江戸川乱歩『蜘蛛男』

(本書の犯人のほか、モーリス・ルブランの『813』、E・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』の内容を部分的に明らかにしています。)

 

 久しぶりに『蜘蛛男』(1929-30年)を読んだ。創元推理文庫から出た、連載時の挿絵入りの本[i]で、買ったものの、そのままほったらかしていた。

 いやあ~、面白い。無論、筋は熟知しているのだが、それでも面白い。巻頭、いきなり稲垣平造こと「蜘蛛男」が登場する場面からして、来た来た、とわくわくさせる。いったい、この尋常でない面白さは、何によるのか。よく言われるのは、あの、なんとも独特な江戸川乱歩の文体である。確かに、落語のようにわかりきった話を、それでも面白く聞かせるのは噺家の語り口で、小説なら、すなわち文体だろう。

 第一の被害者である里見芳枝を、まんまと怪しい根城に誘い込んだ蜘蛛男は、芳枝に向かって「すてきっ。君はやっぱり利口な方ですね」[ii]とか「私の名前はなんというのでしょう。誰も知らないのですよ。稲垣ですか。ハハハハハ、稲垣って一体誰のことでしょう」[iii]などとほざくのだが、なんて気持ち悪いんだ、蜘蛛男。気持ち悪すぎて、ページを繰る手がもどかしいぞ。そもそも、全国雑誌に、こんな気持ち悪い変なヤツを登場させてよかったのだろうか。いったい、ぶっ飛んでいるのは蜘蛛男なのか、それとも乱歩なのか。

 それに改めて実感するのは、乱歩のいわゆる通俗長編は「少年探偵団」もしくは「怪人二十面相」のシリーズと、基本的に同じ文章のリズムで書かれているということである。もちろん、少年ミステリは、読み手に合わせてやさしい言葉で綴られているが、執筆のノリは一貫している。かといって、大人の読者を舐めているわけではなくて(多少は舐めていたものと思われる)、それが乱歩自身が面白いと思える語りの芸風だったのだろう。

 しかし、ミステリとしての組み立てのほうは、発表当時から評価はされてこなかった。何しろ、作者自身が「探偵小説読者にはバカバカしいような」[iv]作品に過ぎなかったと認めている。現代の若い読者に、素晴らしいトリック小説ですよ、などと勧められる作品でないことは、さすがに弁えている。しかし、新興出版社の娯楽雑誌(『講談俱楽部』)に三顧の礼で迎えられ執筆した連載長篇ミステリであるから、乱歩も、それなりに案を練って準備して臨んだものと思われる。『蜘蛛男』のミステリ構造分析など試みる人は、もはや、いそうもないが、それらしいことをやってみよう。

 『蜘蛛男』は、明智小五郎シリーズの一作で、怪人対名探偵ものの一編である。この構図自体、少年ミステリと同じで、怪人二十面相ならぬ蜘蛛男が明智小五郎に奇怪な殺人ページェントを演出して挑戦する(実際は、二十面相のほうが蜘蛛男の後輩だが)。こうした「決闘小説」は、そもそも乱歩の好みで、犯人と探偵の知的駆け引きを描くのが、初期短篇の特色のひとつでもあった。処女作の「二銭銅貨」(1923年)からして、一種の「決闘小説」だったことを見ても、乱歩の生来の嗜好がどこにあったのかがわかる[v]

 ただし、『蜘蛛男』の場合、明智が登場するのは終盤になってからで、そこまでは犯罪学者である畔柳勇助が探偵を務める。この構成は、『孤島の鬼』(1929-30年)もそうなのだが、イーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(1922年)に類似している。『レドメイン家』でも、真の名探偵ピーター・ガンスが登場するのは作品の後半になってからで、それまではブレンドン探偵が、殺人事件捜査に、恋愛にと奮闘(?)する。

 『蜘蛛男』の構成は、『レドメイン家』のこうした趣向に影響されたものと思い込んでいたのだが、乱歩が同書を読んだのは昭和10年(1935年)になってからだったらしい[vi]。とすると、二人の探偵を配する二段構えの構成の相似は偶然の産物だったようだ。それに『蜘蛛男』の最大のミステリ的仕掛けは、探偵が実は犯人だったという意外性にあるのだが、『レドメイン家』のブレンドン探偵は犯人というわけではない(この点は、『孤島の鬼』も同様)。

 『蜘蛛男』で、怪人対名探偵という構図が成り立つのは、従って、小説が七割方終わってからで、そこに至るまでは、畔柳博士対蜘蛛男の「一人二役対決」である。決闘小説と見せかけて、実は自分で起こした事件を自ら探偵する自作自演の一人芝居というわけで、作中で捜査陣の一人が口にする「では、あの人は自分が犯した罪を自分で、探偵していた。自分を自分が追っかけていたというのですね」[vii]という変なユーモアが実は本書の一番のポイントである。このセリフが書きたくて、こういうプロットにしたのではないかとさえ思えてくる。

 作者自身「涙香とルブランとを混ぜ合わせたようなものを狙っ」[viii]た、と書いているように、恐らく『813』あたりから想を得たのだろうが、この犯人のアイディアを基に、少年探偵シリーズでもお馴染みの「不可能トリック」を随所で披露している。

 物語の前半は、里見芳枝と絹枝姉妹の連続殺人で、バラバラ死体を石膏で覆って店頭に晒したり、死体を水族館の水槽の中に投げ入れるなどの劇場型殺人で蜘蛛男の異常性を印象づけておいて、そのうえで、ミステリとしての山場となる不可能犯罪に持ってくる構成は、それなりに考えられている。

 中心となるのは、映画スターの富士洋子に対する一連の襲撃事件で、畔柳博士の室内に蜘蛛男からの予告状が出現する謎、洋子をさらった蜘蛛男が疾走する自動車から消え失せる人間消失の謎、畔柳博士と浪越警部が厳重に監視する室内から洋子が連れ去られる謎と、今さら書くのも恥ずかしい、見え透いた手品トリックが連発される。

 しかし、例えば、メインとなる自動車からの犯人消失の謎では、怪しげな農夫を登場させておいて容疑者とする一方、不可能状況の目撃者として重要な証言をさせて、犯人特定の手がかりとするなど[ix]、トリックを作りっぱなしで放置するのではなく、それなりの工夫を凝らして謎づくりをしている点は、注目しておいてよい。

 もうひとつ、ミステリのプロットとは関りがないが、注目すべき点として、本書の実質的なヒロインと思われる富士洋子の扱い方がある。彼女は度重なる蜘蛛男の魔の手から逃れ続け、むしろ反撃して蜘蛛男を窮地に追い込む。最後は、明智と取っ組み合う蜘蛛男の足を撃ち抜いて、名探偵を救う。圧倒的なヒロイン枠であるのだが、ところが、そのあと、なぜか蜘蛛男の縄目を解いて、怪人を逃がそうとする。なんとも測りがたい女心と秋の空であるが、あくまでゲスな蜘蛛男は彼女を無理やり連れ去り、やがて、二つの死骸が発見され、蜘蛛男と洋子と判定される。

 無論、蜘蛛男と思われた死体は別人で、そのあと、明智との最後の対決が待っているのだが、ところが、洋子のほうは、本当に殺されてしまったらしいのだ。それまで何度も危機を脱して、明智以上の活躍をみせてきたヒロインが、あっけなく殺されるとは、びっくり仰天である。最後、蜘蛛男が滅んだあと、実は、洋子は生きて救い出される結末になるのかと思いきや、どうも死んだまま(?)らしい。これって、娯楽小説として、どうなんでしょうね。確かに、この富士洋子という女性、あまり、その人物像や性格は描かれない。乱歩自身、彼女を女主人公とは思っていなかったようであるし、そもそも女性を描くのが苦手で、書きこむ気すらなかったのかもしれない。それにしても、この雑な扱いはどうしたことか。それとも、実は洋子は生きていたというラストにするつもりが、うっかり忘れてしまったのだろうか(うっかりすぎます)。

 一見ヒロインと見える女性が、あっさり死んでしまうのは斬新ともいえるが、やはりエンターテインメントとしては計算違いだったようですね。

 次作の『魔術師』(1930-31年)では、乱歩は、最後に明智とヒロインが結ばれる結末にしている。名探偵の恋愛を積極的に取り入れているのだが、これは『蜘蛛男』の結末に対する反省からだったのだろうか。

 

[i] 『蜘蛛男』(創元推理文庫、1993年)。

[ii] 同、24頁。

[iii] 同、30頁。

[iv] 『探偵小説四十年上』(光文社、2006年)、401頁。

[v] 横溝正史の『白蝋変化』と『吸血蛾』について書いた拙稿で、乱歩作品の特質についても触れた。

[vi] 江戸川乱歩「フィルポッツ」『海外探偵小説作家と作品2』(講談社、1989年)、199-217頁を参照。

[vii] 『蜘蛛男』、249頁。

[viii] 『探偵小説四十年上』、399頁。

[ix] 『蜘蛛男』、131、135-44頁。