江戸川乱歩『黄金仮面』

(本書の内容等を、詳しく紹介しています。)

 

 『黄金仮面』は、雑誌『キング』に1930年から翌年にかけて連載された、江戸川乱歩最大のヒット作のひとつである。大内茂男によっても「大衆小説界に乱歩の人気を不動のものたらしめた快作」[i]と評価されている。そもそも『キング』というのが百万部売ったこともある全国津々浦々まで知れ渡った国民的雑誌だったそうだ[ii]

 乱歩も、同じ講談社の『講談倶楽部』連載作以上に、気を使って構想を練った模様で、「私の癖のいやらしい感じは、なるべく出さないように力(つと)めた」[iii]という発言が残っている。確かに、『蜘蛛男』(1929-30年)や『魔術師』(1930-31年)と比べても、残虐無残な場面は抑え気味で、あのあくの強さがだいぶ薄められている。

 いや、それ以上に、今回読み直して実感したのは、本書のノリが「少年探偵シリーズ」と同じである、あるいは、むしろ本書こそ乱歩の「少年ミステリ」の原型ともいうべき作品であるということだった。もちろん、通俗長編小説はいずれも少年ミステリと似たり寄ったりだと言われれば、そのとおりなのだが、しかし、乱歩自身が意図して「乱歩らしさ」を控えめにしたことで、少年探偵団もののもつ明朗快活さを生み出している。そこが、一番少年ミステリ・シリーズと似通っているところだろう。

 無論、殺人事件も起こるのだが、筋の中心は、犯人と明智小五郎の知恵比べに加えて、逃亡と追跡、攻撃と反撃のアクション・シーンで、次のような事件の連なりによって成り立っている。

 博覧会会場の塔の上に追い詰められた盗賊が黄金仮面の装束だけ残して消え失せる。

 日光に住む富豪鷲尾家を、F国(フランス?)大使ルージェール伯が訪問するが、貴重な美術品がいつの間にか偽物とすり替えられ、そのうえ、娘の美子が殺害される。殺人犯は明らかになるが、盗賊の正体は不明のまま事件は一段落する。

 富豪の娘である(またですか)大鳥不二子が黄金仮面と恋に落ちて(!?)、厳重に監視された自宅の部屋から姿を消す。一旦は不二子を取り戻した明智だったが、再度黄金仮面に出し抜かれて、不二子もまた行方不明となる。

 F国大使主催の舞踏会で、な、なんと、大使その人が黄金仮面であることが暴露される(誰もビックリしません)。明智や浪越警部らに取り囲まれた黄金仮面は、隙をついて部屋を脱出するが、十重二十重に取り囲むように待ち構えていたはずの警察官の姿がどこにもなく、まんまと逃げおおせる。

 著名な芸術家のアトリエに賊が入る。ところが、何も盗まれていない。しかるに、それを知った芸術家の川村雲山は、なぜか自殺してしまう。な、なんと、雲山が密かにすり替えて私蔵していた国宝の玉虫の厨子が盗まれていたのだった(これは、本当にビックリですね)。

 以上のように、連続する幾つものエピソードを通して、怪人体名探偵の対決が描かれるのだが、前述の「らしさ」を抑えたという発言どおり、人死にはあまり出ない。日光の殺人も、犯人は黄金仮面ではない。というのも、黄金仮面とはアルセーヌ・ルパンだからである。

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 モーリス・ルブランが、アルセーヌ・ルパンの物語にシャーロック・ホームズを登場させたのは有名だが[iv]、そこからヒントを得たのか、なんとルパンを登場させて、明智と対決させるのが、本作の目玉となるアイディアである。なるほど、本書が「少年探偵シリーズ」の原型たる所以はここからも明らかである。ルパンを怪人二十面相に置き換えれば、そのまま少年探偵団ものになる(ルパンのままだって、構わない)。

 使われているトリックも、すでにお馴染みの手品ばかりで、「一人二役」、「人間消失」、「盲点犯人」、「二つの部屋」、「意外な隠れ家」と盛りだくさんである。とくに、乱歩が魅せられてやまない「一人二役」がいたるところで使用される。黄金仮面が大使に扮しているかと思えば、明智が賊の一味に化けるといった具合で、作中に登場する人物の半数はルパンか明智の変装だと言っても過言ではない!(そんな無茶な。)

 そもそも黄金仮面という奇抜な扮装自体、ルパンが外国人であることを隠すためのカモフラージュだというのだが、黄金の仮面をかぶった怪人とか、怪しすぎて、かえって目立つでしょうに。明智まで黄金仮面のコスチュームを身に着けて、同じく黄金仮面のルパンと取っ組み合うに至っては、光景を頭に浮かべるだけで面白すぎる。マルセル・シュオップの退廃的な世紀末幻想小説[v]も、これではとんだお笑い草である。

 乱歩の特徴的な語り口も本作では控えめで、そのせいか、『蜘蛛男』や『魔術師』と比べて、むしろ非現実な印象が強い(少年探偵ものに特徴的な、非日常の冒険物語の雰囲気なのだ)。『蜘蛛男』が現実的だなどと言うつもりはないが、あの乱歩独特の言い回し、蜘蛛男のへらへらとした薄気味悪さは、ある意味確かな存在感をもって読者に迫ってくる。さすがに、ルパンでは、乱歩の筆でも存在感をもって描くのは難しかった。

 ただ、紙芝居的とはいえ、探偵対怪人の騙しあいの応酬と目まぐるしく攻守が入れ替わるテンポの良さは、他の乱歩長編と比較してもずば抜けており、全国の老若男女を夢中にさせただけのことはある。ちゃちな張りぼて芝居と侮ってはならない。それに本作の明智は、さすがに相手がアルセーヌ・ルパンなので、いつもほど悠然と構えてはおらず、焦ったり悔しがったり、なかなか熱血漢である(乱歩も、明智ばかりが主人公ぶって、ルパンを小物扱いするわけにはいかなかったのだろう[vi])。とりわけ、日光の事件で賊を取り逃がした明智が自らを叱咤して「俺はなんという間抜けだ」と地団太踏む姿は、いつもの明智らしくない取り乱しようで、なんか可愛げがある。しかも、この場面、わたしがもっている春陽堂文庫版では、とんだ誤植があるのだ。

 

 「ちくちょうッ(ママ)、あいつのわなだ。バカ野郎。とんま。(以下、略)」[vii]

 

 「ちくちょうッ」て、悪態ついてるチビッ子じゃあるまいし。可愛げありすぎるよ、明智小五郎。わざとじゃないですよね、春陽堂さん。

 それと、これは連載時から、そうだったのかわからないのだが、二箇所、傍点のついた文章があるのだ。

 

  「ちょうどそのころ、鷲尾氏とルージェール伯とは、まだ寝もやらず、晩餐から引 

 き続いての美術論に打ち興じていた。」[viii]

 

  「・・・歴史上にいまだかつて前例のない珍事がおこったのです。・・・」[ix]

 

 以上の引用した文章全体に傍点が打ってあるのだが、どちらも日光での事件のエピソードである。後者は、正体を明かした明智が口にする言葉だが、どうやら鷲尾家の美術品がすっかりすり替えられていることを指して、こう言っているらしい。しかし、前者のほうの傍点の意味がよくわからない。

 「ちょうどそのころ」というのは、美子が浴室で殺害される場面と同じころということであり、つまりルージェール伯(実はルパン)は殺人犯人ではないことを暗示している。ルージェール伯すなわちルパンであることは、このエピソードではまだ明らかにされないが、伯が怪しいのは明白である(「はく」だけに)。誰でも、こいつが犯人らしいと思うような書き方なのだが、しかし、殺人事件後、伯は訊問などを受けることもなく、屋敷を発ってしまう。伯が怪しいと思っている読者をはぐらかすための手なのだろうか。この後の舞踏会の場面で、ルージェール伯の正体がルパンという種明かしが来るのだが、この傍点も作者なりのヒントだったのだろうか。ここだけ特に傍点が打ってあるので、逆に怪しさが強調されるのだが、読者に先を予想しやすくさせるための余計なお世話的伏線という理解でいいのでしょうか[x]

 

 いろいろ面白い『黄金仮面』だが、乱歩全作品中で、エロティックでもグロテスクでもない、もっとも口当たりの良い怪奇冒険ミステリであって、繰り返しになるが、乱歩らしからぬ「ほがらかな」(この言い回しは乱歩っぽい[xi])雰囲気が特徴である(ほがらかな、というか、妙な明るさのある作品は多い)。

 最後のクライマックスでは、ルパンが操縦する小型飛行機から「いやがる不二子さんをこわきにかかえた明智小五郎が、身をおどらせ」[xii]る(なんだか明智のほうが悪人みたいだ)。無事パラシュートで地上に降り立った二人をあとに、ルパンを乗せた飛行機は彼方に飛び去る(ルパンが、もう一度、不二子を空中でかっさらっていくんじゃないかと思った)。数日後、洋上に漂う無人飛行機が発見されるラスト[xiii](よく考えると、鉄だから沈むんじゃないの)は、ルパンはまた来るよ、という、ありがちな続編を期待させて、おおいに読者の気を引く(実際は、もちろん続編など書かれなかった)。

 乱歩の毒に酔いたい向きには、全体があっさりしすぎていて物足りないだろうが、怪人二十面相ものとの類似性など、乱歩ミステリを考えるうえで見逃すことのできない作品のひとつと言えるだろう。(とってつけたようなまとめ方になってしまった。諒とされたい。)

 

[i] 大内茂男「華麗なユートピア」『幻影城 江戸川乱歩の世界』(第一巻第七号、1975年)、222頁。

[ii] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、420頁。

[iii] 同、421頁。

[iv] 初期短編のひとつ(『強盗紳士』(1907年)所収)に出てくるが、一番有名なのは、もちろん『奇巌城』(1909年)。

[v] 黄金仮面のアイディアが、マルセル・シュオップの「黄金仮面の王」(1892年)に由来することは言うまでもない。

[vi] ルパン物に出てくるホームズが、かなり酷い扱いで、ホームズ・ファンを憤慨させたのは、よく知られた事実。

[vii] 『黄金仮面』(春陽文庫、1972年)、76頁。

[viii] 同、43頁。

[ix] 同、48頁。

[x] 乱歩の「ヴァン・ダインを読む」というエッセイに、ファイロ・ヴァンスものは犯人も作者の意図もわかりやすすぎる、という風なことが書いてあって、ただし「これは大衆的興味からは寧ろいいことかも知れませんが」と付言されている。一般読者に読んでもらうには、ある程度先が読めるような書き方が必要だ、ということなのだろう。これは昭和4年(1929年)発表の文章である。江戸川乱歩『蔵の中から』(講談社、1988年)、47頁。

[xi] 『黄金仮面』、144頁参照。

[xii] 同、251頁。

[xiii] 同、252頁。