『夜歩く』

 (ヴァン・ダインの『カナリア殺人事件』、モーリス・ルブランの短編小説の内容に触れています。)

 

 『夜歩く』(1930年)はジョン・ディクスン・カーの処女作である。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、クイーンやクリスティの処女作に比べると、幻の長編と化していた。ところが、1976年にハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されると、創元推理文庫でもほぼ同時期に刊行され、いきなり二種類の『夜歩く』が手軽に読めるようになった[i]

 ハヤカワ版の解説を書いている松山雅彦、創元版の戸川安宣とも、カーの生い立ちから作風にいたるまで、本作で初めてカーを読むかもしれない読者のために、委曲を尽くした解説を書いているが、なかでも興味深いのは、本作に関して半ば伝説化していた逸話が紹介されているところである。

 

  「当時、本書の原稿を受け取った編集者が絶対犯人を当ててみせると言いながら、 

 あまりにも複雑な筋のため、まったく真相がつかめなかったという有名なエピソード 

 がある・・・」

  「・・・処女作としては破格の扱いを受けた本書は、大々的に宣伝されたこともあ  

 って驚異的な売れ行きを示した。」[ii]

 

  「カーの作風を要約して、不可能興味と怪奇趣味、そしてユーモアと指摘したのは 

 江戸川乱歩だが、そのすべてがこの第一作の中に濃厚に表われている・・・」

  「幸い『夜歩く』はまずまずの成功を収め、カーは職業作家として立っていくこと 

 を決意する。」[iii]

 

 本作の原稿を読んだ編集者が、あまりに筋が複雑で誰が犯人なのかわからなかった、という「衝撃(笑劇)」の逸話は、すでに『帽子収集狂事件』の中島河太郎の解説でも紹介されている。松山と戸川でやや説明が割れている本作の売れ行きに関しては、中島は「『夜歩く』はたいへんな当たりで、五万部を売り尽くした」[iv]、と細かい。

 この販売数が「驚異的」か「まずまず」かは別として、本作がいかにもカーにふさわしい処女作と認められてきたことは疑いない。主人公がフランス人のアンリ・バンコランであることも本作の特徴だが、この人物にしても、いかにも野心満々のカー青年が好みそうな、そして何作も続けば書き辛くなりそうな設定満載の探偵である。

 プロットも、「複雑すぎて誰が犯人なのかわからなかった」と編集長が言った、という逸話がまんざら嘘ではない、と思わせる。

 テニス・プレイヤーとしても著名なサリニー侯爵と婚約したルイーズ・ローランには殺人衝動のある前夫がおり、ルイーズに執着して、侯爵を殺害すると予告していた。前夫ローランは整形して顔を変え、手術をした医師を殺して、姿をくらます。そして運命の夜、侯爵とルイーズの結婚パーティで、侯爵がカード室に入る姿を目撃されると、そのわずか数分後、首を切断された彼の死体がその部屋で発見される[v]。しかもその部屋は、侯爵が入った直後から見張りの刑事によって監視されていた・・・。

 以上が最初の密室殺人であるが、整形して顔を変えた殺人狂が人狼であると示唆されたり、これ以上ない猟奇的な殺人場面が描かれ、まるで戦前の江戸川乱歩らの通俗ミステリのような、あるいは「紙芝居」的な筋立てである。

 こうしたエキセントリックでグロテスクな場面描写と雰囲気づくりがカーの初期の持ち味だったが、プロ作家として経験を積むうちに、次第に筆が抑制され、過剰な雰囲気描写は薄まっていく。とはいえ、それが最後までカーの体に染みついた本質的要素であり、本書について語られる第一の特徴といえるだろう。改訳版の創元推理文庫巽昌章による解説も、同様の論調で書かれている[vi]

 さらに、巽は、謎解きの観点にも触れ、密室の提示の仕方について分析しているが、密室のトリックそのものには言及していない。この点は、戸川の解説も同様で、「トリックに無理があるのが難点だが」[vii]、と言及しているが、このトリックは密室のことではないらしい。

 結局、本作の場合、トリックや謎解きそのものより、その雰囲気描写等に批評の眼が向けられてきた。カーの作風を解説するための手ごろな見本として扱われるのが紹介当初からの通例で、それは現在までほぼ変わっていないといえよう。

 

 しかし、本書の密室トリックは、カーの創案したうちでは最も独創的なものである。

 本書の密室トリックに前例があるのかどうか、断定はできないが、他のカーの用いた密室のトリックは、基本的に既存のトリックを応用したものに過ぎない。『プレーグ・コートの殺人』のトリックは、江戸川乱歩が「こんなありふれたものでは困ると考え」[viii]たという代物であるが、横溝正史が正しく指摘したように、「あれを密室に伏せたところが、カーのうまいところだった」[ix]、といえる。『三つの棺』のトリックも、モーリス・ルブランリュパンものの短編に先例がある。『赤後家の殺人』のトリックも、密室というよりも、毒殺に関する盲点をついたアイディアを密室に「伏せた」ものである。

 挙げていけばきりがないが、独創性とは別に、これら諸作に比べて『夜歩く』の密室トリックが優れていると言える点がある。それは『夜歩く』の密室が鎖錠されていないということである。つまり、いわゆる「機械的密室」、あるいは「扉に細工をして密室を構成する」トリックではなく、「心理的な密室」トリックであることである。

 機械的な密室トリックよりも心理的な密室トリックのほうが優れている、という客観的な根拠はないが、あの名探偵金田一耕助がそう言っているのだから、確かだろう[x]

 冗談はさておいて、一般的にみても、機械的密室よりも、心理的密室のほうが評価は高い。『黄色い部屋の謎』がそうであるし、前記のルブランの短編もそうである。必ずしも傑作とはいえないが、『ボウ町の怪事件』などもそういえる。もっとも、これらのトリックは、「心理的」というよりも、錯覚によるトリックと言ったほうが良いのかもしれない。

 『夜歩く』の場合、ヴァン・ダインの『カナリア殺人事件』のような「針と糸」を用いるような小手先芸ではなく、犯行時刻に密室の出入り口が監視されていた、というシチュエーションを使ったところに創意があったと言える。ただし、事件が解明すると、いささか唖然とする。犯人(実際は共犯者)は、すでに殺人が行われた部屋に被害者を装って入り、それをわざと目撃させる。そのまま部屋を素通りして出ると、そこにやってきた刑事に時間を訊ね、そのまま刑事と部屋の出口を監視するように仕向ける。部屋に入ったのが11時30分で、脱出したのも11時30分。従って、捜査陣は、被害者以外、誰もその部屋に出入りしなかった、と判断する、というものであるが、この「秒までは計っていなかったので、犯人は部屋を脱出することができました」、という説明は、脱力すること請け合いである。評論家諸氏が本作の密室トリックについて言葉を濁すのも無理はない。

 しかし、このトリックの眼目は、そのような綱渡り的な犯行云々、といったことではない。首を切断するような大掛かりな殺人が一瞬で実行できるわけがないので、被害者(と思われた人物)が密室に入ったと「ほぼ推定される」時間に、もうひとつの出口の監視が始まったとすれば、犯人が脱出できる時間はなかった。そう読者に納得させることが、このトリックの要である。首を切り落とす、というグロテスクな殺人方法を取った理由-殺人者ではなく、作者にとっての-は、読者にインパクトを与えるということではなく、手のかかる大掛かりな殺人方法である、と読者の頭に刷り込ませる必要があったからだ[xi]。ところが、カーの説明の仕方は、このアイディアの卓抜さが十分伝わるようには書かれていないし、このトリックの組み立て方では、しょせん読者を感心させることは難しかったかもしれない。

 結局、『夜歩く』の密室トリックは、アイディアは秀逸だが、実際の効果には首をひねるといったものだった。カーもこのアイディアが惜しかったのだろう。それとも、よいアイディアが浮かばず、苦し紛れだったのか。このトリックを応用して再使用している。『弓弦城の殺人』(1933年)がそれである。しかし、結果は、さらに大げさな犯行手順を必要とする不格好なトリックになってしまった。駄作ではないが、『夜歩く』を上回ったとはいえない。

 とはいえ、繰り返しになるが、この「一人二役」を密室に応用したアイディアは、恐らくカーの密室ミステリのなかでも白眉といえるだろう。

 

[i] 『夜歩く』(文村 潤訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年6月)、『夜歩く』(井上一夫訳、創元推理文庫、1976年7月)。

[ii] 松山雅彦『夜歩く』(ハヤカワ・ミステリ文庫版)、273、275頁。

[iii] 戸川安宣『夜歩く』(創元推理文庫版)、292頁。

[iv] 『帽子収集狂事件』(田中西二郎訳、創元推理文庫、1960年)、401-402頁。ダグラス・G・グリーンは、「『夜歩く』は売行き好調で、合衆国では出版後二ヶ月で、少なくとも七版を重ねた」、と書いている。また、編集長のT・B・ウェルズが「殺人犯を見破ったら夕食をごちそうすると賭けをした」とのエピソードも紹介しているが、読後の感想については触れず、「ウェルズは賭けに負け」たとしか書いていない。ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、85、90頁。

[v] ただし、このとき実は、侯爵はすでに殺され、侯爵の顔に整形したローランに入れ替わっている。このあたりのジェット・コースターなみの展開が、「誰が犯人かわからない」、という感想につながったのだろう。

[vi] 巽昌章『夜歩く』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2013年)、293-300頁。

[vii] 『夜歩く』(創元推理文庫)、292頁。続けて、戸川は、「(ちなみに、カーはこのトリックがお気に入りとみえて、何度かそのヴァリエーションを使用している。殊に中期のある作品では見事にこのトリックを消化して、彼の代表作の一つを作り上げている)。密室殺人など不可能犯罪ものが多いためトリック作家というイメージが強いが、彼は本質的にはwhodunit(フーダニット)(犯人探し)型指向の作家であった」、と書いている。この文章から判断すると、恐らく「中期のある作品」というのは『皇帝のかぎ煙草入れ』のことで、このトリックというのは、「犯人が犯行を目撃する」というアイディア-トリックと言ってしまうと、その後トリック作家であることを否定しているので、変である-のことであろう。戸川は、新訳版の同作の解説も書いている。『皇帝のかぎ煙草入れ』(駒月雅子訳、創元推理文庫、2012年)、309-18頁。

[viii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社、1987年)、136頁。

[ix] 小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年)、43頁。

[x] 横溝正史『本陣殺人事件』(角川文庫、1973年)、110-11頁。もっとも、金田一(横溝)は、「心理的密室」という言い方はしていない。

[xi] 作中の犯人にとって、このような猟奇的殺人手段を選択する合理的な理由はない(男性の犯人であるように見せかける、という理由は考えられるが、それでは共犯者に疑いがかかるかもしれない)。