『帽子収集狂事件』

 (E・C・ベントリー、F・W・クロフツ横溝正史高木彬光の小説の内容に触れています。)

 

 『帽子収集狂事件』(1933年)は、カーの代表作であり、出世作としても知られている。

 ダグラス・G・グリーンの『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』では、ドロシー・L・セイヤーズによる本作の書評がいかにカーを歓喜させ、ミステリ作家としての地位の確立に寄与したかを伝えている[i]。もっとも、セイヤーズは、本作を「この作品は、私がここしばらく読んだなかで最も魅力的なミステリである」、と書いて、「奇想天外な登場人物やプロットの描写」や、「形容詞一つで雰囲気をかもし出」す表現力、「わくわくするような喜びを与えてくれる」文章力をほめそやしているが、ミステリとしてどこが優れているのかは、具体的に説明してくれない(ミステリの書評なので、トリックや犯人を明かさないのは当然であるが)[ii]

 一方、わが国では、一時期、憑りつかれたかのようにカーに入れ込んだ江戸川乱歩が、本作をカーの代表作として第一位に挙げたのは、あまりにも有名である。乱歩は、「これは密室殺人ではないが、密室以上の不可能トリックが案出されている」[iii]、と絶賛し、この「密室以上のトリック」という惹句は、ながく創元推理文庫版『帽子収集狂事件』の扉の作品紹介に引用されてきた[iv]。この文句に引かれて本書を手に取った読者も多いのではないか。

 もう一人、本作に魅せられた作家と言えば、言うまでもなく横溝正史である。ミステリ翻訳家の井上英三から『マッド・ハッター(・ミステリ)』と『プレーグ・コート(・マーダーズ)』を借りて、これら二作でカーに夢中になった、という逸話は、横溝が何度も繰り返し語っているが[v]、実作においても『獄門島』を始めとする諸作[vi]で、本作のトリックを応用していることはよく知られている。また、高木彬光にも作例があり[vii]、『刺青殺人事件』でも同様のアイディアを用いていることは、熱心な読者なら説明不要だろう。

 しかし、乱歩の賛辞や、横溝や高木の作品への影響が指摘される割には、そして何よりもカーの諸作中、常に読むことのできた数少ない代表作であった割には、本作の近年における評価は芳しくない。

 松田道弘の「新カー問答」は、1970年代以降のカーの再評価に決定的な影響を与え、ミステリ・ファンを乱歩の「カー問答」の呪縛から解き放った。反面、乱歩が推奨した代表作が少なからず評判を落としたことは否めない。乱歩が挙げた第一位作品について、「マニア好み」であるとして、「『プレーグ・コートの殺人』や『ユダの窓』はまずまずとしても、『帽子蒐集狂事件』や『赤後家の殺人』それに『死人を起こす』はどうだろう」[viii]、と辛口の評価をしている。しかし、松田は『帽子収集狂事件』のトリックそのものにはとくに触れておらず、カーの作風に関する箇所で、「乱歩はカーのパンチとジュディ的な英国風残虐ユーモアが体質的にいたくお気に召したらしい。だからこそ『帽子蒐集狂事件』をベストワンに選んでるんだね」、と述べて、乱歩の同作の評価は必ずしも純粋にトリックのみに向けられていたのではなかった、と示唆している。

 『帽子収集狂事件』のトリックが、いわゆる「死体移動のトリック」であること、しかも、それまでにないオリジナリティの高いトリックであったことは、横溝が率直に語ってくれているが[ix]、そのことは、これまで必ずしも十分理解されてこなかったようである。

 筆者の個人的体験でも、最初本作を読んだとき、どこがおもしろいのかよくわからなかった。当時すでに高校生になっていたと記憶するので、今思うと、あまりにも頭が悪すぎるが、実際本作のトリックないしアイディアが読者に伝わりにくかったのは確かだったように思う。

 その点で注目されるのは、創元推理文庫の新訳版『帽子収集狂事件』の解説である。戸川安宣は、(おそらく多くの読者同様)本作の乱歩による高評価に首を傾げた経験を吐露したあと、本作のテーマがアリバイ・トリックであることを喝破している。そのうえで「けれどもこの作品はそうは書かれていない。したがって、本書がアリバイものだ、と明らかにすると、推理小説を読み慣れた人ならその時点で犯人は分かってしまう」、と述べ、アリバイものでありながら、フーダニット(犯人探し)になっているのが本書の特徴である、と結論している[x]

 戸川の結論は、もちろん横溝や高木のような優れた実作者にはわかりきったことだったろうが、一般読者に対して、本作のミステリとしての意義をわかりやすく説明した、という意味で画期的な書評だった。「死体移動のトリック」というだけでは呑み込みにくかった本作の独創性を端的に説明してくれているからである。今後、改めて本書がカーの代表作として再評価される端緒となるかもしれない。

 

 ただ、本作の独創的なトリックがそれと認められにくいのは、上で書きかけたように、カーの書き方のせいもある。つまり、最後の謎解きが犯人の告白になっているため、トリックの独創性が伝わりにくいのだ。もっとも、これはやむを得ない面もある。本作のトリックが優れているのは、被害者自身が移動することで、犯人にアリバイを提供している点にある。すなわちトリックに無理がない。被害者は密かにロンドン塔を抜け出して自宅に戻り、そこにいた犯人によって殺害される。犯人は、ロンドン塔に勤務しているので、車に死体を乗せ、戻る途中で死体を遺棄する場所を探す。ところが、偶然知人に出くわし、車に同乗させるはめになり、結局ロンドン塔に到着して、同乗者を降ろした後、塔内の人けのない場所に死体を置き去りにすることになる。その直後に死体が発見され、ロンドン塔で最後に姿を目撃された被害者がその十数分後に塔内で死体となって発見される、という状況ができる。その間ロンドン塔内にいなかった人物には完全無欠の「心理的[xi]アリバイ・トリックが成立するのである。しかし、偶然に成立したトリックだけに、カーも解明のプロセスに苦心したのだろう。結果的に、犯人が淡々と犯行を説明することになって、犯人の行動を聞かされる読者には、独創的なアイディアがなかなか伝わらない、ということになってしまった。名所として名高いロンドン塔を舞台としたのも、当然そこが殺人現場であると読者に思い込ませる-『ロンドン塔の殺人』などとしなかったのは、そこが殺人現場ではないからだろう-ためで、そうした様々な工夫をこらしているにもかかわらず、謎解きがあまり劇的にならなかったのは皮肉である。

 

 では、横溝が驚嘆した本作のトリックを、カーはどこから着想したのだろうか。まったくの無から生み出したものなのか。それともヒントとなった作品があったのだろうか。

 死体移動のトリックが使用されたのは、無論『帽子収集狂事件』が初めてではない。最も有名なのは、F・W・クロフツの『樽』(1920年)だろう。ただし、『樽』の場合、最初から樽詰めの死体が移動したことは明らかであり、その追跡がメイン・プロットになっている。『樽』をよく知っているはずの横溝が、『帽子収集狂事件』について「死体移動のトリックなんて読んだことなかった」[xii]、と言っているのは、両作が、同じトリックを用いていても、まったく異なった使い方をしているため、『樽』のことには思い及ばなかったのだろう。

 しかし、実は『樽』以前に死体移動トリックを用いて、しかも、もっと『帽子収集狂事件』に似た作品がある。筆者の見るところでは、『帽子収集狂事件』のヒントとなった長編である。E・C・ベントリーの『トレント最後の事件』(1913年)[xiii]だ。

 『トレント最後の事件』は、一人二役のトリックも使われ、とくに乱歩が、被害者に扮して寝室に入り、被害者の妻と会話する場面のスリルを称賛したため、そちらのトリックが有名になってしまった感がある。だが、その場面より前に、工作者(トリックを実行した人物は、実は犯人ではない)は、死体を被害者の自宅まで運んでいる。すなわち、被害者の富豪の秘書である工作者は、被害者から使いを頼まれ、車で一緒に出かけるが、途中で被害者を降ろした後、改めて出発する。しかし、実は被害者は、妻と工作者の仲を疑っており、怪しんだ工作者が車を戻してみると、被害者が拳銃で自殺している(と思われる状況だが、真相は異なる)のを発見する。自分を犯人に仕立てるために被害者が自殺したと考えた工作者は、疑いを避けるために、死体を車に乗せて被害者の自宅に戻すのである。つまりアリバイ工作である。

 しかし、死体を邸宅に戻すだけでは、実際そうなのだが、疑いを避けるために死体を移動させた、と推測されてしまう。そこで、工作者は、被害者に扮して妻と会話することで、被害者が自分と別れた後まで生きていたように見せかけた、というわけである。だが、同作における工作者のこうした行動は、結局のところ、アリバイづくりになっていない。工作者は実際に被害者宅に戻り、被害者のふりをして妻と会話することで時間を費やしてしまっている。そこから改めて車で出かけなければならず、犯行を不可能と思わせるだけの時間をかせげないからである。

 このように、『トレント最後の事件』は、死体移動トリックを用いているが、アリバイ・トリックとしては充分効果をあげていない。

 『帽子収集狂事件』が『トレント最後の事件』を下敷きにしているという明確な証拠はないが、カーが『トレント』を読んで、同書ではうまくいっていない死体移動をアリバイに用いる、というアイディアがひらめいた可能性はあるだろう[xiv]

 カー自身、本書の死体移動トリックに自信を持っていたふしがあり、同じトリックを何度か繰り返し用いている。後年の『引き潮の魔女』(1961年)がそうであるが、より近い時期には、足跡のない殺人のトリックに本書の死体移動トリックを応用している。『白い僧院の殺人』(1934年)がそれである。

 このように、カー自身が何度も使いたくなるほどの魅力を持っているのが本書のトリックである。近年のカー評価では、トリックの創案よりも、そのプレゼンテーションの巧みさが指摘されている[xv]とはいえ、純粋にトリックだけを見た場合、本作がカー作品の最高峰に位置することは、改めて認めてよいのではないだろうか。

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、156-57頁。

[ii] 同、484-85頁。

[iii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社、1987年)、135頁。

[iv] ディクスン・カー(田中西二郎訳)『帽子収集狂事件』(東京創元社、1960年)、1頁。

[v] 横溝正史『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、「片隅の楽園」(初出1959年)、199-215頁。

[vi] 横溝正史『獄門島』(1947-48年)。他に『犬神家の一族』(1950-51年)、「香水心中」(1958年)。

[vii] 高木彬光『魔弾の射手』(1950年)。

[viii] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、206頁。

[ix] 小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年)、57-58頁。

[x] 三角和代訳『帽子収集狂事件』(創元推理文庫、2011年)、399頁。

[xi] 『刺青殺人事件』で最終章が「心理の密室」と名付けられているのも、まさに同じ(死体発見現場が殺害場所であると思わせる)心理的錯覚を用いているためである。

[xii] 註9参照。

[xiii] E・C・ベントリー『トレント最後の事件』(創元推理文庫、1959年)。

[xiv] ちなみに『トレント最後の事件』を日本に紹介したのは、雑誌『探偵小説』の編集を担当していた時代の横溝正史である。『帽子収集狂事件』に対する横溝の評価を考えると、この事実もなかなか面白い。横溝正史「エラリー・クィーン氏、雑誌の廃刊を三ヵ月おくらせること」(1957年)『新版横溝正史全集18 探偵小説昔話』(講談社、1975年)、70-73頁。

[xv] 松田前掲書、223頁。