横溝正史『支那扇の女』

(本作品の短編版、長編版双方の犯人を明かしています。短編「ペルシャ猫を抱く女」、「肖像画」についても同様ですので、ご注意ください。)

 

 『支那扇の女』[i]は、横溝正史の長編のなかでも、もっとも改稿を繰り返した作品のひとつとして知られている。原型は、戦後早々に発表された「ペルシャ猫を抱く女」(1946年)[ii]で、同作は、登場人物名が幾つか変更されたほかは、ほぼ原形のまま「肖像画[iii]と改題されて、1952年に『りべらる』という雑誌に掲載されている[iv]

 金田一耕助ものに改稿されたのが、1957年の「支那扇の女」[v]で、同短編を約四倍半に書き伸ばして長編化した[vi]のが『支那扇の女』である。

 いずれの作品も基本構想は共通していて、明治時代の肖像画の真偽をめぐる謎で、日本における爵位制度の導入時期がいつかという歴史豆知識がトリックの核となっている。もうひとつのアイディアが、明治時代に義母と義妹を毒殺した容疑で告発された子爵夫人に、主人公が瓜二つで、やはり殺人の罪に問われるという「生き写し」ないし「生まれ変わり」の謎である。ジョン・ディクスン・カーの『火刑法廷』(1937年)に触発されたとも思える[vii]。もっとも転生が主題というわけではなく、毒殺魔の大伯母にそっくりなことで、自分も夢中遊行中に義理の母と手伝いの娘を殺害したのではないか、と主人公が悩む話である。

 短編版の三作は、すべて実は夫の犯行だったという結末だが、さらに一捻り、というか180度ひっくり返したのが長編版である。1960年に東京文芸社から出版されているが、1958年から翌年まで刊行された「金田一耕助推理全集」(全15巻)の続刊第2巻として公刊されたものらしい[viii]。長編化に際して、犯人や構想まで一新した珍しい例である。

 冒頭、朝もやに包まれた成城の街で路地から飛び出してきた女性が、追いかける警官らを振り切って橋から飛び降りようとする。何とかそれを阻止した一行が彼女の家に向かうと、奥の離れの一角で二つの惨殺死体を発見する。女性の義母と手伝いの娘で、夫である小説家は家を空けていた。

 自殺未遂の女、朝井美奈子は、夫の照三から、自分に生き写しの女性の肖像画を見せられた、そのショックで夢遊病の発作を起こし、義母とお手伝いの二人を殺害したと思い込んだらしい。肖像画の女性は、大伯母にあたる八木克子で、子爵の八木冬彦の妻だったが、愛人の佐竹恭助と共謀して、義理の母と娘を毒殺した疑いで捕えられ、獄中で死亡している。照三は、八木家の傍系の子孫でもあり、不思議な因縁で美奈子と結婚した(不思議すぎます)。肖像画は、画家であった佐竹が描いたもので、その顔かたちが自分にそっくりだったことから、大伯母と同様の運命をたどるのではないかと思い詰めていたのである。

 しかし、実は克子が殺人犯というのは誤りで、彼女を描いた肖像画も、照三が知り合いの画家に書かせた偽物であることが判明する。その決め手となるのが、上記の爵位制度との矛盾で、すべて美奈子の遺産を狙った夫の犯行、というのが短編版「支那扇の女」および原型の二短編の真相である。長編版『支那扇の女』は、それをもう一度逆転して、夫の企み(長編版では単なる悪戯)を利用した美奈子の犯行だったという結末になっている。

 最初に疑いをかけられた人物の疑いが一旦晴れるが、最後はその人物が犯人だったというミステリは珍しくないが、自分が殺人者の生まれ変わりだと思い込まされた人物が、思い込ませた相手に復讐するために殺人を犯すというのは、結構珍しいかもしれない(てか、そんな復讐のしかた普通はしないだろう)。このような場合、夫がなぜ妻にそんな仕打ちをしたのかが問題になるが、本書では、それを照三のサディズムに求めている。作中でも、彼の奇人ぶりを強調しようとしているが、読んだ限りでは、その奇矯さはあまり伝わってこず、確かに特異性癖と結びつけるのは、上手く書けば面白くなったのだろうが、生憎取って付けたような説明で、あまり説得的ではない。残念ながら、横溝向きの題材ではなかったようだ。

 照三が、殺人容疑をかけられているにもかかわらず、偽の証拠(チーズの歯形)について何の弁明もしないのも解せない。歯型のついたチーズを現場に持ち込めるのは家族しかいないのだから、いやでも真相に気づくはずで、金田一自身、ちゃんとそのことに言及はしているのだが、「おそらくいいたくなかったのでしょう」[ix]って、いや、殺人の疑いをかけられてるんですから。「いいたくなかった」で片づけないでほしいものだ。自分の性癖を告白することに深刻な葛藤があり、到底信じてもらえないだろうというあきらめから黙秘したのだろうが、作者も、そんな複雑な心理を描写するのは面倒くさくなったらしい。って、なんで私が、作者に代わって、そんな説明をしなけりゃならんのだ!

 細かい点で、興味深いのは、傍系の事件として、深夜の盗難事件が成城の町で頻発しているということになっている。最終的に、この連続窃盗犯が殺人犯と接触することで、事件解決に向かうというストーリーなのだが、原型版には、この窃盗犯は出てこない。いや、確かに長編版で窃盗犯だった人物は短編にも登場しているのだが、泥棒だったとは書いていないのである。というか、短編では、冒頭で、警官の内心の連想として窃盗事件が語られるのだが、それきり、その事件が蒸し返されることはない。一方、長編版では、冒頭部分を含めて、短編版と重複する前半の数か所で、この泥棒について言及されている[x]。クライマックスのための伏線として加筆されたのが明らかなのだが、逆に言えば、短編版の冒頭で、(短編の)プロットと関係のない、この窃盗事件について、わざわざ語られているのが不思議なのである[xi]

 短編でも長編でも、美奈子の聞き取りの際に、(彼女が家を飛び出したときに)勝手口が施錠されていなかった可能性が示唆されるが、これは、つまり、照三がそこから出入りした可能性を暗示しているのだろうか。しかし、鍵をもっているはずだから、勝手口を使わずとも玄関から入れるだろう。とすると、泥棒による犯行の可能性をほのめかしているのかもしれない。そのために冒頭で連続窃盗事件に言及しているということだろうか。だが、泥棒による犯行という可能性を示唆するのに、窃盗事件が「多発していた」という設定は必要ないはずである。連続窃盗事件が起きていなくとも、物取りによる犯行の可能性は、いかなる事件でも常に存在する。そう考えると、短編冒頭で連続窃盗事件に言及しているのは、窃盗犯が殺人に絡んでくる長編版のクライマックスを想定した伏線のように見える。

 つまり、何が言いたいかというと、他の長編化作品についても推測したように、『支那扇の女』の場合も、最初から長編としてプロットを組み立てており、短編版は、その一部を切りとって雑誌に掲載した可能性があるのではないかということである。

 もっとも、本作の場合、短編と長編で犯人がまったく異なる。別の作品といってもよい。となると、「ペルシャ猫を抱く女」または「肖像画」を改稿しようと考えたとき、結末の異なる短編と長編、両方のアイディアを最初から抱いていて、二通りのプロットをすでに完成させていたのだろうか。

 残念ながら、短編版の発表は1957年12月、長編版は1960年7月で、少々間が空きすぎている。長編版のプロットは、東京文芸社から長編執筆の依頼があってから想を練り始めたとみるのが順当だろう(あるいは、短編版も長編と同じ結末にするつもりだったが、実際に書き始めてみて、枚数不足で断念したのだろうか)。とはいえ、いろいろと妄想がはかどる楽しい作品である(内容と、あまり関係ないが)。

 短編と長編で犯人が異なる本書のプロットの特徴と関連して、もうひとつ、ぜひ述べておきたいことがある。今回、短編長編両方を続けて読んで、ひどく異様な読後感を覚えた。長編の最初70頁ほどは、短編版と内容は同じで、文章も概ね重複している。朝井美奈子の自殺未遂や等々力警部と金田一による聞き取りの場面も、加筆修正はあるが、ほぼ同一である。跨線橋の上から身を投げようとする場面や、取り押さえられて狂乱する場面、警部や金田一の問いかけに涙を浮かべる場面など、短編も長編も同じなのだが、短編では、彼女の嘆きや涙は本物で、美奈子は清廉潔白な悲劇のヒロインである。しかし、反対に、長編の彼女は、夫への憎悪に凝り固まった殺人者で、悲嘆にくれる姿も流す涙も、すべてお芝居に過ぎない。あまりの落差、別人格ぶりに、続けて読むと、なんだか頭がくらくらする。まるで世界線が分岐して別ルートに入ったかのような印象なのである。そうか。『支那扇の女』という作品はSFミステリでもあったのか。今後、本書のヒロイン朝井美奈子は「シュタインズ・ゲートの女」として知られることになるだろう。

 

[i]支那扇の女』(角川文庫、1975年)。

[ii]ペルシャ猫を抱く女』(角川文庫、1977年)所収。該当ページは、本を取り出すのが面倒なので、省略。

[iii] 『聖女の首』(横溝正史探偵小説コレクション-③、出版芸術社、2004年)、213-28頁、「解説」(浜田知明)、252頁参照。

[iv] 島崎 博編「横溝正史書誌」『本陣殺人事件・獄門島』(『別冊幻影城』創刊号、1975年9月)、319頁。

[v]金田一耕助の帰還』(出版芸術社、1996年)、111-36頁。

[vi] 同、「作品解説」(浜田知明)、252頁参照。

[vii]別冊宝島1375 僕たちの好きな金田一耕助』(宝島者、2007年)、94頁。

[viii]横溝正史書誌」、338頁。「人面瘡」を併録。「続刊金田一耕助推理全集」の第1巻は、『スペードの女王』。

[ix]支那扇の女』、182頁。

[x] 同、41-42、54頁。

[xi]支那扇の女」、115頁。