神は死して、神は去る-『十日間の不思議』

 『十日間の不思議』は、日本では「不思議な」運命を辿ってきた作品である。かつて、小林信彦が本書について、書評のなかで取り上げていた。少し長いが、引用しよう。

 

  「ポケ・ミスにして三百頁以上の厚さで、登場人物は四、五人しか出ないので、さ

 ぞかし面白いだろうと思ってよんでいったのですが、よみ終えて呆然とするような失

 敗作でした。このおよそ単純きわまる事件をクイーンのようなオツムのよろしい名探

 偵が「不思議な事件だ」という方がよっぽどフシギなのですが、読了するに及んで、

 わがE・クイーンがこういう小説を書いたことの方が、はるかにフシギに思われてき

 ました。(以下、略)」[i]

 

 パズル・ミステリとして読めば、当然、こういう感想になるだろう。主要登場人物は、エラリイを除けば、ライツヴィルの富豪ディードリッチ・ヴァン・ホーン、その妻のサリー、養子のハワードの三人。他にディードリッチの母親、弟のウルファートがいるが、いずれにしても、舞台はヴァン・ホーン家にほぼ限定され、容疑者たりうるのも以上の数人に過ぎない。一応、偽の解決と真の解決が用意されて、ミステリとしての体裁は整っているが、なんという意外な犯人だ、などと感激する読者はいないだろう。ただ、最後に述べている「こういう小説」が、「どういう」小説を指しているのかが興味深い。単純に結末のわかりきったミステリ、という意味なのか。それとも、本書の主題についてなのか。

 ともあれ、本書については、長い間、小林のような評価が一般的だった。『十日間の不思議』は、クイーンの衰えを顕著に示す作品で、同時に、その後、クイーンが変な方向に向かっていく第一作と捉えられていたように思う。

 その評価が百八十度ひっくり返ったのが、フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニアによる『エラリイ・クイーンの世界』が翻訳されてからで、まさに『殺人交差点』なみのどんでん返しだった。何しろ、「クイーンがやってみせるまで探偵小説とはとうてい両立しないと思われた次元の広がりを併せ持ったすばらしくも豊かな作品」であり、「汲めども尽きせぬ興味あふれる本」であって、「クイーンの作品のベスト六位以内に入ることは確実である」[ii]、というのだから、彼我の差には仰天せざるを得なかった。

 しかし、ネヴィンズ・ジュニアの評価には、パズル・ミステリとしてのそれは含まれていないようだ。いうまでもないことだが、上記の言葉は本書の型破りの主題[iii]に対する賛辞であって、小林の「こういう小説」という発言もそのつもりの意味なのかもしれない。

 で、その主題だが、もったいぶることもない。「十戒」である。

 しかし、このテーマは果たしてミステリのアイディアとして優れている、といえる類のものなのだろうか。

 確かに、ネヴィンズ・ジュニアのいうように、欧米の読者にとっては、「十戒」とミステリの結びつきは驚嘆すべきものなのかもしれない。が、旧訳の解説で鮎川哲也が述べたように、「異教徒(ペーガン)であるわれ等には、十誡がどうのこうのといわれても、ピンとくるものがない」[iv]、というのが本当のところだろう。鮎川がこれを書いたのは、半世紀近くも前のことだが、現在のミステリ読者が、この頃よりも欧米の宗教や歴史に関心を持つようになったとも思えない。果たして、現代のクイーン・ファンは、十戒殺人のアイディアを読んで、感動に打ち震えるのだろうか。それに、鮎川の解説は全体に奥歯にものが挟まったようで、クイーンの「筆力」が「傑出している」[v]ことは褒めているが、パズル・ミステリとしては・・・、と思っているらしいのが、ありありと見て取れる。

 また、ネヴィンズ・ジュニアの評伝では、「神学」とか「神々の戦い」といった言葉[vi]が用いられ、以後、本書を語る際に、クイーンの「神学テーマ」[vii]作品という形容が決まり文句のように付くことになった[viii]が、そんな大げさなものなのだろうか。真面目に論評することでもないのだが、別に、本書でキリスト教の教義の解釈をめぐって議論が戦わされているわけでもない。要するに、宗教をネタに使っているだけだろう。フレデリック・ダネイの書簡を読むと、「この十戒のテーマは、センセーショナルな題材だ」[ix]、と書いていて、(あたりまえだが)奇抜なミステリのアイディアとしてしか考えていない(ようだ)。

 むしろ、日本の読者にとって興味がわくとすれば、本書がパズル・ミステリのメタファーになっていることだろう。ミステリの名探偵は超人的な頭脳の持ち主たちで、しばしば「神のごとき名探偵」などと表現される(神津恭介という名探偵もいるくらいだ)。一方で、ミステリの犯人は、これはもう間違いなく小説中の神のような存在である。密室だったり、足跡のない殺人だったり、読者を混迷の渦に巻き込む謎の作り手なのだから。すなわち、パズル・ミステリは、「神のごとき」犯人と、「神のごとき」名探偵の覇権をかけた戦いを描く小説である。『十日間の不思議』は、そうしたパズル・ミステリの本質を、ある意味、グロテスクに誇張してみせた寓話、もしくはパロディといえる。ネヴィンズ・ジュニアが、本書について「神々の戦い(Theomachy)」と言っているのは、その意味かと思っていたのだが、違うのだろうか。

 もっとも、一神教ユダヤ教キリスト教では、「神殺し」[x]はあっても(いや、ないか)、「神々の戦い」にはならないはずだが、そしてこれはネヴィンズ・ジュニアによる言い回しに過ぎないのだが、熱心なユダヤ教徒だったというダネイにとって、本書のテーマはどのくらいシリアスなものだったのだろうか。十戒は、『旧約聖書』の話だが、もちろん、本書のディードリッチもハワードもキリスト教徒である。ユダヤ教徒のダネイには、キリスト教をミステリのテーマに取り入れることに抵抗はなかった、ということだろうか。学術的なテーマなど本書にはないだろう、といったが、本当のところ、ダネイは、このアイディアをどういう気持ちでリーに提示したのだろう。

 第一部の最後で、エラリイが真相(の一部)を解き明かすが、まるでエラリイ自身がモーセのごとき重々しさで推理を繰り広げるのに対し、聞かされたチャランスキイ検事らがきょとんとしているのを読むと、十戒殺人のアイディアにいきり立つダネイを、まあまあ、とリーが宥めているようにもみえる。書簡集を読んだ後では、いよいよこの感が強い[xi]

 ミステリとしての技巧の面に眼を向けると、本書の犯人は、「神のごとき犯人」のなかでもきわめつけの超越者で、人間を自在に操る。それはもう、「人形使い[xii]さながらであるが、実際には、ハワードの記憶喪失というか、夢中遊行という都合のよい設定を利用してのことである。この設定抜きでは、本書の犯人の企みも実行不可能で、墓荒らしの場面など、まさにそうである。ダネイもいろいろ苦心したのだろうが、神のごとき犯人にしては、少々せこい。他の工作に関しても、あまりにも犯人の計画通りに進んで、エラリイを含めた全員が操り人形のごとく行動するのは、やはり都合がよすぎる気もする。犯人の思惑通りには事件が進まないことによって謎が生まれる[xiii]、というのが、いわゆるモダン・ディティクティヴ・ストーリー[xiv]だろうし、要するに、不自然さの少ない方向にミステリは変化していった。すでに第二次大戦後のミステリで、このような超人的犯人が寸分の狂いもなく計画を遂行していくのは、ミステリの変化に逆行しているともいえ、はなはだしく人工的に見える。本書が、寓話ないしパロディ足らざるを得ない所以だろう。

 また書簡集からの情報になるが、「十戒殺人」を構成する一連の事件が陳腐であるというリーの批判に、ダネイが、平凡であることがリアリティを保持する、そうでなければ全体がファンタジーになってしまう[xv]、と説明しているのは頷ける。ダネイにしてみれば、本書を、人工的ではあっても、幻想ミステリではなく、あくまで日常の現実のなかで進行する象徴的な寓話として仕上げたかったのだろう。

 いろいろと批判的なことも述べてきたが、最後に、本書に対する個人的な好みをいうと、エラリイ・クイーンの長編小説のベスト・ファイヴに入る。なぜかというと、第二部の「十日間の不思議」が何とも言えず面白いからだ。それまでの前半は、確かに、平凡な出来事の連続で、正直退屈だが、長い後日談のような第二部は違う。本作あたりから顕著になる、短い文章を頻繁に改行して畳みかけていくスタイルが、見事に効果をあげている。エラリイが、サリーの名前のアナグラムに思い当たる場面などは、クイーンの小説のなかでも、もっともスリリングな箇所である。

 犯人との対決のシーンも、それまでの作品にない異様な熱気が感じられて(錯乱状態のエラリイにあてられたのかもしれないが)、引き込まれる。この第二部だけ、何度読みかえしたことか。まさしく、エラリイ・クイーンの最高傑作である(第二部限定だが)。

 さらに、本書の最後の文章も、すべてのクイーン長編のラスト・シーンのなかの白眉といってよい。ここだけは、見事に文学的だ(ちょっと、ヘミングウェイっぽいが)。

 

  「だが彼は、ヴァン・ホーン家の車道に足を下ろして、ライツヴィルまでの長い夜

 道を歩きはじめた。」[xvi]

 

[i] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、38頁。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、189頁。しかし、2013年の『推理の芸術』では、「最も興味をそそり、最も論議の的となったクイーンの本」というにとどめている。フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、243頁。

[iii] ネヴィンズ・ジュニアも最初に、「クイーンの作品中一番の異色作」と断っている。同、185頁。

[iv] 『十日間の不思議』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、417頁。

[v] 同、416頁。

[vi] 『エラリイ・クイーンの世界』、187-88頁、『推理の芸術』、245頁。

[vii] 「神学テーマ」というなら、相応しいのはG・K・チェスタトンの『木曜の男』だろう。『木曜の男』(吉田健一訳、創元推理文庫、1960年)、『木曜だった男 一つの悪夢』(南條竹則訳、光文社文庫、2008年)。江戸川乱歩「『不可能派作家の研究』-前田隆一郎君の広島大学修士論文-」『子不語随筆』(講談社文庫、1988年)、183-84頁参照。

[viii] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、70頁。

[ix] ジョゼフ・グッドリッチ編(飯城勇三訳)『エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947-1950年』(国書刊行会、2021年)、56頁。

[x] 『十日間の不思議』、407-409頁。

[xi]エラリー・クイーン 創作の秘密』、49-97頁。

[xii] ロバート・A・ハインラインSF小説のタイトル。

[xiii] 好例は、ニコラス・ブレイクの『野獣死すべし』(1938年)。

[xiv] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)。

[xv]エラリー・クイーン 創作の秘密』、56-57頁。

[xvi] 『十日間の不思議』、414頁。新訳は読んでいないので、青田訳から。