横溝正史『スペードの女王』

(『スペードの女王』および原型の「ハートのクイン」のほか、『真珠郎』、『夜光虫』、「神楽太夫」、『夜歩く』、「黒猫亭事件」、『悪魔の手毬唄』、『白と黒』の横溝作品。エラリイ・クイーンの『エジプト十字架の謎』、クレイトン・ロースンの『首のない女』、江戸川乱歩の「石榴」、高木彬光『魔弾の射手』の内容に触れています。追記、A・A・ミルンの作品に関する注を追加しましたので、未読の方はご注意ください。2024年1月1日。)

 

 『スペードの女王』は、1958年に発表された短編「ハートのクイン」[i]を長編化して1960年に東京文藝社から刊行された。約4倍の分量に改稿されたという[ii]

 横溝正史による中短編の長編化は、東京文藝社が企画した「金田一耕助探偵小説選」(1956年~)および「金田一耕助推理全集」(1958年~)の売り物となる「新作長編」として始められたもののようだ。『不死蝶』のように昭和20年代に書かれた作品を30年代になって改稿したものもあるが、十編を超える長編化作品は、概ね昭和30年代の中短編から選ばれている。恐らく出版社からの要請によるものであろうから、著者がどうしても長編化したいと考えたというよりも、既発表の中短編から、これはと思うものをピックアップしたのだろう。『スペードの女王』に続けて出版された『支那扇の女』(1960年)のように、犯人を含めた根本的構想を変えてしまう場合もあるが、解決はそのままでエピソードを加えてふくらませることが多い。そのなかで、『スペードの女王』は、『支那扇の女』同様、犯人が変えられている。もっとも、ミステリとしてのテーマは変わっていない。「顔のない死体」である。

 長編化作品は、横溝長編のなかで一段落ちるものと受け止められている。少なくとも、代表作とされるのは、いずれも連載長編である。作者自身の力の入れ具合も連載長編とは異なり、よく言えば、大仰な描写もなく肩の力が抜けた読みやすさがあるが、悪く言えば、気の抜けたマンネリ化した内容で、文章にも精彩がない。

 とはいえ、十数編のなかには注目すべき長編もあり、『スペードの女王』は、私見では、これらのうちでも最上位に位置するものと思う。その理由は後述するが、本作の出来栄えには、テーマである「顔のない死体」が作者の好んだ題材であることも影響しているといえそうだ。

 「顔のない死体」は、説明するまでもないが、ミステリの最も基本的なトリックのひとつである。エドガー・アラン・ポーが真相を見破ったというチャールズ・ディケンズの『バーナビー・ラッジ』(1841年)がその先駆とされるが、とすれば、まさにミステリの創世記からの基本アイディアの一つと言えるだろう。

 横溝がこのトリックに引かれ、かなり詳しい評論まで書き[iii]、幾つものヴァリエーションで作品化していることはよく知られている。

 一応、このトリックについて解説すれば、次のようである。

 首を切り取られるか、顔を傷つけられ、身元が不明の死体が発見される。衣服等からAという人物と判定されるが、同人と反目していた人物Bの行方が知られなくなっている。警察は、Bを殺害犯人として捜索するが、実は、犯人はAで、Bを殺害した後、自分と衣服を交換し、身元が不明となるように首を切るか、顔を傷つけるかしたことが判明する。

 以上のように、このトリックは、ミステリの意外性の大半を占める「意外な犯人」の諸パターンのうち、「被害者が犯人」という類型のヴァリエーションである。

 「被害者が犯人」という類型である以上、このトリックの解決方法は決まっており、欧米のミステリでこのトリックが用いられる場合は、ほとんどこの基本パターン通りに解決される。これは横溝が指摘している通りである[iv]

 このテーマの応用としては、被害者と犯人の入れ替わりではなく、単に身元を不明にすることや死因を隠ぺいする(首を切る場合)ことが目的という解決法がある[v]。横溝作品では、『スペードの女王』と同時期の『白と黒』(1960-61年)がこの解決法を取っている。

 もう一つ、基本解決法をひっくり返した「被害者と犯人が入れ替わっているとみせかける」というヴァリエーションがある。このトリックの類型である「被害者が犯人」という定義を否定してしまう、というより、二重否定によって意外性を出す応用法ということになる。例は、横溝自身が評論で挙げている江戸川乱歩の「石榴」(1934年)である[vi]。これは、読者が「顔のない死体」のトリックを熟知しているという前提で考えられた解決法で、江戸川乱歩の初期短編によくみられる「既成トリックの裏返し」という、すでにミステリの行き詰まりを見据えた、ある種考えすぎともいえる解法である。欧米のミステリでこの解決法を取った作品があるのか、寡聞にして聞かないが、このような、ひねくれたアイディアは日本人ならではのものかもしれない。

 横溝が本格的に「顔のない死体」に取り組んだのは、『真珠郎』(1936-37年)だが、その解決法はエラリイ・クイーンの『エジプト十字架の謎』(1932年)に拠っている。クイーン作品は、基本的解決法に則っているが、顔のない死体の殺人を複数起こして、そのうちの幾つかだけ、犯人と被害者が入れ替わっているというアレンジを加えている。いわば「顔のない死体」の複数化であるが、『真珠郎』では、被害者と犯人の入れ替わりを行う前に、それをカムフラージュするために最初の殺人で死体から首を切り取るということになっている。一方、同時期の別の長編『夜光虫』(1936-37年)では、ルブランの『金三角』を下敷きにしたオーソドックスな解決法を採用している。

 このように、戦前の作品から著者はこのトリックに関心を寄せていたことがわかるが、新しいヴァリエーションの開発に積極的に取り組むようになるのは戦後である。

 戦後の第一短編である「神楽太夫」(1946年)では、対立するAとBがおり、顔のない死体が発見される。最初神太夫の衣装から被害者はAと思われていたが、実はBであると判明する、という風に定型的に進行するが、解決は、A、Bとも殺害されていて、第三の人物Cが犯人とわかるというものである。この新しいヴァリエーションは、この後も『夜歩く』(1948-49年)で使用されている。『スペードの女王』も、実は、このパターンである。

 中編『黒猫亭事件』(1947年)では、顔のない死体が発見され、AとBの行方が不明となるが、実はAはBの一人二役による架空の存在で、被害者は全く別のCだったという結末である。「神楽太夫」の「犯人は第三の人物」という解決法を「被害者は第三の人物」に置き換えたともいえる。こちらも、ある意味考えすぎの解決法と言えなくもない。

 最後は、『悪魔の手毬唄』(1957-59年)で、顔のない死体の発見とともに失踪したと思われたBは被害者Aの一人二役だったという解決法である。「黒猫亭事件」の「犯人の一人二役」を「被害者の一人二役」に置き換えたともいえる[vii]し、「神楽太夫」の「犯人は第三の人物」と同一パターンともいえる。恐らく、作者の自信のあるトリックだったが、高木彬光に先例がある[viii]

 いずれにしても、日本人作家、とくに横溝正史は「顔のない死体」トリックに、実に情熱的に取り組んだといってよさそうである。

 では、『スペードの女王』は、横溝の「顔のない死体」テーマの諸作品の中でどのような位置を占めるのだろうか。

 『スペードの女王』は、太股に同じトランプのスペードのクイーンの刺青をした二人の女をめぐって展開する。刺青は麻薬密輸のボスの代人である標という設定である。麻薬密輸というと、当時隆盛だった社会派推理小説の題材のようだが、本作の場合は、刺青をした女性を登場させるために採られた設定に過ぎず、描写は実にたわいない。しかし、そういった要素は横溝作品に期待すべきものではないだろう(麻薬の売人に知り合いもいなかっただろうし(?))。刺青に関する説明は、高木彬光の『刺青殺人事件』を思わせる。冒頭に出てくる老彫り物師は横溝作品らしい登場人物で、うまく描かれている。

 事件は、湘南の海岸で首を切られた死体が発見され、太股の刺青からAと判定される。しかし、もう一人同じ刺青をされた女Bがいることが、老彫り物師(殺害されたらしい)の亡妻から相談を受けた金田一によって伝えられ、死体はいずれの女か、という謎になるわけである。Aはもともとスペードのクイーンの刺青をしており、麻薬密輸のボスの情婦で、ボスが死んだ後、新しい愛人をつくったが、その男も東京の住まいで殺害されているのが発見される。Aが愛人から逃れるために、これを殺し、Bを自身の身代わりにたてて、行方をくらまそうとした可能性が浮上する。ところがBのほうも、妹を目撃者として自分が死んだと見せかけようとした形跡があり、もともとAの共犯者だったらしい謎の人物Cが、Bとも関係していた証拠も見つかる。さらにBの妹も殺害されたことが判明し、事件はいよいよ混沌としていく。

 本作の顔のない死体の解錠法は、上述のように「神楽太夫」および『夜歩く』と同じである。すなわち、AとBはともにCによって殺害されており、顔のない死体はやはりAで、密かに東京に戻ったAが殺害されたあと、車のトランクに詰められて湘南の海に運ばれる。これもまた著者お気に入りの「死体移動のトリック」が用いられている。殺害されたBの死体が発見されるとともに、犯人Cの正体が暴露されて、小説は終わる。

 本作は「顔のない死体」のヴァリエーションであるが、作者自身に先例がある。その意味で新味はないが、単に旧作のトリックを焼き直して使用したのではなく、「顔のない死体」テーマを使って、ミステリとして新しい興味を引き出している。犯人を限定していく推理である。

 「顔のない死体」を扱ったミステリの大半は、敵対する二人の人物をめぐってストーリーを組み立てている。つまり、当初から二人の人物は近い関係にあり、同じ世界に属している場合が多い。しかし本作の場合、AとBは学生時代の知り合いであるが、まったく異なる生活環境で生きてきており、対立していたわけでもない。ここが本作のみそで、犯人は、まったく交際範囲も住む世界も異なるAとBのいずれのサークルに属しているのか、が金田一の推理の要となっている。このあたりの推論の積み重ねはなかなか見事で[ix]、謎の設定は、エラリイ・クイーンの『中途の家』(1936年)を連想させる。

 しかしこの結論は、やや説明不足で、CがどうやってAに接近したのかが明らかにされていない。Cは出版社の社主で、Bの妹は同社の記者。Cの出版している雑誌は、麻薬密輸なども扱う時事雑誌という設定で、Cが取材のためにAに近づいたことが匂わされているが、そうすると、Cの配下の社員の姉BがAの知り合いだった、というとてつもない偶然が生じることになる。

 『犬神家の一族』でも、都合のよい偶然を繰り返し使って批判されたことがあるが、また横溝に限ったことではないが、このあたりの説明不足は気になる。

 とはいえ、『スペードの女王』は、「顔のない死体」テーマを用いながら、犯人の意外性よりも、設定を活かした推理の面白さに引き寄せることで、このテーマの新しい魅力を引き出した。昭和30年代の書下ろし長編化作品[x]のなかでもとくに注目すべき佳作であるとする理由はそこにある。

 

[i] 横溝正史金田一耕助の新冒険』(出版芸術社、1996年、光文社文庫、2002年)所収。

[ii] 同(光文社文庫版)、437頁。

[iii] 「私の探偵小説論」『横溝正史探偵小説選Ⅰ』(論創社、2008年)、495-508頁、『真珠郎』扶桑社文庫、2000年)、451-68頁。

[iv] 同(論創社版)、505頁。

[v] 後者の著名な例としては、クレイトン・ロースン『首のない女』(1940年)。

[vi] 江戸川乱歩『D坂の殺人事件』(創元推理文庫、1987年)所収。「私の探偵小説論」、508頁。

[vii] このアイディアは、「顔のない死体」テーマではないが、以下の作品で用いられている。A・A・ミルン『赤い館の秘密』(1921年)。同作品と横溝との深い関わりは説明不要だろう。とくに探偵アントニーギリンガム金田一耕助の関係については。

[viii] 高木彬光『魔弾の射手』(1950年)。

[ix]スペードの女王』(角川文庫、1976年)、236-47頁。

[x] 原型となる「ハートのクイン」では、このような推論はなされない。長編化により新たに加えられた部分だったようだ。