描くことが目的のひとつであったらしい『災厄の町』と比較すると、本書では、ライツヴィル、あるいはそこに住む人々はほとんど登場せず、物語はもっぱら一家族の間で進行する。果たして、ライツヴィルを再登場させる必要があったのかとも思うが、ネヴィンズ・ジュニアの解釈では、ニュー・ヨークではこのプロットはうまくいかない。過去の殺人事件の解決を扱う場合、人々の記憶と事件現場の保存が頼りとなるが、大都会では、それは現実的ではない。人々の記憶も犯罪の場も短い間に消失してしまう、というのである。逆に、事件解決に必要な情報収集のために、登場人物があまりに鮮明に事件の細部を記憶しているというのも本当らしくない。その辺を、クイーンは不自然でなく描いている、という。

 物語の焦点は、『災厄の町』同様、毒殺事件で、夫が渡したグレープ・ジュースを飲んだ妻が死亡する。疑いは、当然、夫にかかり、審理にかけられ、有罪が宣告され、今でも服役している。夫妻には、まだ幼かった息子がおり、彼デイヴィー・フォックスは、第二次大戦に参加して、歴戦の勇士となって故郷に戻ってくる。若妻リンダに迎えられて、ライツヴィルの名士となった彼だが、その精神は、戦闘中の友人の死によって、ひどく傷ついていた。トラウマは、殺人者の息子であるという事実と結びついて増幅し、デイヴィーは次第に妻との結婚生活に不安と恐怖を覚えるようになる。そして、ある夜、ついに彼は隣に眠る妻の首を絞めて殺しかけてしまう。

 という具合に、戦後、流行したニューロティック・サスペンスのような出だしで、デイヴィーが次第に精神を蝕まれていく過程が、クイーンにしては珍しく、じっくりと書き込まれている。リーが、これなら書きたいと思って、力を入れたのだろうか。ストーリーは、デイヴィーとリンダが、エラリイのもとを訪れ、父親であるベイアード・フォックスの無実の証明を求めるまでが第一部である。父の無実が証明できれば、デイヴィーの精神不安も解消されるのでは、というのが二人の希望なのだ。

 以下、第二部では、第一部の心理サスペンス的展開とうって変わって、毒殺トリックをめぐるディスカッションと相成る。これまでの毒殺テーマのミステリの総ざらえという感じで、突然、推理クイズのような話になって、この急展開には吃驚する。

 被害者ジェシカ・フォックスがどのようにして毒を飲まされたのか、エラリイはあらゆる可能性を俎上に載せるが、ベイアード以外を犯人とする推理はすべて否定されて、捜査は行き詰まる。物語も行き詰まって、このあと、第三部になると、突如、新しい証拠が発見されて、むしろベイアードの有罪が決定的になるやに思われる。

 この第三部の唐突さ加減は、読んでいてひっくり返りそうになる。本来、中編小説程度のプロットを長編に仕立てようとした苦心の策なのだろうが、あるいは、あまりに静的なストーリーにいくらかでも動きを与えようとしたのか。いずれにしても、これほどあからさまにプロットの引き伸ばしをはかった小説は初めて見た、いや、読んだ。まるで取って付けたようで、違和感丸出しである。要するに、この第三部はまったく必要ない。第二部のあとに、直ちに第四部に繋げれば、もっと短時間で読了できる。首尾一貫もしている。しかし、それでは、あまりにあっけなさすぎる、と作者も思ったのだろう。ジョルジュ・シムノンのメグレ・シリーズなみのヴォリュームになってしまう(悪口ではありません。私は、メグレものも大好きです)、と、考えたのか。

 しかし、第四部で、ピッチャーに残ったジュースの滓のあとから意外な推理が導かれ、意外な訪問者があったことが明らかになる過程は、いかにものクイーン調である。最後に明かされる真相も、クイーン自身の代表作(タイトルは挙げるまでもない)とかぶるが、これはこれで意外性充分である。

 もっとも、この犯人のアイディア、本来クイーンの独創ではないのはもちろんだが、1930年代の長編では、基本アイディアに卓抜なアレンジを施して、傑作に仕上げていた。『フォックス家』は、しかし、むしろ、このアイディアの原型に回帰したかたちになっている。つまり、練りに練った計画犯罪ではない。つまり、後から書かれた『フォックス家』のほうが、タイプとしては古い。これをどうとらえるかは、人によって異なるだろうが、本書のほうが自然だと感じる人はいるだろう。

 もう一点、本作のラストで、真相を聞かされたベイアードがエラリイに語る言葉は、ミステリの枠にとどまらない感動を読者に与えるが、批判的な見方もある。都筑道夫の発言が典型であろう。ベイアードが真相を隠したまま残りの人生を生きていく、と決意した場面をとらえて、それではなんの解決にもならない、と断じたあと、こう述べている。

 

  ・・・ライツヴィルものでクイーンはそれまでのパズル趣味の小説から、小説とし

 ての推理小説に歩み出した気で当人はいるらしいけれども、小説にはなってないんじ

 ゃないかと[v]

 

 言いますねえ、都筑先生。

 確かに、小説として考えると、都筑の言っていることの方が正しいのかもしれない。あるいは「論理的」に考えると。しかし、現実に、もし同じような立場になったとすれば、世の親たちの反応は、むしろベイアードに共感しそうであるし、また読者受けもよさそうである。

 ともあれ、本書は、クイーンの長編ミステリのなかでも、もっとも自然で無理のないプロットをもった作品といえるだろう。『十日間の不思議』以降の、無理ありまくりのヘンテコ長編と比べると、不自然さが少ない(構成はものすごく不自然だが)。その意味でもシムノン=メグレ風ミステリと言えるかもしれない。

 

 最後に蛇足を。小説のラスト、町の噂屋であるエミリーン・デュプレの姿を見かけたエラリイは、こうつぶやく。「あなたにも、ライツヴィルの誰にも、この秘密(殺人の真相のこと-筆者)は嗅ぎ出せるものじゃない」[vi]。うかつなことに、これまで気がつかなかったが、この「嗅ぎ出す」は、無論、タイトルの「狐」に引っ掛けたもので(「秘密を嗅ぎつける」-「狐の匂いを嗅ぎつける」)、原文もちゃんとsmell out[vii] となっている。いかにもクイーンらしい締めくくりかただが、どうも、作者は、この文章で小説を終わらせたくて、一家の名前をフォックスにしたらしい。そんな風に思えてきた。

 

[i] 江戸川乱歩推理小説随想」『随筆探偵小説』(1947年、光文社文庫、2005年)、327頁。

[ii] 『Yの悲劇』(鮎川信夫訳、創元推理文庫、1959年)、「解説」、429頁。

[iii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、184頁。

[iv] フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、201-202頁。(追記)読み返したら、「指示された」のは、「出版社に」だったようだ。

[v] 都筑道夫・二木悦子・中島河太郎・青田 勝「回顧座談会 クイーンの遺産」『ミステリマガジン』No.320(エラリイ・クイーン追悼特集、1982年)、126頁。

[vi] 『フォックス家の殺人』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)、386頁。一部改変。新訳のほうも、もちろん、同じような文章になっている。

[vii] Ellery Queen, The Murderer Is A Fox (Ballantine Books, 1973), p.232.