横溝正史『壺中美人』

(本書の犯人等に言及していますので、ご注意ください。)

 

 1960年は、横溝正史の書下ろし長編ミステリが三編も発表されている。いずれも東京文藝社から刊行されていた「続刊金田一耕助推理全集」に収録されたもので、第1巻が『スペードの女王』(6月)、第2巻が『支那扇の女』(7月)、第3巻が『壺中美人』(9月)と続いて、第4巻は『扉のかげの女』だったが、これは翌年1月の出版だった。

 この「全集」は第5巻が『霧の山荘/女の決闘』(1961年1月)で、この巻までは、新作長編または中編を目玉にしていたが、第6巻『悪魔の手毬唄』からは既刊長編に変わって第10巻『獄門島』(1961年5月)で終了したらしい[i]。完結したのかどうかはわからない、というか、私は一冊も所有していないので、知らない。いずれにしても、作者も新作の連投はしんどくて、書下ろしは5巻までで勘弁してちょ、ということだったのだろう。

 これより前、『蝋美人/毒の矢』、『死神の矢/黒い翼』(ともに1956年刊)も東京文藝社の「金田一耕助探偵小説選」として公刊されたものであるし、『不死蝶』、『悪魔の降誕祭/華やかな野獣/暗闇の中にひそむ猫』、『魔女の暦/鏡が浦の殺人』(すべて1958年刊)は、「金田一耕助推理全集」の第1巻から第3巻として刊行されている[ii]

 さらに1962年には『悪魔の百唇譜』が、1964年には『夜の黒豹』が出版されていて[iii](ついでに1975年には『迷路荘の惨劇』も)、つまり「中短編の長編化」作品は、東京文藝社の独占事業(?)だった。同社のおかげで、私たちは横溝の長編ミステリを10冊以上楽しむことができたのである。ありがとう、東京文藝社。

 ところで、これらの「中短編の長編化」作品は、すべてが長編かというと微妙である。浜田知明は、『毒の矢』、『支那扇の女』、『悪魔の降誕祭』は「中編」とみなしている[iv]。確かに、これら諸作は分量的に中編と定義してもおかしくない。一方『魔女の暦』や『壺中美人』は「長編」となっている[v]のだが、(上記の三冊のなかで一番長い)『毒の矢』と比べて、さほど枚数に違いはないようだ。長編と中編の境は、どこにあるのだろう。あるいは、中編と短編の境界は?

 角川文庫でざっと比較すると、『毒の矢』は、200頁に満たない。『魔女の暦』と『壺中美人』は200頁を越えている。このあたりが一応の目安なのだろうか。私も、大体そのように考えてはいたのだが、困るのは『本陣殺人事件』が200頁以下なことである[vi]。同じ文庫でも、一頁当たりの字数の違いなどもあるだろうが、とはいえ『毒の矢』も『本陣』も分量にあまり差はない。さすがに『本陣』を中編とは呼びにくい。しかし、『毒の矢』を長編とするなら、『支那扇』や『降誕祭』も、やや短めだが長編に入れてもよさそうな気がする。さすがに「霧の山荘」[vii]などは150頁未満なので、中編だろうけれど。戦前の「幻の女」(1937年)などもそうだが、連載されていても、短期の場合、長編とすべきか、中編なのか、判断に迷うことがある。一体、客観的な基準はあるのだろうか。

 と、無駄話を続けてきたが(まあ、全部無駄話ではあるのだが)、本題に入ろう。『壺中美人』は、上記の通り、『スペードの女王』、『支那扇の女』(ひとまず長編として扱う)に続いて発表された書下ろし長編である。といっても、文庫本で実質202頁の短めの長編[viii]で、原型は1957年に雑誌に掲載された「壺の中の女」[ix]だから、いわゆる「女シリーズ」[x]の一編である。

 短編版は、いかにも枚数不足、説明不足で、長編版と読み比べると、その要約のようにみえる。あまり出来がいいと思えないが、長編版にしても、そもそも横溝の長編化作品は評判が芳しくないが、そのなかでも、面白くないことでは一、二を争う(?)。

 原型版は西荻窪が舞台だが、長編版では、『支那扇の女』に合わせてか、成城に移して、変わり者の画家のアトリエで奇妙な殺人事件が起こる。身の回りの世話をしていた中年婦人の目撃によると、アトリエの中で、中国服を着た娘が壺の中に入り込もうとしていた(!?)のだという。婦人がたてた音に驚いて、中国服の娘は逃走するが、そのあと、アトリエの中二階の寝室で、画家の井川謙造が刺殺されているのが見つかる。壺というのは、楊祭典という中国人(実は日本人)の芸人が奇術で使っていたのを、テレビでそれを見た井川が、楊に頼み込んで譲ってもらったものだった。中年婦人の宮武たけ(なんだか面白い名前だなあ)が目撃した中国服の娘は、楊の相棒の華嬢らしく、彼女は体を器用にたたんで壺に入る芸を得意としていたのである(だからって、なんで犯行後に壺に入るんだ?という疑問は、作中で警察も抱くが、そこは不問ということで[xi])。

 その華嬢と思しき女は、深夜の街を逃走中に巡羅中の警官に呼び止められたが、突如相手をナイフで刺して逃げ去る。しかし、警官が女を抱きかかえたことが、のちの金田一の推理にとって決定的な手がかりとなるという塩梅である。

 井川には妻があったが、彼のサディスティックな振る舞いに耐えかねて家を飛び出し、今は離婚調停中である。しかも、井川には男色の癖(へき)があり、そのことも妻のマリ子が家を出た要因のひとつだったらしい。井川の家は資産家で、彼自身親から譲られた土地を武蔵野一帯に所有している。従ってマリ子にも遺産相続という動機があるが、彼女は愛人の元ボクサーと一夜をともにして、アリバイに不審な点はないようにみえる。重要容疑者の楊華嬢の行方は一向に知れず、しかも彼女が犯人だとしても、動機がはっきりしない。さて、真相は?

 本作は、この時期の作者に特徴的な風俗味の強いミステリで、同性愛および女装がテーマになっている。被害者の設定や事件など、数年前の短編「生ける死仮面」(1953年)に似たところもあるが、要するに昭和20年代末あたりから顕著になる、横溝のエロ・グロB級ミステリの一編である。

 同年の『スペードの女王』や『支那扇の女』には、まだトリッキーな仕掛けやトウィストが見られたが、本作の場合、上記のごときテーマなので、のぞき趣味の扇情的なスリラーという印象で、トリックらしいトリックもない。横溝長編小説全体のなかでも、最低クラスの一作とみなされそうだが、再読すると、細かな証拠や手がかりを丹念に拾っていく金田一の推理には、それなりの面白さがあることを認識した。何気ない事実や人物の言動をとらえて推理を組み立てるのは、エルキュール・ポアロやフェル博士のお得意の技だが、本書でも、金田一が等々力警部らとの会話でみせる、打てば響くようなテンポのよい応酬と推論の積み重ねは見もので、正史の文章も弾んでいる[xii]。どうやら、本作では、トリックよりも手がかりとなる物的データや伏線を細かく配置することで謎解きミステリとしての首尾を整えようとしたらしい。

 もう一つの工夫は、これも横溝らしく、登場人物を右往左往させ、得意の共犯関係のトリックでパズルの複雑化を図っていることである。組み合わせ方は、スワッピングというか、夫婦交換というか、井川と華嬢がくっつくと、残った楊とマリ子が共闘するという具合で、しかも、上記のように同性愛と女装が絡むので、入り組んだ謎の解決と相応に意外な真相が特色となっているといえるだろう。

 さらに特徴的な手がかりとして、女装の男性の正体を見抜くそれがあるが、浜田知明によれば、このアイディアは、マーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』やトマス・ハンショーの『四十面相のクリーク』に出てくるものだという[xiii]。『壺中美人』では、金田一が、探偵小説で読んだ[xiv]、と言っているので、横溝自身は『四十面相のクリーク』で知ったのかもしれない[xv]。短編版では、テレビで華嬢ののどぼとけに気がついたと種明かしするのだ[xvi]が、さすがに、それはない、と考えたのだろう(女装しておいて、のどぼとけを隠さないというのは、ありえないから)。金田一の説明は、なかなかどうして際どくて(何が、とは聞かないで)、最初読んだときは十代だったので、けっこうドキドキしましたね。

 

[i] 島崎 博編「横溝正史書誌」『本陣殺人事件・獄門島』(『別冊幻影城』、1975年9月)、338-39頁。

[ii] 第4巻は『火の十字架/貸しボート十三号』(1958年9月)、第5巻は『迷路荘の怪人/トランプ台上の首』(1959年2月)。同、336-37頁。やはり、新作は5巻までというのが約束だったらしい。

[iii] 同、340-41頁。

[iv] 浜田知明金田一耕助の探偵事務所 『悪魔の降誕祭』を中心に」『横溝正史研究 創刊号』(江藤茂博・山口直孝浜田知明編、戎光祥出版、2009年)、105-106頁。

[v] 同、105、107頁。

[vi] 『本陣殺人事件』(角川文庫、1973年)、5-199頁。

[vii] 『悪魔の降誕祭』(角川文庫、1974年)、223-363頁。

[viii] 『壺中美人』(角川文庫、1976年)、5-207頁。細かいことだが、5ページ目はタイトルのみ。

[ix] 「壺の中の女」『金田一耕助の帰還』(出版芸術社、1996年)、137-55頁。

[x] 同、「作品解説」(浜田知明)、252頁参照。正確には『週刊東京』誌上に掲載された「ミステリーシリーズ」。

[xi] ひとつ思いついたのは、江戸川乱歩の『孤島の鬼』(1929-30年)のトリックを意識していたのだろうか(未読の方は、すいません)。

[xii] 『壺中美人』、175-79頁。

[xiii] 浜田知明金田一耕助の探偵事務所 『悪魔の降誕祭』を中心に」、102頁。

[xiv] 『壺中美人』、197頁。

[xv] しかし、横溝の長男の亮一氏によれば、子ども時代に正史に買ってもらった多数の世界文学のなかに、『ハックルベリ・フィンの冒険』も含まれていたらしい。「インタビュー 横溝亮一氏 岡山疎開時代の思いで」、江藤茂博・山口直孝浜田知明編『横溝正史研究3』(戎光祥出版、2010年)、24-25頁。

[xvi] 「壺の中の女」、154頁。