Bee Gees 1968(2)

〔2〕『ホリゾンタル』(Horizontal, 1968.2)

 黄緑色のジャケットの中央が楕円形に切り抜かれて、そのなかにメンバー5人の写真が埋め込まれている。鏡を模したデザインなのだろう。それが、アメリカ盤では、デザインは同じでも、鏡のなかの5人の姿が逆に映っている。つまり、鏡文字のように裏返しになっているのだ(完全な裏返しではなく、メンバーのポーズは微妙に異なっている)。初めから意図してのものなのか、もしそうなら、随分と細かな細工をしたものだ。日本では、いずれのジャケットでもなく、ステージでの演奏場面の写真が使われていた。バリーはギターを持たず、マイクのみを構え、モーリスはベース。ロビンがキーボード(電子オルガン?)を弾いているのが珍しい。タイトルも『マサチューセッツ』で『ホリゾンタル』ではなかった。

アルバム第2作の『ホリゾンタル』は、『ファースト』から7か月後の1968年2月に発売された。1960年代のビー・ジーズは、1年に2枚のアルバムをリリースし、第4作の『オデッサ』に至っては二枚組という旺盛な創作意欲を示したが、アルバムごとのイメージも大きく変わっている。『ホリゾンタル』は、アメリカ的な明るさをもった『ファースト』に比べ、イギリス的ともいえる重さと暗さを特徴とする[i]

 当時日本の雑誌に紹介されたコンサート評のなかで、『ホリゾンタル』のタイトルは「『幻想の世界に対する現実』、『サイキドリア(ママ)の否定』」[ii]を意味している、と書かれているが、そうだろうか?表題曲はむしろ幻想的な雰囲気だし、「サイキデリア」否定と聞くと、『ファースト』は何だったのか、という気にもなる。もっとも、『ファースト』はサイキデリック・ミュージックの影響は感じられるが、アルバム自体がサイキデリックというわけではなかった。

 アルバム全体のテーマがあるのかはわからないが、「ワールド」で始まり、同じピアノを基調として、同じく重厚な「ホリゾンタル」で終わる構成は、一種のコンセプト・アルバムと受け取ることもできる。ただし、日本盤では、大ヒットだった「マサチューセッツ」がA面1曲目で、一緒に「ハリー・ブラフ」もA面2曲目に移されて、そのあおりをくって「ワールド」「そして太陽は輝く」がB面に回されてしまっていた。

もう一つの特徴は、バリーとロビンの個性が強く出るようになったことで、全体を通じて、バリーの曲とロビンの曲というはっきりした色分けが感じられるようになった。それだけビー・ジーズというグループの特質が明確になってきたともいえる。

 

A1 「ワールド」

A2 「そして太陽は輝く」(And the Sun Will Shine)

 既発表シングルを別として、本アルバムのベストの一曲。ロビン・ギブの最高作の一つと言ってもよい。彼の楽曲の特徴である、トップから4分音符ないし2分音符で下降してくるメロディの典型で、これに近いメロディなら、誰でも書けそうだが、「近い」ではなく、「この」メロディに行き当たるのが才能というわけだろう。ドラマティックな歌唱をビル・シェパードのストリングスが抒情的に彩る。まさにタイトルどおり、かすかな明るさを感じさせるエンディングも感動的だ。

 ロビンによれば、デモのガイド・ヴォーカルをそのまま使った[iii]、とのことだが、確かに最初聞いた時には、歌詞が字足らずのように感じた。しかし、それがアドリブだったと聞かされると、驚かざるを得ない。その後もベスト盤に収録されるなど、シングル・ヒットではないが、彼らの代表作のひとつである。

 

A3 「レモンは忘れない」(Lemons Never Forget)

 ゆったりとしたリズムで、バラードかと思わせるが、案に相違して、ピアノとベースが乱打され、バリーが黒っぽいヴォーカルでシャウトする。ソウル風ポップといったところか。決してメロディアスではないが、とくにサビのヴォーカルは熱っぽい。聞き手の耳を引きつけ、引き込まれる快感がある。バリーの声にもフィットしている。

 彼らの話では、1967年にビートルズのマネージャーであるプライアン・エプスタインが亡くなり、ビートルズがアップルを設立する。「アップルを揶揄した」というのが、この曲らしい。確かに、「リンゴは愚かだが、レモンは忘れたりしない」(リンゴ・スターのことではない)と歌われるが、まさかそのような意味とは、想像の外だった。

 

A4 「リアリィ・アンド・シンシアリィ」(Really and Sincerely)

 ロビンは、1967年11月5日に起きたロンドン近郊のヒザー・グリーンでの列車事故に、後に妻となるモリーとともに巻き込まれた。二人は無事だったが、この事故の直後にロビンが書いたのがこの曲だという[iv]

 このエピソードからも何となく想像できるような、静謐な趣のバラードで、ここまでスローでマイナー調のバラードはこれまでになかった。ロビンのヴォーカルは哀切ではあるが、感情を抑えた淡々としたものだ。しかしサビの「ターン・ミー・ダウン」のところは、ほのかに明るさを感じさせる。フェイド・アウトしていくエンディングも余韻を残す。

 1968年のインタヴュー記事で、ロビンが一番好きな曲に本作を挙げていたが[v]、上記の逸話を知ると、なるほど、と納得する。

 

A5 「バーディは言う」(Birdie Told Me)

 またもやシンプルでわかりやすいナンバー。カントリー風だが、さほどあくはなく、バリーのヴォーカルもやけに可愛らしく聞こえる。

 16小節で1コーラスというタイプの曲だが、最後の3小節からそのまま冒頭に戻り、無限に繰り返されるかのような構成(実際は3コーラスで終わる)。とくに「バーディがぼくに言うには」のリフレインは思わず一緒に歌いたくなる、癖になるメロディだ。ヴォーカルに重なるギターの音色にも艶がある。

 最後は冒頭に戻って、しかしメロディを少し変えて終わる。一瞬の間を置いて奏でられるオーケストラも効果的だ。

 

A6 「瞳に太陽を」(With the Sun in My Eyes)

 A面ラストは、オルガンの荘重なイントロに始まり、オーケストラのみをバックに、バリーが落ち着いた声で温かみのあるメロディを歌う。全編、彼のソロによるバラード。同じ「太陽」でも、ロビンとはまた異なった味わいを感じさせる。いつもながら、ビル・シェパードのアレンジも見事だ。バリーの曲では、本アルバムのベストだろう。

 オルガンとストリングスのアレンジは聖歌風だが、どことなくポール・マッカートニーの影響も感じさせる。「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」あたりだろうか。

 

 Aサイドは、「ワールド」を除いて、バリーとロビンのほぼソロ・ヴォーカルによる楽曲で構成されている。バラード中心で、ロビンの「そして太陽は輝く」、「リアリィ・アンド・シンシアリィ」とバリーの「バーディ・トールド・ミー」、「瞳に太陽を」が対比的に並べられ、二人のヴォーカルや作風の違いを際立たせている。

 一方、Bサイドは、アップ・テンポないし、よりロック風の曲が中心になっている。またコーラスが強調されているのも特徴だろう。意図してのことかはわからないが、A面とB面でめりはりをつけようとした、とは言えそうである。

 

B1 「マサチューセッツ

B2 「ハリー・ブラフ」(Harry Braff)

 知人宅から戻った明け方に、ロバート・スティグウッドをたたき起こしてこの曲を聞かせたというエピソードが残っている[vi]。耳元で聞かせられる類の曲ではなさそうだが。

 上記のエピソードが物語るように、ユーモラスな曲調で、タイトルも”Hurry! Bluff”をもじったかのようだ。

アルバム中、もっともストレートなカントリー・ロック。ホーンなども加わっているが、何より3人のコーラスが強力だ。このタイプの曲で、ロビンがリード・ヴォーカルを取っているのも珍しい。

 オアシスのノエル・ギャラガーがこの曲のファンだともいう[vii]

 

B3 「デイ・タイム・ガール」(Day Time Girl)

 マイナー調のワルツ。この曲もビートルズの「シーズ・リーヴィング・ホーム」あたりに触発されたかのような印象を受ける。ビル・シェパードのストリングス・アレンジもクラシックっぽさを演出している。

 本作もコーラスが主体で、いかにもブリティッシュ・ポップといった作品だが、トラディショナル・フォークのようでもある。

 

B4 「アーネスト・オヴ・ビーイング・ジョージ」(The Earnest of Being George)

 わざと調子を外した間奏のギターや、散々繰り返されるブレイクなど、こちらもユーモラスというか、サイキデリック風味を残したかのようなナンバー。

 バリーによれば、ローリング・ストーンズミック・ジャガー)に影響されたというが[viii]、歌い方や曲調はビートルズ風とも感じられる。曲自体は単純で、これもまたギターのメローニィの顔を立てるために5分で作ったのだろう。

 しかしこの曲のタイトルは、オスカー・ワイルドの『真面目が肝心』(The Importance of Being Earnest)という喜劇をもじったものだというから[ix]、思いのほか文学的だった。

 この曲もオアシスのお気に入りだという(本当なのか?)[x]

 

B5 「変化は起こった」(The Change Is Made)

 本アルバムでは異色のソウル・ナンバー。ソウル風の楽曲は、「レモンは忘れない」のほか、前作でも「トゥ・ラヴ・サムバディ」、「誰も見えない」があるが、いずれもメロディ主体で、本作ほどリズム・アンド・ブルース色が強い曲は初めて。

 曲自体は例によってごくシンプルな8分の6拍子で、基本的に8小節の繰り返しからなる。このタイプはバリーが好むスタイルで、代表的なのは「スピックス・アンド・スペックス」だろう。この後も、『オデッサ』の「日曜日のドライブ」、『トゥー・イヤーズ・オン』の「はじめての誤り」など、同様の構成の曲は多い。

 ソウルフルなヴォーカルは、当時のレコード評でも絶賛されていた[xi]

 

B6 「ホリゾンタル」(Horizontal)

 本作は表題曲でもあり、アルバムを象徴する曲とも取れるが、歌詞の意味は掴みづらい。

 「僕は夢の枕の下に横たわっている。クリームのなかを泳いでいるような気分だ。これは終わりの始まり。さよならだ。自分の人生に向き合うとき、それをずっと嫌ってきたけれど。」

 「幻想より現実」といわれると、そのような気もするが、ピアノとメロトロンが要となったサウンドはどこか無表情で、ヴォーカルも冷めた印象だ。波が引くようにコーラスとメロトロンがフェイド・アウトしていくラストは、「ワールド」に対応している。アルバムがシリアスに締めくくられるのは、1968年という年には見合っているといえるかもしれない。

 

[i] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.165.

[ii] アーロン・スタンフィールド「ビー・ジーズがアンチ幻覚芸術コンサート」『ヤング・ミュージック』(1968年6月号)、100頁。

[iii] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

[iv] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, pp.150-53.

[v] 『ミュージック・ライフ』(1968年6月号)、80頁、同(7月号)、90頁。このインタヴューは、同年4月に星加ルミ子同誌編集長がロバート・スティグウッド宅で行ったものだという。6月号には5人の自筆原稿が掲載されたが、不鮮明だったので、翌月号に改めて日本語訳が掲載された。

[vi] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.166.

[vii] Ibid.

[viii] Idea (2006), p.9.

[ix] Horizontal (2006), p.11.

[x] Ibid.

[xi] 『ヤング・ミュージック』(1968年5月号)、173頁。

Bee Gees 1968(1)

6 「ワーズ」(1968.1)

1 「ワーズ」(Words)

 1968年最初のレコードは、前作と間違えそうなタイトルの「ワーズ」だった。

 「ワーズ」は「トゥ・ラヴ・サムバディ」と並ぶビー・ジーズ初期の代表作とされ、現在の評価は「マサチューセッツ」をもしのぐほどだが、全英チャートでは8位、全米では15位。イギリスでは「マサチューセッツ」、「ワールド」に続くトップ10ヒット、アメリカでは「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」以来、5曲連続のトップ20ヒットと、それまでの好調を維持したものの、全英1位の「マサチューセッツ」には及ばない。高い評価は、ひとえにカヴァー曲の多さにある。

 2010年からイギリスBBCで放送されているThe Nation’s Favouriteは、有名アーティストの楽曲の人気投票番組というが、2011年の第2回でビー・ジーズが取り上げられ、ベスト20が発表された。初期作品では、「ワーズ」が「マサチューセッツ」に次いで4位にランク・インしている[i]。これは明らかに、1996年にボーイゾーンによるカヴァーが全英で1位になったことが要因だろう[ii]。ほかにもエルヴィス・プレスリーを始め、無数の歌手、グループによってカヴァーされている。

 リスナー以上に、アーティストに人気の本作だが、曲自体はシンプルである。もっとも、初期の彼らの曲はシンプルなのが特徴だが、なかでも本作はその極みと言ってよい。なにしろ、「ラーラララララ」のワン・フレーズのみで、あとは高低を変えて延々とそれを繰り返すだけ。それほどシンプルなメロディを、これほどのエヴァ―グリーンにしてしまうのは逆にすごいことだ。バリーのお気に入りの曲であり[iii]、「トゥ・ラヴ・サムバディ」などと並び、コンサートでは必ず演奏されるナンバーである。

 サウンド面をみると、「ワールド」同様、ピアノ-モーリスのいう、硬く金属的な響きのcompressed piano[iv]-を基調にした曲で、流麗なストリングスをバックに、バリーが全編ソロで歌う。本作を、例えば、同じ1968年に全米1位になった大ヒット曲であるボビー・ゴールズボロの「ハニー」[v]と比較してみると、興味深い類似点と相違点がわかる。どちらもワン・フレーズを執拗に繰り返すシンプルなメロディのバラードで、タイプは似ている[vi]。しかし異なるのは、「ハニー」のほうが圧倒的に洗練されていることだ。まさに大人のバラードである。低音の落ち着いたヴォーカルを聞かせるゴールズボロ(1941年生まれ、1963年にソロ・デビュー)[vii]に対し、バリーは(英米では)まだ新人ヴォーカリストに過ぎないから無理もないとはいえるが、そればかりではない。意識的にマイクの近くで歌っているのか、吐息が聞こえるようなバリーのヴォーカルには生々しい魅力がある一方で、どうにも粗く聞こえる。演奏のほうも、スタジオ・ミュージシャンによるであろう「ハニー」に比べ、「ワーズ」は素人くさい。全米でのヒットの差は、曲だけではなく、レコードとしての完成度の差にあるといえそうである。

 このことからわかるのは、ビー・ジーズの「ワーズ」は、必ずしも完成された作品とはいえないということである。当時、雑誌のレコード評で「一寸、気がのらない」[viii]と評されたのもよくわかる。言い換えれば、本作はこの時期のビー・ジーズが自分たちで発表すべき曲だったかどうか、疑問が残る。この曲を活かすためには、もっと隙のない演奏とヴォーカルが必要だったのではないか。しかし、見方を変えれば、歌い手がいくらでも自分の個性を出せる曲であるともいえる。誰でも歌えるような曲で、プロのシンガーからすれば、歌いがいがないようにも思えるが、多くの歌手がカヴァーしているのは、シンプルであるがゆえに、いくらでもアレンジがきき、自分の色を出せる曲だからなのだろう。もちろん彼らの歌心を刺激する魅力的なメロディを持っているからこそであるが。バリー・ギブでなくとも、誰が歌っても素晴らしい歌唱になる。そうした普遍性をもった曲だと思う。

 

2 「シンキング・シップス」(Sinking Ships)

 まるで行進曲のような前奏からして、クラシック風の曲だが、アレンジャーのビル・シェパードが「美しく仕上げよう」、といって、そのとおりになった[ix]、とはモーリスの弁である。

 歌詞の内容は、『ポセイドン・アドヴェンチャー』か『エアポート75』か、パニック映画の一コマのようだが、曲調は明るく、ロビンとバリーが交代にリード・ヴォーカルを取り、サビのコーラスの最初をモーリスがリードする、というまさに3人のアンサンブルによる一曲。

 お遊びでつくったような曲だが、この頃の彼らならではの、軽いがちょっと記憶に残る作品のひとつ。

 

[i] Wikipedia: The Nation’s Favourite. 1位は「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」、2位は「ユー・ウィン・アゲイン」。

「ネイションズ・フェイヴァリット」の第1回はアバ。以後、第3回からはしばらくクリスマス・ソング特集などが続いて、第8回がエルヴィス・プレスリー、第10回がクイーン。2015年の第14回で真打登場のビートルズ。以後、カーペンターズジョージ・マイケルが続く。ビートルズは別格として、ロック・バンドがクイーンのみというところからわかるとおり、まさに(イギリスにはないが)お茶の間が選ぶ国民的アーティスト、といった印象の番組のようだ。

[ii] Boyzone, “Words” (1996.10).

[iii] フレッド・ブロンソン(守屋須三男監修、加藤秀樹訳)『ビルボード・ベスト・オブ・ベスト チャートが語るヒット・ソングの裏側』(音楽之友社、1993年)、75頁。

[iv] Melinda Bilyeu, Hector Cook and Andrew Môn Hughes, The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb (New edition, Omnibus Press, 2001), pp.164-65.

[v] ボビー・ラッセル(Bobby Russell)作。ビルボードでは1968年4月13日より5週間1位を記録。

[vi] ラッセルのもう一つの全米ナンバー・ワン・ヒット「ジョージアの灯は消えて」の原題が”The Night the Lights Went Out in Georgia”であるのは面白い。「マサチューセッツ」のアメリカでのタイトルは”(The Lights Went Out in) Massachusetts”である。

[vii] フレッド・ブロンソン(かまち潤監修、井上憲一他訳)『ビルボード・ナンバー1・ヒット 上』(音楽之友社、1988年)、239。

[viii] 『ミュージック・ライフ』(1968年6月号)、106頁。

[ix] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

Bee Gees 1967(3)

3⃣「マサチューセッツ」(1967.9)

1 「マサチューセッツ」(Massachusetts)

 ボストンは知っていても、ボストンを州都とするマサチューセッツの名を知っている日本人は少ないだろう。もっとも作者のギブ兄弟も知らなかったらしい[i]。17世紀の魔女裁判事件で知られるセイラムも同州の所在だが、よほどマニアックな人でなければ、興味はないだろう。そんなこともあってか、本作の日本盤ジャケットは、5人のメンバーの写真を枠で囲んで、そこから伸びた矢印が、左下のアメリカ地図のなかのマサチューセッツ州を指している、というものだった。

 イギリスでのサード・シングル(「スピックス・アンド・スペックス」を除く)で、彼らの出世作となった。イギリス、ドイツをはじめとするヨーロッパ各国で1位となり[ii]、日本でもオリジナル・コンフィデンスのチャートで洋楽としては初めて1位を獲得して50万枚を売った(ひょっとするとイギリスより売れたのではないか)[iii]アメリカでは11位止まり(ビルボード誌)だったが、初の世界的ヒットとなった。

 そうしたこともあって、本作はエピソードに事欠かないが、一番有名なのは、この曲の成り立ちで、ロビンが「マサチューセッツの明かりは、みな消えてしまった」というフレーズを思いついた。夜遅くになって、そのことをバリーに告げると、「知っているよ。メロディもできている」、と返された、という話である[iv]

 この超自然的交感の逸話は、「マサチューセッツ」がヒットし始めた1968年始め頃、日本でもすでに紹介されていて、コリンはこの曲は単純すぎて、あまり好きではなかった、とか、「これは、どこかへ脱出したいという人のことをいっているのだ」、というロビンのコメント、さらに「このグループがスタートしたときから、ビッグ・オーケストラでやりたいというのが全員の一致した意見だった」、といった発言も記事になっている[v]

 当時のフラワー・ムーヴメントに対するアンチ・テーゼだったということも、最近では知られるようになった。「マサチューセッツの街の灯はみな消えてしまった」という歌詞は、若者がみな西海岸のサン・フランシスコに行ってしまったことへの皮肉だというわけだ[vi]。そういった経緯はともかく、作曲の手本となったのは、確かにフラワー・ムーヴメントを象徴するスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ(San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair))」(1967年)だろう。ゆったりしたテンポやどことなくカントリー風のメロディも共通している。しかし、それ以上に注目すべきは、当時の日本盤シングル解説にあった「ウェスターン~フォスター風」という指摘である。ウェスタンというよりは、カントリーと言ったほうがよさそうだが、「フォスター風」というのは言い得て妙である。「スワニー河」や「オールド・ブラック・ジョー」のような4分音符と2分音符中心の単純なメロディで、誰もがすぐに覚えて歌える曲という意味で、確かにフォスターの書いた楽曲のようだ。同時にフォスターのように、これほどシンプルで、これほど琴線に触れるメロディを書けるのはやはり大した才能といえる。

 サウンドとしては、言うまでもなく「大編成のオーケストラ」が特徴だが、もう一つ、モーリスのべ―スの「ドン、ドン」という物憂い響きも印象的だった。本作は、日本のグループ・サウンズに影響を与えた曲のひとつで、タイガースの「花の首飾り」(1968年)[vii]あたりが連想されるが、フォーク・クルセイダーズの「花のかおりに」(1968年)という曲にもその影響がみられる。メロディやテンポだけではなく、ベースの音が明らかに「マサチューセッツ」を意識していると思われる。両曲とも「花」がタイトルについているのは偶然とはいえ、「フラワー・パワー」つながりなのだろうか。

 また、単純な曲だからこその細かい工夫もみられる。ロビンがメイン・ヴォーカルを取り、バリーが裏のヴォーカルというか、デュエットをしているが、2番の歌詞で、ロビンが「トライド・トゥ・ヒッチ・ア・ライド・トゥ・サン・フランシスコ」と歌うバックで、バリーが最後のリフレインの歌詞である「アイ・ウィル・リメンバー・マサチューセッツ」と歌っている。二人で違う歌詞を歌っているのだが、3番では、同様にバリーが上記のフレーズを歌っているときに、ロビンは「トーク・アバウト・ザ・ライフ・イン・マサチューセッツ」と歌う。最後の「マサチューセッツ」で、二人の声がぴったり重なるという趣向である。

 

2 「バーカー・オヴ・ザ・UFO」(Barker of the UFO)

 この曲は、長い間日本盤では聞くことができなかった。日本盤の「マサチューセッツ」のB面は「ホリデイ」だったからだ。しかも、アルバム『ホリゾンタル』には、「マサチューセッツ」は収録されたが、B面のこの曲は未収録だった。筆者は、1970年代半ばになって、輸入盤にこの曲が入っているのを見つけて購入したが、一聴して、買わなければよかった、と後悔した。・・・とまでは考えなかったが、レコード会社(日本グラモフォン)が「マサチューセッツ」のカプリングを「ホリデイ」に変更したのは賢明だった、と実感した。

 タイトルからしてノヴェルティ・ソング風だが、わずか2分弱。3つの別々のメロディを組み合わせて1曲にしたという印象。多分バリーは眠っている間に書いたのだろう。・・・まさかそんなことはないが、かといって、徹夜して書き上げたとも思えない。モーリスによれば、「実験的な時期」の作で、チューバと逆回転のシンバルが気に入っている[viii]、とのことだが、そのとおりのテープ操作等を施した、『ファースト』の残り物のような曲である。

 しかし、意外なことにバリーのお気に入りの曲らしい。自選ベストとも言える『ミソロジー[ix]のバリーのパートのなかに、この曲が選ばれているのを見たときは驚いた。「トゥ・ラヴ・サムバディ」や「ワーズ」、「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」などと一緒に、である。「レッティング・ゴー」が一番好きな曲の一つ[x]、と言っていたこともあるから、作者の好みというのはわからないものだ。

 

4 「ホリデイ」(1967.10)

1 「ホリデイ」

2 「ライオン・ハーテッド・マン」

 

5 「ワールド」(1967.11)

1 「ワールド」(World)

 シングルとしては初めてピアノがサウンドの基調となったのが「ワールド」である。

 いきなりピアノ(モーリスのいうところの”compressed piano”)とべ―スが連打されるイントロから一転して、バリーが落ち着いた声で「今、ぼくは気づいた」と歌いだし、ピアノがアルペジオを奏でるとオルガンがそれに続く。曲はABAの構成で、サビのコーラスから始まって、ヴァースを最初にロビンが、コーラスを挟んで、今度はバリーが歌う。最後のコーラスでは、一気に音が上がり、ロビンがソロを取ると、最後の最後にオーケストラが一気に押し寄せ、次の瞬間波のように引いていくと、曲もフェイド・アウトしていく。アップ・テンポではないが、スロー・バラードでもない。ピアノとオルガンがベースになっているため重厚なサウンドでクラシカルでもあるが、一方でこれまででもっともロック的ともいえる。

 それまでのシングルに比べ、ハードに映るのは歌詞のせいもある。「世界は丸く、毎日どこかで雨が降っている」、という歌詞は、この時代に流行った、いわゆるメッセージ・ソングを思わせる[xi]。当時モーリスは、「マサチューセッツ」と比べて、「ワールド」のほうが力を入れて作った、こっちのほうが好きだ[xii]、と述べている。

 全英では9位、全米ではシングル発売されなかった。アメリカでは「ホリデイ」がリリースされたため、「マサチューセッツ」の発売が11月にずれ込み、しかも1968年1月には次のシングルの「ワーズ」が発売予定だった。「ワールド」の入り込む余地がなかったのだ。これほど立て続けにシングルをリリースしたのは、新人グループの知名度アップのためだろうが、彼らがそれに応じられるだけの創作意欲に満ちていたことも確かだ。ちなみに「ワールド」と「ワーズ」のレコーディングは同日に行われた[xiii]。これもまた驚くべきことに映る。

 

2 「サー・ジェフリー」(Sir Geoffrey Saved the World)

 この曲も「ビートルズ的」な一曲。1968年発売当時から指摘されていたことだが[xiv]、明らかに「ペニー・レーン」を下敷きにしている[xv]。モーリスによれば、ベース・ラインがビートルズ的なのだそうだ[xvi]。しかし、曲自体が「ペニー・レーン」を真似ていることは、一目、いや一聴瞭然だろう。

 歌詞は、大気浄化法(1956年、1968年)についてだというが[xvii]、日本人には、はてな、だろう。A面が”World”で、B面が “Sir Geoffrey Saved the World”というのは、明らかに狙ってやっているのだろうが。

 それでも哀愁を帯びたメロディは単純ではあるが、悪くない。

 

[i] Bee Gees: The Day-By-Day Story, 1945-1972, pp.41-42. 「実は、僕らはマサチューセッツに行ったことはないんだ」(バリー)、「なんで初めに『マサチューセッツ』って思いついたのかわからないよ。綴りだって、よく知らなかったんだから」(モーリス)。

[ii] Craig Halstead, Bee Gees: All the Top 40 Hits (2021), pp.25-27.

[iii] イギリスでシルヴァー・ディスク、ゴールド・ディスク等の認定制度が始まったのは1973年からという。これまで、最も売れたシングルは「ステイン・アライヴ」で60万枚(プラチナ)。チャート上、「マサチューセッツ」と並んで、最大のヒット(4週1位)となった「ユー・ウィン・アゲイン」が50万枚(ゴールド)。ただし、これは出荷枚数によるもので、売り上げ枚数ではないらしい。Ibid., p.251.

[iv] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.142; Bee Gees: The Day-By-Day Story, p.50.

[v] 平山よりこ「ヒット曲物語」『ヤング・ミュージック』(1968年2月号)、123-24頁。

[vi] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, pp.141-42. さらに当時のロビンのインタヴューによると、アンチLSDという意味も含まれているのだそうだ。Bee Gees: The Day-By-Day Story, p.41.

[vii] 「花の首飾り」は、「マサチューセッツ」というより、「マサチューセッツ」と「ホリデイ」を合わせたような、といったほうがよいかもしれない。ヴォーカルの加橋かつみの声がロビンに似ているというのは、当時、結構有名だった。

[viii] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990.

[ix] Mythology: The 50th Anniversary Collection (2010).

[x] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990.

[xi] 政治的主張や社会性のある歌詞が必ずしも要件というわけではないが、ラスカルズの「自由への賛歌(People Got to Be Free)」(1968年8~9月に全米1位)などが代表例だろう。シュープリームスの「ラヴ・チャイルド(Love Child)」(1968年11月に全米1位)も同じ範疇に入れられていた感がある。

[xii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.143.

[xiii] 1967年10月3日。「瞳に太陽を」も同日録音。Horizontal (2006); Bee Gees: The Day-By-Day Story, pp.42-43.

[xiv] 『ヤング・ミュージック』(1968年)のレコード評。

[xv] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.166.

[xvi] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990.

[xvii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.166.

Bee Gees 1967(2)

〔1〕『ビー・ジーズ・ファースト』(Bee Gees 1st, 1967.7)

 1967年は、ジミ・ヘンドリックスやドアーズがデビューした年であり、クリームが人気を確立した年でもある。翌1968年になると、上記の三大グループがアルバム・チャートの1位を獲得して、全米アルバム・チャートはロック・バンドによって占められる時代が到来する。1964年のビートルズの登場以降も、アメリカのアルバム・チャートは、『ハロー・ドーリー』(1964年)のようなミュージカル、『メリー・ポピンズ』(1965年)や『サウンド・オヴ・ミュージック』(同)のようなサウンドトラック・アルバムがまだまだ1位の座を譲らぬ人気を誇っており、むしろビートルズのほうが例外的な存在だった。それが一変するのが1968年で、事実、同年のビルボード誌年間アルバム・チャートを見ると、1位がジミ・ヘンドリックスの『アー・ユー・エクスペリエンスト』、3位がクリームの『カラフル・クリーム』、7位が『ドアーズ』で、いずれも前年の1967年にリリースされた作品だった(ただし、3枚とも1位にはなっていない)。もっとも、1967年の最大のヒット・アルバムはモンキーズの『モア・オヴ・ザ・モンキーズ』(18週連続1位)である。

 ポップ・ロック・ミュージックの世界がこのような状況にあったことを踏まえたうえで、それでも、やはり1967年は『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の年だった、と言わなければならないだろう。

 『ビー・ジーズ・ファースト』もそうした『サージェント・ペッパーズ』の年の空気感を色濃く漂わせている。『ファースト』の発売は『サージェント・ペッパーズ』がリリースされた1967年6月の翌月で、直接の影響はなさそうだ-ビー・ジーズのマネージャーであるロバート・スティグウッドがブライアン・エプスタインの経営パートナーだったので、様々に影響はあった-が、ビートルズが1966年の『リヴォルバー』から発展させたサイキデリック・ミュージックと1967年のフラワー・ムーヴメントがこの年の音楽動向を決定づけており、その影響が『ファースト』にも及んでいる。しかし、より直接的な影響は、この年の1月に発表された「ペニー・レーン/ストロベリ・フィールズ・フォーエヴァー」だったのではないかと思われる。『ファースト』の何曲かにその影がちらつく。

 『ファースト』は、このような1967年のポピュラー・ミュージックの世界の状況下で、ポップでありながらも実験的なアルバムと受け取られた形跡があり、デビュー曲の「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」がひと癖ありそうなタイトルと歌詞だったことも重なって、ある意味でアメリカのリスナーを誤解させた可能性がある。『ファースト』が、先行するシングル2枚がいずれもトップ10に届かなかったにも関わらず、ビルボード誌の7位まで上昇したのは、ビートルズ以下の革新的なブリティッシュ・ロック・バンドのニュー・フェイスと早吞込みされた結果だったとも考えられる。

 その後、トップ・テン・シングルを生みだすようになっても、ビー・ジーズのアルバムは1970年の『キューカンバー・キャッスル』まで全米チャートでの順位を下げ続けていくが、これは、ビー・ジーズの実体が先進的なロック・バンドではなく、むしろ伝統的なポップ・グループに近いことがわかってしまったからではなかろうか。

 1967年から翌年にかけては、前述のモンキーズの世界的な人気爆発のせいでか、英米でも多くのポップ・ロック・グループが人気を博した。モンキーズ以前にデビューしていたタートルズがナンバー・ワンとなった「ハッピー・トゥゲザー(Happy Together)」を始めとしたヒットを放ち、1967年末にはカウシルズの「雨に消えた初皓(The Rain, the Park and Other Things)」が、翌1968年にはユニオン・ギャップの「ウーマン・ウーマン(Woman, Woman)」以下の諸作が大ヒットした。イギリスでは、デイヴ・ディー・グループ(デイヴ・ディー・ドジー・ビーキィ・ミック・アンド・ティッチ)がトップ・テン・ヒットを連発していた。ビー・ジーズはすべての楽曲を自作していた点で、これらのグループとは一線を画するが、広く捉えれば、こうしたポップ系のグループに括られる存在だった。ビートルズのアップル・レコードから1968年にデビューしたアイヴィーズや、同じくジョン・レノン命名したことで話題となったグレープ・フルーツは、ビー・ジーズを意識したようなバンドだったが、もはや時は上記のように、ロック・アルバムの時代へと大きく転換しており、先述のグループほどの人気は得られなかった(アイヴィーズは、バッドフィンガーに改名した後、70年代に人気を獲得する)。

 いずれにしても、『ファースト』はロック・バンドともポップ・グループともつかぬ5人組のデビュー・アルバムとして1967年7月、全世界に向けて発売された。

 ちなみに、『ファースト』のアルバム・ジャケットは、ビートルズの『リヴォルバー』のデザインで有名なクラウス・ヴォアマンの制作で、これもビートルズとの繋がりによるものだろう。ジャングルをイメージしたようなイラストの上部にメンバー5人の写真を配したもので、このジャケットもいかにもサイキデリック風だった。但し、日本盤のジャケットは、当時使いまわされていた、5人が一塊になって腰を下ろしている写真が使用されている。バックは明るいクリーム色で、The Bee Gees Firstのロゴと5人が座る花のイラストが少しばかりサイキデリック調だった(定価は1750円)。

 

A1 「ターン・オヴ・ザ・センチュリー」(Turn of the Century)

 アルバム1曲目は、イントロや間奏の管楽器とテンポが「ペニー・レーン」を思わせるナンバー。「ペニー・レーン」ほど格調高くはないが、素晴らしく印象的なメロディを持つ曲である。とくにサビのコーラスのスリリングなハーモニーが胸を打つ。

 一方、歌詞は、ファースト・シングル「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」を意識したものか、新人ポップ・グループのデビュー・アルバム1曲目にしては奇抜すぎる。「タイム・マシンを買って、19世紀末へと出かけよう」、UFO好きを公言しているバリーの趣味か、歴史が好きなロビンの嗜好か。どちらにしても、バリーが1番を歌い、ロビンが2番を歌う。そして2人が息の合ったヴォーカルをデュエットする3番とそこにかぶさるバック・コーラスの厚みとダイナミックな展開は、歌詞のあれこれを忘れさせる。

 間奏中にかすかに聞こえるノイズはタイム・マシンの操作音を模したものか。細かな遊びが、いかにも1967年的である。

 

A2 「ホリデイ」(Holiday)

 「ターン・オヴ・ザ・センチュリー」に続き、美しい旋律を持った曲が登場する。既発表シングルを別として、アルバム用の新曲のなかで最もメロディが印象的な2曲を最初に続けて置いたのは、新人グループの戦略として正しい。

 前曲同様のブリティッシュ・ポップらしい曲だが、こちらはトラディショナル・フォークの風味が強い。ロビンがアルバムの解説で「オートハープと兄弟3人だけ」[i]、と言っているが、確かにシンプルな楽器編成で、オルガンとベースに、サビのコーラスのところでマーチ風のドラムスが入るだけ。それだけにロビンのヴォーカル[ii]とストリングスの美しさが際立っている。

 歌詞は相変わらず意味不明。「君は休日。・・・操り人形が君を笑わせるなら、それは意味のあること。でも駄目なら、君は石ころを投げ続けている。」

 シーカーズのアソル・ガイは、「マサチューセッツ」は最初彼らがレコーディングするはずだった、という裏話(?)を紹介し、さらに付け加えて、「私はビー・ジーズが好きだ。彼らは素晴らしいバンドだよ。だけど彼らが最初に書いていた何曲かの歌詞は、・・・うーん・・・ありゃどういう意味だい」[iii]、と述べている。本作はアメリカでのサード・シングルだが、よくこんな歌詞の、しかもマイナー調のアメリカ向きとも思えない曲をわざわざシングル・カットしたものだ。そういえば、この後も同じく歌詞が意味深長な「アイ・スターテッド・ア・ジョーク」をシングル・カットしている。しかもどちらの曲もヒットになった(16位と6位)。アメリカ人は、歌詞など気にしないのだろうか。

 とはいえ、同じく歌詞のわからない日本でも、本作はビー・ジーズの代表作とされてきた。「マサチューセッツ」のB面としてカプリングされ、大ヒットになったからだ。当時日本で絶頂期だったグループ・サウンズでも盛んに取り上げられたことも後押しになった。古いファンにとっては、「マサチューセッツ」とともに、もっとも懐かしい曲である。

 

A3 「思い出の赤い椅子」(Red Chair Fade Away)

 3曲目は、いかにもこの時代ならではのサイキデリック風ポップ・ソング。調子外れに下っていくメロトロンや吹き鳴らされる管楽器がそれらしい雰囲気を醸し出している。そして妙な明るさと歯切れのよい歌声。3拍子と4拍子を組み合わせたテンポもどこか不可思議で、意図して作られたサイキデリック・ポップといった趣である。

 歌詞もそのとおりで、「遠くへと消えていく赤い椅子が思い出をよみがえらせる。何か素敵なことを考えてごらん。香しいレモンの木とか。空が語りかけるのを感じる。知りたくなんかないな。それが空気を満たしていくのを。」

 まさに感覚だけの歌詞だが、曲は親しみやすく、わかりやすい。まるで童謡のようで、それもまたサイキデリックらしいのかもしれない。

 

A4 「ワン・ミニット・ウーマン」(One Minute Woman)

 4曲目にして、初めてまっとうなラヴ・ソングが登場する。流麗なストリングスのイントロに続き、地味だが、これもまた美しいメロディのバラードをバリーが切々としたヴォーカルで歌う。「マサチューセッツ」でおなじみになる「ドン・ドン」というベースのフレーズを、モーリスが一か所だけ奏でる。

 2006年に公開された初期ヴァージョン[iv]は、もっとラフで、バリーとロビンのトウィン・ヴォーカルもぶっきらぼうというか、ロック・バンドのバラードっぽいとは言えるかもしれない。

 早くからカヴァーされるなど[v]、小品ながら隠れた佳曲の一つだろう。

 

A5 「イン・マイ・オウン・タイム」(In My Own Time)

 本アルバムで唯一のストレートなロックン・ロール・ナンバー。味もそっけもない単純なメロディの繰り返しとコーラスのみ。察するに、ヴィンス・メローニィのギター・ソロをフィーチュアすることだけが目的で作られたもののようだ。

 ・・・と、思っていたが、最近発売されたデビュー当時のライヴ・パフォーマンスを集めたCD[vi]を聞くと、この曲が毎回のように取り上げられて、幾つものライヴ・ヴァージョンが残っている。もちろんライヴ用の曲として作られたのが明らかなので当然のことだが、それらを聞くとサイキデリック風なヴァージョンもあり、この曲のアレンジをいろいろと試しながら工夫していたらしいことがわかる。そう考えると、当時の彼らには、やはりこういった曲が必要だったのだろう。

 

A6 「ライオン・ハーテッド・マン」(Every Christian Lion-Hearted Man Will Show You)

 『ファースト』のなかでも一番の異色作。

 タイトルからして宗教的というか歴史的だが、曲も教会音楽のようなコーラスで始まり、単純だが幻想的な広がりのあるヴォーカルとコーラスが続く。といっても、アレンジもシンプルで、曲自体はフォーク・ロック風である。最後の掛け合いコーラスが印象的。

 「オー・ソロ・ドミニク」にかぶさるメロトロンの音色も「思い出の赤い椅子」同様のサイキデリック風で、フェイド・アウトしていくドラムスの、ライオンが歩き去っていくかのようなラストも視覚的だ。歌詞はまたまた感覚的だが、この曲の雰囲気には合っている。

 その後のクラシカル・ポップ風の作品に繋がっていく曲とも取れる。そういう意味では、彼らの個性が発揮されており、『ファースト』のハイライトの一曲になっている。

 

 A7 「ロイヤル・アカデミー・アーツのクレイズ・フィントン」(Craise Finton Kirk Royal Academy of Arts)

 A面最後は、モーリスのピアノのみをバックにロビンが歌う、ノヴェルティ・ソング調の曲。モーリスのピアノが全面にフィーチュアされた初めての曲。

 ロビンには、その繊細な(神経質な?)イメージと異なる、こうしたひょうきんな曲が時々あるが、それもまた彼の好みなのだろう。風刺的な歌詞も含めて、前曲同様、いかにもブリティッシュ・グループらしい趣味的なナンバーでもある。これもまた「サージェント・ペッパーズ」的な一曲といえるかもしれない。

 

 最初はメロディを前面に打ち出し、後半はちょっとひねった楽曲を並べる。ヴァラエティに富んだ構成でA面は終わる。

 アルバムB面は、既発表シングルを中心として、その間を新曲が埋める構成を取っている(B1「ニューヨーク炭鉱の悲劇」、B3「ラヴ・サムバディ」、B5「誰も見えない」、B7「クローズ・アナザー・ドア」)。

 このアルバム構成は、ビートルズのデビュー・アルバムを想起させる。ビートルズの『プリーズ・プリーズ・ミー』(1963年)は14曲入りで、既発表シングルをA面最後に2曲(「アスク・ミー・ホワイ」と「プリーズ・プリーズ・ミー」)、B面頭に2曲(「ラヴ・ミー・ドゥ」と「P・S・アイ・ラヴ・ユー」)配していた。曲数も同じ14曲で、並べ方は異なるが、『ファースト』の機械的な配置は、明らかにビートルズを意識しているように見える。ギブ兄弟が、ビートルズの楽曲に影響されていたのと同様に、ロバート・スティグウッドもビートルズのアルバムを十分に意識してビー・ジーズをプロデュースしていたのだろう。

 

B1 「ニューヨーク炭鉱の悲劇」

B2 「キューカンバー・キャッスル」(Cucumber Castle)

 3拍子のミディアム・テンポのポップ・ソングだが、この曲も「ペニー・レーン」の影響を感じさせる。物語風の歌詞もそうで、「そこには林があった。今は草地だ。ピンカートン探偵社の調査員はこう言った。『この場所を私は調べるつもりだ。』そして彼はそうした。・・・きゅうりの城、どんなにみすぼらしくとも、そこが我が家だ」。・・・あまり物語風ではないか。

 相変わらずメロディは美しい。とくに中間部の「地下室の明かりが、見つめる彼の眼に映っていた。でも、その朝早く、彼は驚くことになる」のノスタルジックな旋律が耳に残る。

 この曲の不思議な明るさは、「思い出の赤い椅子」やこの後の「アイ・クローズ・マイ・アイズ」にも共通するが、アメリカのマーケットを意識したものだろうか。ライヴの演奏には向かないような曲だが、意外に多くのライヴ・ヴァージョンが残っている[vii]

 

B3 「ラヴ・サムバディ」

B4 「アイ・クローズ・マイ・アイズ」(I Close My Eyes)

 冒頭ドラムから始まるが、「イン・マイ・オウン・タイム」のメローニィ同様、コリン・ピーターセンをクローズ・アップしようとしたのだろうか。

 わかりやすい歌詞とわかりやすいメロディ。やたらと陽気で軽快で、翌1968年に一世を風靡したバブルガム・ミュージックのようだ。その後のビー・ジーズらしくはないが、シングル向きともいえる。

 

B5 「誰も見えない」

B6 「プリーズ・リード・ミー」(Please Read Me)

 これもまたシンプルでキャッチーなメロディのコーラス・ナンバー。中間のスキャット・コーラスでモーリス(?)がビーチ・ボーイズ風のファルセットを披露している。

 さりげない曲だが、アルバムの最後から二番目になっても、こうしたポップでメロディアスな曲を入れられるのは、この時期の彼らのメロディ・メイカーとしての充実ぶりを物語る。

 

B7 「クローズ・アナザー・ドア」

 

 『ファースト』は、『サージェント・ペッパーズ』の年、サイキデリックの年の空気を受けて発表された。しかし、先行シングル2枚の4曲はいずれもサイキデリックとは無縁の曲だった。効果音のようなギミックにしても、彼らはあまり好意的な発言を残していない[viii]。また、本作には比較的バンドらしい楽曲が多く収録されているが、2枚目以降、段々とそうした特徴は薄れて、ある意味ビー・ジーズらしさが強まっていく。彼らとしては、最も実験的で、最もロック・バンド的志向が強かったのが本作だったのかもしれない。

 

[i] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

[ii] 最初の8小節のみ、バリーがヴォーカルを取っていることに何十年かたってようやく気づいたが、これはロビンが最初の音を取りにくかったからだろうか。

[iii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.141.

[iv] “One Minute Woman” (Early Version) in Bee Gees 1st, 2006.

[v] ビリー・フューリィ(1968年)およびジャック・ロマックス(1967年)によるカヴァーが次のアルバムに収録されている。Bee Gees Songbook: The Gibb Brothers by Others (Connoisseur Collection, 1993); Words: A Bee Gees Songbook (Playback Records, 2020).

[vi] Rarities 1960-1968 (2018), Mrs Gillespie’s Refrigerator (2018), Spick and Span: The Bern Broadcast 1968 (2019).

[vii] Rarities 1960-1968 (2018), Mrs Gillespie’s Refrigerator (2018).

[viii] Andrew Sandoval, Bee Gees: The Day-By-Day Story, 1945-1972 (Retrofuture Day-By-Day, 2012), p.55.

Bee Gees 1967(1)

1⃣「ニューヨーク炭鉱の悲劇」(1967.4)

1 「ニューヨーク炭鉱の悲劇」(New York Mining Disaster 1941)

 ビー・ジーズ英米初登場曲[i]は全英12位、全米14位。とくに米ビルボード誌の14位は新人グループとしては上々と言えるが、全米での鳴り物入りのデビュー、しかも当初はビートルズの新曲と勘繰られた、という有名な逸話[ii]が本当なら、期待したほどではなかったのかもしれない。

 本作は、その後のビー・ジーズの楽曲と比較すると、典型的な作品とは言えない。持ち味である感傷的なメロディとは異なり、どちらかといえばドライなタッチのフォーク・ロックである。曲構成は、この時期によく見られた16小節で完結、それを3度繰り返すもので、日本でもこのような構成の歌謡曲が多かった。但し、16小節で歌われるのは2番だけで、1番と3番は2小節少ない。2番「みんな死んでしまったと思って」に当たるパートが1・3番では省略されるという芸の細かさを見せている。

 それにしても「ニューヨーク炭鉱の悲劇」というタイトルは相当に意表を突いている。当時バリー・ギブは20歳、ロビンとモーリス・ギブは若干17歳。日本なら、アイドル・グループとしてデビューしてもおかしくないし、実際、デビュー当時はイギリスでもアイドル扱いされていた。しかし、日本のアイドル・グループが「足尾銅山の事件」のようなタイトルの曲でデビューするだろうか。英米の代表的ロック・バンドのデビュー曲を見ても、ビートルズが「ラヴ・ミー・ドゥ」(1962年)、ビーチ・ボーイズが「サーフィン」(1961年)だった。もちろん時代背景が異なるわけで、1967年4月までには、ビーチ・ボーイズは「グッド・ヴァイブレーションズ」(1966年)を、ビートルズは「ペニー・レーン/ストロベリ・フィールズ・フォーエヴァー」(1967年)をすでにリリースしている。プロコル・ハルムが「青い影(The Whiter Shade of Pale)」でいきなり全英1位を獲得したのもこの年のことだ。ロックがシリアスになり、思索的な歌詞が当たり前の時代が訪れていた。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」もこの時代だからこそのタイトルだったのであり、むしろこのような奇抜なタイトルと歌詞でこそ、あわよくばヒットが狙えると見込んだのだろう。

 発表ヴァージョンは、ギブ兄弟のハーモニーを強調して、バックはベース、ギター、ドラムスのシンプルな構成に、申し訳程度のストリングスを加えたものだったが、2006年に未発表曲を含めて再リリースされた『ビー・ジーズ・ファースト』には、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の未発表初期ヴァージョンが収録されている。オーストラリア時代から、オーケストラを使うのが夢だった、というバリーの言葉通り[iii]、ストリングスを大胆に強調したドラマティックなヴァージョンである[iv]。しかし、兄弟のハーモニーを全面に打ち出したかったマネージャー兼プロデューサーのロバート・スティグウッドが、シンプルなヴァージョンにするよう指示した[v]、というが、後年、ロビン・ギブがソロ・ライヴで披露したヴァージョン[vi]がオリジナルに近いクラシカルな大作風になっていたのを見ると、彼らがもともとやりたかったのは、フォーク・ロック風ではなく、バロック・ポップ風の「ニューヨーク炭鉱の悲劇」だったようだ。

 とはいえ、ヴァニラ・ファッジに似たバンド、ヴェルヴェット・フォグのサイキデリック/ハード・ロック・ヴァージョン[vii]も意外に合っているように、どのようなアレンジでも原曲のよさは変わらない。その後のビー・ジーズらしくはないが、この曲もデビュー曲にして彼らの代表作のひとつに数えられるだろう。

 

2 「誰も見えない」(I Can’t See Nobody)

 B面曲だが、「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」に劣らぬ、いやそれ以上の力作と言ってよい。演奏時間も、「ニュー・ヨーク炭鉱」が2分強なのに対し、「誰も見えない」は4分近い。『オデッサ(1969年)以前では最も長い曲なのだ。『ファースト』のなかでは、唯一オーストラリアで書かれたというが[viii]、セカンド・シングルの「トゥ・ラヴ・サムバディ」にタイトルも構成も似ているのが面白い。”I Can’t See Nobody”と”To Love Somebody”。ロビンとモーリスならぬ、バリーとロビンのヴォーカルによる「双子」のような楽曲である。いずれも8小節のヴァースを2度繰り返してから8小節-後者は7小節だが-のサビのコーラスで完結する構成で、ただし、「トゥ・ラヴ・サムバディ」は2番まで、「誰も見えない」は3番まである(3番は、さらに11小節長い)。両曲ともヴァースをバリーとロビンがそれぞれメロディを少しずつくずしながら歌い、サビの部分は厚いコーラスでドラマティックに盛り上げる構成である。

 しかし似ているようで、まったく違うのは二人のヴォーカルで、「誰も見えない」のロビンは彼らしい哀愁を帯び、いささか悲壮感が過剰なほどシャウトして歌い上げている。

 この似ているようで似ていない2曲が、それぞれロビンとバリーの主導で書かれたのだとすると、具体的な作曲のプロセスが知りたいところだ。なぜ、これほどサビのメロディも構成も似かよっているのに、最終的な印象がむしろ正反対なのだろうか、と。

 「トゥ・ラヴ・サムバディ」との比較はさておいて、本作は「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」と甲乙つけがたい佳曲で、ファースト・アルバムのハイライトの一曲でもある。その後、マーブルズにカヴァーされ[ix]ベスト・アルバムに選曲されるなど[x]、本作がA面でもおかしくなかった。

 

2⃣「ラヴ・サムバディ」(1967.6)

1 「ラヴ・サムバディ」(To Love Somebody)

 ビー・ジーズの最高作のひとつ。「ワーズ」、「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」と並ぶ、最も多くカヴァーされたギブ兄弟の作品である。

 オーティス・レディングのために書かれたという逸話が残っているが[xi]、結局ビー・ジーズのセカンド・シングルとして発表され、全米17位。全英では41位に終わったが、翌年ニーナ・シモンのヴァージョンが5位にランクされた。その後1990年にジミー・ソマーヴィルのカヴァーが全英8位、1992年にはマイクル・ボルトンのシングルが全米11位(全英16位)にランクされ、オリジナルを上回った。結局1960年代と1990年代に、それぞれ異なる4組のアーティストによって英米のトップ20にランクされるという珍しい記録を残している。

 「誰も見えない」の項で述べたように、これら二曲は双子のような関係に映るが、いずれも印象的なイントロで始まっているのも共通している。甘美なオーケストラで始まり、バリーのヴォーカルの背後に流れるストリングスも美しい。一転して爆発的なコーラスがキャッチーなメロディを歌い、最後は「ザ・ウェイ・アイ・ラヴ・ユー」のハーモニーで締めくくられる。

 「誰も見えない」のロビンのヴォーカルもソウルフルだが、「ラヴ・サムバディ」のバリーも負けていない。彼のベストの歌唱ではないかと思われるほど瑞々しく、張りがある。甘さとほのかな明るさも特徴で、「誰も見えない」との違いは、この甘さと明るさにある。それはロビンとバリーのキャラクターの違いでもあるが、ビー・ジーズの特徴はつまるところ、二人の対照的なヴォーカルにあった。とくに本作のバリーの歌声は、彼が歌ってこその「ラヴ・サムバディ」であることを実感させる。

 

2 「クローズ・アナザー・ドア」(Close Another Door)④

 ビー・ジーズがデビューしたとき、ビートルズの匿名による新曲と間違われた、というエピソードがうなずけるような曲である。出だしのコーラスは確かにビートルズを彷彿させる。しかし、それに続くロビンのヴォーカルは、およそビートルズらしくないソフトなものである。

 本作は、これまでの3曲ほど印象は強くないが、初期の彼らの楽曲のなかではかなり凝ったつくりになっている。最初のアップ・テンポのコーラスと続くテンポを落としたロビンのヴァースを繰り返した後、クロージングでは、一転、スロー・バラードになって、ロビンがカンツォーネか、はたまたオペラのような歌唱で新たなメロディを歌い、フェイド・アウトしていく。

 やはり最初の2枚のシングルは、慎重に曲を選択したということだろうか。それなりに力作であり、翌月発表のアルバムも本作で締めくくられる。特別、傑作というわけではないが、力のこもった作品であることは確かである。それにしても、どこからこうした二部構成の展開を思いついたのか、聞いてみたくなる。

 

[i] ただし、イギリスでは、「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」以前に「スピックス・アンド・スペックス」がリリースされている。

[ii] Melinda Bilyeu, Hector Cook and Andrew Môn Hughes, The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb (New edition, Omnibus Press, 2001), pp.130-31.

[iii] Ibid., p.127.

[iv] “New York Mining Disaster 1941“ (Version One (a)) in Bee Gees 1st, Riprise Records, 2006.

[v] Andrew Sandovalによるライナー・ノウツ。Bee Gees 1st, p.6.

[vi] Robin Gibb Live (Eagle Records, 2005).

[vii] “New York Mining Disaster 1941“ by Velvett Fogg, in Maybe Someone Is Digging Underground: The Songs of the Bee Gees (Sanctuary Records Group Ltd, 2004).

[viii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.128.

[ix] Marbles, “I Can’t See Nobody/Little Boy” (1969). B面もギブ兄弟の作曲だが、いかにもバリーが鼻歌まじりに作ったと思われるような、眠たげなフォーク・バラードである。

[x] Best of Bee Gees (1969).

[xi] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.134.

『帽子収集狂事件』

 (E・C・ベントリー、F・W・クロフツ横溝正史高木彬光の小説の内容に触れています。)

 

 『帽子収集狂事件』(1933年)は、カーの代表作であり、出世作としても知られている。

 ダグラス・G・グリーンの『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』では、ドロシー・L・セイヤーズによる本作の書評がいかにカーを歓喜させ、ミステリ作家としての地位の確立に寄与したかを伝えている[i]。もっとも、セイヤーズは、本作を「この作品は、私がここしばらく読んだなかで最も魅力的なミステリである」、と書いて、「奇想天外な登場人物やプロットの描写」や、「形容詞一つで雰囲気をかもし出」す表現力、「わくわくするような喜びを与えてくれる」文章力をほめそやしているが、ミステリとしてどこが優れているのかは、具体的に説明してくれない(ミステリの書評なので、トリックや犯人を明かさないのは当然であるが)[ii]

 一方、わが国では、一時期、憑りつかれたかのようにカーに入れ込んだ江戸川乱歩が、本作をカーの代表作として第一位に挙げたのは、あまりにも有名である。乱歩は、「これは密室殺人ではないが、密室以上の不可能トリックが案出されている」[iii]、と絶賛し、この「密室以上のトリック」という惹句は、ながく創元推理文庫版『帽子収集狂事件』の扉の作品紹介に引用されてきた[iv]。この文句に引かれて本書を手に取った読者も多いのではないか。

 もう一人、本作に魅せられた作家と言えば、言うまでもなく横溝正史である。ミステリ翻訳家の井上英三から『マッド・ハッター(・ミステリ)』と『プレーグ・コート(・マーダーズ)』を借りて、これら二作でカーに夢中になった、という逸話は、横溝が何度も繰り返し語っているが[v]、実作においても『獄門島』を始めとする諸作[vi]で、本作のトリックを応用していることはよく知られている。また、高木彬光にも作例があり[vii]、『刺青殺人事件』でも同様のアイディアを用いていることは、熱心な読者なら説明不要だろう。

 しかし、乱歩の賛辞や、横溝や高木の作品への影響が指摘される割には、そして何よりもカーの諸作中、常に読むことのできた数少ない代表作であった割には、本作の近年における評価は芳しくない。

 松田道弘の「新カー問答」は、1970年代以降のカーの再評価に決定的な影響を与え、ミステリ・ファンを乱歩の「カー問答」の呪縛から解き放った。反面、乱歩が推奨した代表作が少なからず評判を落としたことは否めない。乱歩が挙げた第一位作品について、「マニア好み」であるとして、「『プレーグ・コートの殺人』や『ユダの窓』はまずまずとしても、『帽子蒐集狂事件』や『赤後家の殺人』それに『死人を起こす』はどうだろう」[viii]、と辛口の評価をしている。しかし、松田は『帽子収集狂事件』のトリックそのものにはとくに触れておらず、カーの作風に関する箇所で、「乱歩はカーのパンチとジュディ的な英国風残虐ユーモアが体質的にいたくお気に召したらしい。だからこそ『帽子蒐集狂事件』をベストワンに選んでるんだね」、と述べて、乱歩の同作の評価は必ずしも純粋にトリックのみに向けられていたのではなかった、と示唆している。

 『帽子収集狂事件』のトリックが、いわゆる「死体移動のトリック」であること、しかも、それまでにないオリジナリティの高いトリックであったことは、横溝が率直に語ってくれているが[ix]、そのことは、これまで必ずしも十分理解されてこなかったようである。

 筆者の個人的体験でも、最初本作を読んだとき、どこがおもしろいのかよくわからなかった。当時すでに高校生になっていたと記憶するので、今思うと、あまりにも頭が悪すぎるが、実際本作のトリックないしアイディアが読者に伝わりにくかったのは確かだったように思う。

 その点で注目されるのは、創元推理文庫の新訳版『帽子収集狂事件』の解説である。戸川安宣は、(おそらく多くの読者同様)本作の乱歩による高評価に首を傾げた経験を吐露したあと、本作のテーマがアリバイ・トリックであることを喝破している。そのうえで「けれどもこの作品はそうは書かれていない。したがって、本書がアリバイものだ、と明らかにすると、推理小説を読み慣れた人ならその時点で犯人は分かってしまう」、と述べ、アリバイものでありながら、フーダニット(犯人探し)になっているのが本書の特徴である、と結論している[x]

 戸川の結論は、もちろん横溝や高木のような優れた実作者にはわかりきったことだったろうが、一般読者に対して、本作のミステリとしての意義をわかりやすく説明した、という意味で画期的な書評だった。「死体移動のトリック」というだけでは呑み込みにくかった本作の独創性を端的に説明してくれているからである。今後、改めて本書がカーの代表作として再評価される端緒となるかもしれない。

 

 ただ、本作の独創的なトリックがそれと認められにくいのは、上で書きかけたように、カーの書き方のせいもある。つまり、最後の謎解きが犯人の告白になっているため、トリックの独創性が伝わりにくいのだ。もっとも、これはやむを得ない面もある。本作のトリックが優れているのは、被害者自身が移動することで、犯人にアリバイを提供している点にある。すなわちトリックに無理がない。被害者は密かにロンドン塔を抜け出して自宅に戻り、そこにいた犯人によって殺害される。犯人は、ロンドン塔に勤務しているので、車に死体を乗せ、戻る途中で死体を遺棄する場所を探す。ところが、偶然知人に出くわし、車に同乗させるはめになり、結局ロンドン塔に到着して、同乗者を降ろした後、塔内の人けのない場所に死体を置き去りにすることになる。その直後に死体が発見され、ロンドン塔で最後に姿を目撃された被害者がその十数分後に塔内で死体となって発見される、という状況ができる。その間ロンドン塔内にいなかった人物には完全無欠の「心理的[xi]アリバイ・トリックが成立するのである。しかし、偶然に成立したトリックだけに、カーも解明のプロセスに苦心したのだろう。結果的に、犯人が淡々と犯行を説明することになって、犯人の行動を聞かされる読者には、独創的なアイディアがなかなか伝わらない、ということになってしまった。名所として名高いロンドン塔を舞台としたのも、当然そこが殺人現場であると読者に思い込ませる-『ロンドン塔の殺人』などとしなかったのは、そこが殺人現場ではないからだろう-ためで、そうした様々な工夫をこらしているにもかかわらず、謎解きがあまり劇的にならなかったのは皮肉である。

 

 では、横溝が驚嘆した本作のトリックを、カーはどこから着想したのだろうか。まったくの無から生み出したものなのか。それともヒントとなった作品があったのだろうか。

 死体移動のトリックが使用されたのは、無論『帽子収集狂事件』が初めてではない。最も有名なのは、F・W・クロフツの『樽』(1920年)だろう。ただし、『樽』の場合、最初から樽詰めの死体が移動したことは明らかであり、その追跡がメイン・プロットになっている。『樽』をよく知っているはずの横溝が、『帽子収集狂事件』について「死体移動のトリックなんて読んだことなかった」[xii]、と言っているのは、両作が、同じトリックを用いていても、まったく異なった使い方をしているため、『樽』のことには思い及ばなかったのだろう。

 しかし、実は『樽』以前に死体移動トリックを用いて、しかも、もっと『帽子収集狂事件』に似た作品がある。筆者の見るところでは、『帽子収集狂事件』のヒントとなった長編である。E・C・ベントリーの『トレント最後の事件』(1913年)[xiii]だ。

 『トレント最後の事件』は、一人二役のトリックも使われ、とくに乱歩が、被害者に扮して寝室に入り、被害者の妻と会話する場面のスリルを称賛したため、そちらのトリックが有名になってしまった感がある。だが、その場面より前に、工作者(トリックを実行した人物は、実は犯人ではない)は、死体を被害者の自宅まで運んでいる。すなわち、被害者の富豪の秘書である工作者は、被害者から使いを頼まれ、車で一緒に出かけるが、途中で被害者を降ろした後、改めて出発する。しかし、実は被害者は、妻と工作者の仲を疑っており、怪しんだ工作者が車を戻してみると、被害者が拳銃で自殺している(と思われる状況だが、真相は異なる)のを発見する。自分を犯人に仕立てるために被害者が自殺したと考えた工作者は、疑いを避けるために、死体を車に乗せて被害者の自宅に戻すのである。つまりアリバイ工作である。

 しかし、死体を邸宅に戻すだけでは、実際そうなのだが、疑いを避けるために死体を移動させた、と推測されてしまう。そこで、工作者は、被害者に扮して妻と会話することで、被害者が自分と別れた後まで生きていたように見せかけた、というわけである。だが、同作における工作者のこうした行動は、結局のところ、アリバイづくりになっていない。工作者は実際に被害者宅に戻り、被害者のふりをして妻と会話することで時間を費やしてしまっている。そこから改めて車で出かけなければならず、犯行を不可能と思わせるだけの時間をかせげないからである。

 このように、『トレント最後の事件』は、死体移動トリックを用いているが、アリバイ・トリックとしては充分効果をあげていない。

 『帽子収集狂事件』が『トレント最後の事件』を下敷きにしているという明確な証拠はないが、カーが『トレント』を読んで、同書ではうまくいっていない死体移動をアリバイに用いる、というアイディアがひらめいた可能性はあるだろう[xiv]

 カー自身、本書の死体移動トリックに自信を持っていたふしがあり、同じトリックを何度か繰り返し用いている。後年の『引き潮の魔女』(1961年)がそうであるが、より近い時期には、足跡のない殺人のトリックに本書の死体移動トリックを応用している。『白い僧院の殺人』(1934年)がそれである。

 このように、カー自身が何度も使いたくなるほどの魅力を持っているのが本書のトリックである。近年のカー評価では、トリックの創案よりも、そのプレゼンテーションの巧みさが指摘されている[xv]とはいえ、純粋にトリックだけを見た場合、本作がカー作品の最高峰に位置することは、改めて認めてよいのではないだろうか。

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、156-57頁。

[ii] 同、484-85頁。

[iii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社、1987年)、135頁。

[iv] ディクスン・カー(田中西二郎訳)『帽子収集狂事件』(東京創元社、1960年)、1頁。

[v] 横溝正史『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、「片隅の楽園」(初出1959年)、199-215頁。

[vi] 横溝正史『獄門島』(1947-48年)。他に『犬神家の一族』(1950-51年)、「香水心中」(1958年)。

[vii] 高木彬光『魔弾の射手』(1950年)。

[viii] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、206頁。

[ix] 小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年)、57-58頁。

[x] 三角和代訳『帽子収集狂事件』(創元推理文庫、2011年)、399頁。

[xi] 『刺青殺人事件』で最終章が「心理の密室」と名付けられているのも、まさに同じ(死体発見現場が殺害場所であると思わせる)心理的錯覚を用いているためである。

[xii] 註9参照。

[xiii] E・C・ベントリー『トレント最後の事件』(創元推理文庫、1959年)。

[xiv] ちなみに『トレント最後の事件』を日本に紹介したのは、雑誌『探偵小説』の編集を担当していた時代の横溝正史である。『帽子収集狂事件』に対する横溝の評価を考えると、この事実もなかなか面白い。横溝正史「エラリー・クィーン氏、雑誌の廃刊を三ヵ月おくらせること」(1957年)『新版横溝正史全集18 探偵小説昔話』(講談社、1975年)、70-73頁。

[xv] 松田前掲書、223頁。

『夜歩く』

 (ヴァン・ダインの『カナリア殺人事件』、モーリス・ルブランの短編小説の内容に触れています。)

 

 『夜歩く』(1930年)はジョン・ディクスン・カーの処女作である。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、クイーンやクリスティの処女作に比べると、幻の長編と化していた。ところが、1976年にハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されると、創元推理文庫でもほぼ同時期に刊行され、いきなり二種類の『夜歩く』が手軽に読めるようになった[i]

 ハヤカワ版の解説を書いている松山雅彦、創元版の戸川安宣とも、カーの生い立ちから作風にいたるまで、本作で初めてカーを読むかもしれない読者のために、委曲を尽くした解説を書いているが、なかでも興味深いのは、本作に関して半ば伝説化していた逸話が紹介されているところである。

 

  「当時、本書の原稿を受け取った編集者が絶対犯人を当ててみせると言いながら、 

 あまりにも複雑な筋のため、まったく真相がつかめなかったという有名なエピソード 

 がある・・・」

  「・・・処女作としては破格の扱いを受けた本書は、大々的に宣伝されたこともあ  

 って驚異的な売れ行きを示した。」[ii]

 

  「カーの作風を要約して、不可能興味と怪奇趣味、そしてユーモアと指摘したのは 

 江戸川乱歩だが、そのすべてがこの第一作の中に濃厚に表われている・・・」

  「幸い『夜歩く』はまずまずの成功を収め、カーは職業作家として立っていくこと 

 を決意する。」[iii]

 

 本作の原稿を読んだ編集者が、あまりに筋が複雑で誰が犯人なのかわからなかった、という「衝撃(笑劇)」の逸話は、すでに『帽子収集狂事件』の中島河太郎の解説でも紹介されている。松山と戸川でやや説明が割れている本作の売れ行きに関しては、中島は「『夜歩く』はたいへんな当たりで、五万部を売り尽くした」[iv]、と細かい。

 この販売数が「驚異的」か「まずまず」かは別として、本作がいかにもカーにふさわしい処女作と認められてきたことは疑いない。主人公がフランス人のアンリ・バンコランであることも本作の特徴だが、この人物にしても、いかにも野心満々のカー青年が好みそうな、そして何作も続けば書き辛くなりそうな設定満載の探偵である。

 プロットも、「複雑すぎて誰が犯人なのかわからなかった」と編集長が言った、という逸話がまんざら嘘ではない、と思わせる。

 テニス・プレイヤーとしても著名なサリニー侯爵と婚約したルイーズ・ローランには殺人衝動のある前夫がおり、ルイーズに執着して、侯爵を殺害すると予告していた。前夫ローランは整形して顔を変え、手術をした医師を殺して、姿をくらます。そして運命の夜、侯爵とルイーズの結婚パーティで、侯爵がカード室に入る姿を目撃されると、そのわずか数分後、首を切断された彼の死体がその部屋で発見される[v]。しかもその部屋は、侯爵が入った直後から見張りの刑事によって監視されていた・・・。

 以上が最初の密室殺人であるが、整形して顔を変えた殺人狂が人狼であると示唆されたり、これ以上ない猟奇的な殺人場面が描かれ、まるで戦前の江戸川乱歩らの通俗ミステリのような、あるいは「紙芝居」的な筋立てである。

 こうしたエキセントリックでグロテスクな場面描写と雰囲気づくりがカーの初期の持ち味だったが、プロ作家として経験を積むうちに、次第に筆が抑制され、過剰な雰囲気描写は薄まっていく。とはいえ、それが最後までカーの体に染みついた本質的要素であり、本書について語られる第一の特徴といえるだろう。改訳版の創元推理文庫巽昌章による解説も、同様の論調で書かれている[vi]

 さらに、巽は、謎解きの観点にも触れ、密室の提示の仕方について分析しているが、密室のトリックそのものには言及していない。この点は、戸川の解説も同様で、「トリックに無理があるのが難点だが」[vii]、と言及しているが、このトリックは密室のことではないらしい。

 結局、本作の場合、トリックや謎解きそのものより、その雰囲気描写等に批評の眼が向けられてきた。カーの作風を解説するための手ごろな見本として扱われるのが紹介当初からの通例で、それは現在までほぼ変わっていないといえよう。

 

 しかし、本書の密室トリックは、カーの創案したうちでは最も独創的なものである。

 本書の密室トリックに前例があるのかどうか、断定はできないが、他のカーの用いた密室のトリックは、基本的に既存のトリックを応用したものに過ぎない。『プレーグ・コートの殺人』のトリックは、江戸川乱歩が「こんなありふれたものでは困ると考え」[viii]たという代物であるが、横溝正史が正しく指摘したように、「あれを密室に伏せたところが、カーのうまいところだった」[ix]、といえる。『三つの棺』のトリックも、モーリス・ルブランリュパンものの短編に先例がある。『赤後家の殺人』のトリックも、密室というよりも、毒殺に関する盲点をついたアイディアを密室に「伏せた」ものである。

 挙げていけばきりがないが、独創性とは別に、これら諸作に比べて『夜歩く』の密室トリックが優れていると言える点がある。それは『夜歩く』の密室が鎖錠されていないということである。つまり、いわゆる「機械的密室」、あるいは「扉に細工をして密室を構成する」トリックではなく、「心理的な密室」トリックであることである。

 機械的な密室トリックよりも心理的な密室トリックのほうが優れている、という客観的な根拠はないが、あの名探偵金田一耕助がそう言っているのだから、確かだろう[x]

 冗談はさておいて、一般的にみても、機械的密室よりも、心理的密室のほうが評価は高い。『黄色い部屋の謎』がそうであるし、前記のルブランの短編もそうである。必ずしも傑作とはいえないが、『ボウ町の怪事件』などもそういえる。もっとも、これらのトリックは、「心理的」というよりも、錯覚によるトリックと言ったほうが良いのかもしれない。

 『夜歩く』の場合、ヴァン・ダインの『カナリア殺人事件』のような「針と糸」を用いるような小手先芸ではなく、犯行時刻に密室の出入り口が監視されていた、というシチュエーションを使ったところに創意があったと言える。ただし、事件が解明すると、いささか唖然とする。犯人(実際は共犯者)は、すでに殺人が行われた部屋に被害者を装って入り、それをわざと目撃させる。そのまま部屋を素通りして出ると、そこにやってきた刑事に時間を訊ね、そのまま刑事と部屋の出口を監視するように仕向ける。部屋に入ったのが11時30分で、脱出したのも11時30分。従って、捜査陣は、被害者以外、誰もその部屋に出入りしなかった、と判断する、というものであるが、この「秒までは計っていなかったので、犯人は部屋を脱出することができました」、という説明は、脱力すること請け合いである。評論家諸氏が本作の密室トリックについて言葉を濁すのも無理はない。

 しかし、このトリックの眼目は、そのような綱渡り的な犯行云々、といったことではない。首を切断するような大掛かりな殺人が一瞬で実行できるわけがないので、被害者(と思われた人物)が密室に入ったと「ほぼ推定される」時間に、もうひとつの出口の監視が始まったとすれば、犯人が脱出できる時間はなかった。そう読者に納得させることが、このトリックの要である。首を切り落とす、というグロテスクな殺人方法を取った理由-殺人者ではなく、作者にとっての-は、読者にインパクトを与えるということではなく、手のかかる大掛かりな殺人方法である、と読者の頭に刷り込ませる必要があったからだ[xi]。ところが、カーの説明の仕方は、このアイディアの卓抜さが十分伝わるようには書かれていないし、このトリックの組み立て方では、しょせん読者を感心させることは難しかったかもしれない。

 結局、『夜歩く』の密室トリックは、アイディアは秀逸だが、実際の効果には首をひねるといったものだった。カーもこのアイディアが惜しかったのだろう。それとも、よいアイディアが浮かばず、苦し紛れだったのか。このトリックを応用して再使用している。『弓弦城の殺人』(1933年)がそれである。しかし、結果は、さらに大げさな犯行手順を必要とする不格好なトリックになってしまった。駄作ではないが、『夜歩く』を上回ったとはいえない。

 とはいえ、繰り返しになるが、この「一人二役」を密室に応用したアイディアは、恐らくカーの密室ミステリのなかでも白眉といえるだろう。

 

[i] 『夜歩く』(文村 潤訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年6月)、『夜歩く』(井上一夫訳、創元推理文庫、1976年7月)。

[ii] 松山雅彦『夜歩く』(ハヤカワ・ミステリ文庫版)、273、275頁。

[iii] 戸川安宣『夜歩く』(創元推理文庫版)、292頁。

[iv] 『帽子収集狂事件』(田中西二郎訳、創元推理文庫、1960年)、401-402頁。ダグラス・G・グリーンは、「『夜歩く』は売行き好調で、合衆国では出版後二ヶ月で、少なくとも七版を重ねた」、と書いている。また、編集長のT・B・ウェルズが「殺人犯を見破ったら夕食をごちそうすると賭けをした」とのエピソードも紹介しているが、読後の感想については触れず、「ウェルズは賭けに負け」たとしか書いていない。ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、85、90頁。

[v] ただし、このとき実は、侯爵はすでに殺され、侯爵の顔に整形したローランに入れ替わっている。このあたりのジェット・コースターなみの展開が、「誰が犯人かわからない」、という感想につながったのだろう。

[vi] 巽昌章『夜歩く』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2013年)、293-300頁。

[vii] 『夜歩く』(創元推理文庫)、292頁。続けて、戸川は、「(ちなみに、カーはこのトリックがお気に入りとみえて、何度かそのヴァリエーションを使用している。殊に中期のある作品では見事にこのトリックを消化して、彼の代表作の一つを作り上げている)。密室殺人など不可能犯罪ものが多いためトリック作家というイメージが強いが、彼は本質的にはwhodunit(フーダニット)(犯人探し)型指向の作家であった」、と書いている。この文章から判断すると、恐らく「中期のある作品」というのは『皇帝のかぎ煙草入れ』のことで、このトリックというのは、「犯人が犯行を目撃する」というアイディア-トリックと言ってしまうと、その後トリック作家であることを否定しているので、変である-のことであろう。戸川は、新訳版の同作の解説も書いている。『皇帝のかぎ煙草入れ』(駒月雅子訳、創元推理文庫、2012年)、309-18頁。

[viii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社、1987年)、136頁。

[ix] 小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年)、43頁。

[x] 横溝正史『本陣殺人事件』(角川文庫、1973年)、110-11頁。もっとも、金田一(横溝)は、「心理的密室」という言い方はしていない。

[xi] 作中の犯人にとって、このような猟奇的殺人手段を選択する合理的な理由はない(男性の犯人であるように見せかける、という理由は考えられるが、それでは共犯者に疑いがかかるかもしれない)。