横溝正史『本陣殺人事件』

(本作品の犯人、トリックから動機まで、あらいざらいぶちまけています。)

 

 『本陣殺人事件』については、すでに語り尽くされていて、もはや新たな論点は残されていないように思える。

 しかし、その評価は、我が国のミステリ史に新たな時代を切り開いた長編ということで衆目は一致するものの、若干の見解の相違が見られるのも事実のようだ。本書完結直後の昭和20年代、探偵小説作家の多くが傑作と評価する一方で、ミステリ好きの文芸作家は、むしろ『蝶々殺人事件』を支持したということは、よく知られている[i]が、それ以外にも、とくに本書の密室の謎をめぐって、評価は二分されるようである。

 すでに、江戸川乱歩が本作の完結直後に発表した長文の批評で、問題点を洗い出している。

 密室の謎に関しては、日本家屋において密室トリックを案出した創意と琴爪などの小道具を扱う巧みさを賞賛したうえで、逆に多くの小道具を使用しなければならないメカニズムの複雑さを批判している。さらに、このメカニカルなトリックについて、「機械的トリックを使用した作品は決して第一流のものではない」と断じ、作者がそれを承知しながら使用したのは、「既にして最上のものを目ざしていなかったこととなる」と決めつけている[ii]。この機械的トリック劣等論は、いささか短絡的すぎるきらいもあるが、一般的な理解としては間違っていない。他方、最大の長所として挙げているのは、「論理の網の目が細かい所まで行き届き、極めて巧みに組立てられていて、少しもごまかしがないこと」で、さらに付言して、「発覚後の解説も殆ど申分がない。(中略)一枚一枚皮をはぐように疑問が氷解し、論理の辻褄が合って行くところ、作者の腕の冴えを目のあたりにして、ヤンヤと褒め立てたい快感を覚える」、と手放しの賛辞である[iii]。言い換えれば、無数の伏線や手がかりが張りめぐらされ、そのすべてが解読されているということである。要するに、乱歩の見解は、密室トリックは、よいところもあるが不満が大きい。しかし、伏線とそれを回収解説する技巧は素晴らしい、ということだろう。

 この乱歩の評価を、さらに敷衍し、先鋭化したものとして、都筑道夫による分析が挙げられる。本作の美点を「一読しただけではわからないような凶器はこびだしのトリックよりも、(中略)いろいろ細かい工夫にある」として、もっとも面白いのは、冒頭、三本指の怪異な男が一柳家に行く道を尋ねる、その問いの意味が解ける瞬間だと結論している[iv]。トリックよりも論理を重視する都筑の持論からすれば当然の発言で、乱歩の評価とも概ね一致しているといえる。

 とはいえ、本書が何よりもまず「密室ミステリ」として知られてきたのは事実であるし、その複雑なメカニズムがむしろ絵画的効果を演出して、本作のヴィジュアルなイメージづくりに役立ってきた。例えば、日影丈吉は、「あの美しい無人の機械トリック世界と、三本指の男のムードがちぐはぐで、作品のアンバランスが気になる」、と述べ、ある席で、著者に直接「あの男を取ってしまえないのか」と訊ねたというエピソードを打ち明けている[v]。都筑とは真逆の受け取り方が興味深い。

 確かに、犯人も被害者も息絶えた無人世界で、離れから雪に埋もれた庭へと、日本刀だけがカタカタと動き続ける様を想像すると、まるで幻想怪奇小説のひとコマのようで、『本陣殺人事件』の物語世界を鮮やかに彩っている。金田一によるトリック再現を通して、読者の一人ひとりに複雑なトリックの構造を「なんとなく」理解させる作者の手際も巧みである。

 こうした審美的見地からの評価と、あくまで論理性を優先する立場と、所詮は好みの問題ではあるが、無論、作者が意図しているのは、英米風のパズル・ミステリ、つまり論理性に他ならない。しかし、横溝の日本的感性と豊かな想像力が、常識的な合理主義に収まらない非日常世界を描き出してしまうところに、横溝ミステリの多角的魅力があるのだろう。

 そう考えると、英米風のミステリを、という横溝の意気込みとは裏腹に、最初から、本書は、合理性と非合理的なトリックの間でテーマが分裂しており、それが上記のような対立する評価を生んできたともいえる。それまでの日本のミステリには見られなかったレヴェルの論理性を持ち込みながら、トリックは空想的という矛盾。しかし、これが本書に、戦前に小栗虫太郎が書いたような日本的な「変格」本格ミステリの一面を与えている。

 そして、そのことは、あるいは作者自身が一番よく知っていたことなのかもしれない。後年のエッセイで、横溝は、『本陣』の密室トリックの腹案を岡山の知人に聞かせたところ、「それ、そんなにうまくいきますかね?」とからかい気味に問われた思い出を記している[vi]。作者の回答は、「うまくいったから、事件になったんじゃない」というものであったらしい[vii]。しかし、この返答は、理に落ちて、というより、当たり前すぎて、あまり面白くないし、横溝らしくもない。本当は、こう言いたかったのではないか。「うまくいきっこないから、小説にするんじゃない。」開き直りとしか見えないし、そもそもこちらの想像に過ぎないのだが、現実だったら到底ありえないトリックでも、紙の上でなら実現できる。そこにこそミステリの醍醐味がある。本書の、あまりにも常識から突き抜けた摩訶不思議な密室トリックを目にすると、例えばディクスン・カーの『三つの棺』のような中途半端に現実的なトリックを飛び越えた、唯一無二の異次元のミステリに見えてくる。

 

 しかしながら、再び話を理に戻すと、この密室からの凶器運び出しトリックは、実のところ、他殺に見せかけた自殺という本書のメイン・アイディアを成立させるための手段に過ぎない。

 そして、その観点からすれば、こちらも乱歩の批判項目にあった、動機の不可解さが問題となってくる。犯人が自殺しなければならない「心理的必然性が欠けている」[viii]、という乱歩の指摘はもっともで、実際、この点が従来から本作の最大の弱点とされてきた[ix]

 乱歩の批判に対し、作者は、単行本化に際して、かなりの加筆をしたとされている[x]。生憎、どこが加筆された箇所であるのか、筆者にはわからないので、想像するほかないが、恐らく、第15章で、金田一耕助が述べる「これは悪意と憎しみにみちた、普通の殺人事件なんです」[xi]以下の部分がそうなのだろう。本作の犯人は、被害者を憎んでこれを殺害したが、自分が殺人を犯した罪の意識に長くは耐えられないことを知っていて、警察の捜査が始まる前に自ら命を絶つことを選択した、という説明である。殺人犯人が犯行後に自殺をはかるのは、現実の犯罪でもしばしば耳にすることなので、本作の場合、その順序が少し前後しただけだ、という金田一(すなわち作者)のこの弁解(?)は、なかなか巧妙である。少々こじつけ気味で、論旨のすり替えのようにもみえるが。

 動機に関しては、もうひとつ、自殺するのに、なぜ密室にしなければならなかったのか、という疑問もある。偶然雪が降ったので密室にせざるを得なかった、という金田一の「名言」があるが、そのことではなくて、正確に言えば、なぜ他殺に見せかけなければならなかったのか、という問いである。言い換えれば、なぜ犯人は、それほどまでに、自殺したことを知られたくなかったのか、ということだが、このことは、乱歩の批判点には含まれていない。無論、真相が自殺である以上、その真相を隠して謎とするには、他殺に見せかけなければならない。ミステリの構成上は、当然そうなのだが、作中の犯人の心理は、別に考える必要がある。上記のように、犯人はなぜ自殺を選んだのかを説得的に説明するために、作者は、加筆までして犯人の人物像を描いているので、その結果、この性格の持ち主なら、自殺したと周囲に知られたくないだろう、と、ある程度読者を納得させることはできているといえる。

 しかし、自殺したことを知られたくない、と本当に思っていたのなら、本書のような複雑怪奇なトリックに頼ろうとはしないはずなのである。このような成功確率の低い犯行計画に死後の名誉をかけるのは、思慮深い知識人であるはずの犯人らしからぬ冒険である。予期せぬ事態が生じた際には、共犯者に事後対応を託しておいた可能性もあるが、犯人と共犯者の関係を見ると、どうもそうではなかったらしい(共犯者が、事件後に再びトリックを試みたのは、金田一の挑発のせいだったようだ)。

 こうしてみると、やはり、本書は、自殺の動機といった現実的な部分と、トリックの非現実性とが、どこまでいっても乖離したままであると言わざるを得ない。この点を突っ込まれていたら、作者も困ったことだろう。恐らく、いや、犯人は自殺するつもりだったので、成功確率の低いトリックでも気にしなかったんだ、だって、死んでしまえば、所詮はどうでもいいことだから、と突っぱねるしかなかっただろう。そのためには、本書の犯人はもっと遊戯的な性格に描く必要があったはずだが(もっとも、こんなトリックを考える時点で、充分遊戯的であるといえるが)。いずれにせよ、乱歩が、そこまで追求しなかったのは、正史にとっては幸いだったかもしれない。

 

 『本陣殺人事件』は、作者がまだ自身の持ち味を十分認識することなく、西洋のパズル・ミステリに挑戦してしまった作品で、連載完結後も外部の批評に影響されるなど、試行錯誤の産物だったといえる。長編とも中編ともつかない長さ、異常に長い解説などを含めて、荒削りで、ごつごつとした手触りを感じさせる。作者が習作と位置付けたのも無理はない[xii]。それでいて、しかし、物語としては一切の夾雑物を排して完成されており、不器用なところがない。聞き書き形式の効果もあってか、毛筆で描いた淡彩画の印象で、文章も横溝の本来のスタイルからすれば抑制され、かつて日本に存在した、しかし、現実にはありそうもない小世界を作品のなかに封じ込めることに成功している。つまり、ここにもギャップがある。このパズル・ミステリとしての歪(いびつ)さと完結した小説世界との間の危うい均衡は、しかし、本書の完成度の低さというより、むしろ、未完成度の高さを示している。そこが最大の魅力といえるだろう。

 

[i] 代表的なものとして、坂口安吾の論が有名。坂口安吾推理小説論」(1950年)『横溝正史読本』(小林信彦編、角川書店、1976年)、173-74頁。ただし、『本陣殺人事件』も、同じように支持されていたことを示す評論もある。荒 正人「横溝正史論」(1960年)『幻影城 横溝正史の世界』(18号、1976年)、63-65頁。

[ii] 江戸川乱歩「『本陣殺人事件』を読む」(1947年)『別冊幻影城 横溝正史 本陣殺人事件・獄門島』創刊号(1975年9月)に再録、282-84頁、同「本陣殺人事件」『随筆探偵小説』(光文社、2005年)、395-99頁。

[iii] 「本陣殺人事件を読む」、281、283頁、「本陣殺人事件」、394-97頁。

[iv] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)、55-56頁。

[v] 日影丈吉「羨ましいきまってる人」『幻影城 横溝正史の世界』(5月増刊号、1976年)、177頁。

[vi] 「本格探偵小説への転機 『本陣殺人事件』の前後」(1973年)『探偵小説昔話』(新版横溝正史全集18』(講談社、1975年)、111頁。この疑問は乱歩も指摘している。「『本陣殺人事件』を読む」『随筆探偵小説』、398頁。

[vii] 「自作を語る」(小林信彦との対談)『横溝正史読本』、49頁。

[viii] 「『本陣殺人事件』を読む」、284頁、「本陣殺人事件」、400頁。

[ix] 阿部主計「お立合い金田一耕助君」『名探偵読本8-金田一耕助』(中島河太郎編、パシフィカ、1979年)、54頁参照。

[x] 横溝正史「『本陣殺人事件』あとがき」『探偵小説昔話』、48頁、『横溝正史自選集1 本陣殺人事件・蝶々殺人事件』(出版芸術社、2006年)、335頁。

[xi] 『本陣殺人事件』(角川文庫、1973年)、166頁。

[xii] 「『本陣殺人事件』あとがき」(講談社)、47頁、同(出版芸術社)、336頁。