ニコラス・ブレイク『野獣死すべし』

(本書のトリックおよび犯人のほか、アガサ・クリスティ、J・D・カーの長編小説のトリック・犯人に触れています。)

 

 『野獣死すべし』(1938年)[i]は史上最高のパズル・ミステリだと、そう思っていた。

 江戸川乱歩が、戦後まもない頃、「イギリス新本格派」のひとりとして取り上げて[ii]以来、ブレイクの長編ミステリは順調に翻訳され、一時、『秘められた傷』(1968年)[iii]以降、刊行が途絶えていたものの、クラシカル・ミステリの出版ブームに乗って、ついに『死の翌朝』(1966年)[iv]をもって、全長編が日本語で読めるようになった。おかげで、『殺しにいたるメモ』(1947年)[v]のように、知られざる佳作[vi]が新たに掘り起こされたりもしたが、依然として、ブレイクといえば『野獣死すべし』という構図は変わっていないようだ。

 上記の紹介エッセイで、乱歩は同作について、こう語っている。

 

  「『野獣死すべし』は子供を自動車で轢殺して逃げた男を推理によって探し出し、 

 これに復讐するまでの綿密な計画の日記の文章で三分の一を費やし、その日記の計画

 が手違いになっていくところに中心興味がある。」[vii]

 

 犯人を暴露してしまっているとも取れる解説だが、そう思わせて、なおかつ意外性があるというのが本作の大きな特徴で、さらに続けて、「このトリックには前例のない創意があり、(中略)一つの機知に富んだ着想が描かれている」[viii]と激賞している。

 乱歩の評価は短い文章で適格に長所を捉えており、これ以上の補足は必要ないほどだが、他のブレイク長編と同様、『野獣死すべし』もまた、それまでに書かれたミステリの古典から諸要素を吸収して、いわば伝統の上に成り立っているといえる。そうした特徴に関しては、まだ論ずべき余地があるようだ。

 筆者が本書を読んだのは、ハヤカワ・ミステリ文庫[ix]に収録されてからであるが、一読して、乱歩の評価通りの、あるいはそれ以上の感銘を受けた。パズル・ミステリの理想的な姿が本書にあるのではないかとさえ思った。今回、数十年ぶりに再読してみて-あまりにも読後の印象が強烈だったので、読み返す気にならなかった-、初読の印象はおおきくは変わらなかったのだが・・・。いや、そこに触れる前に、なにがそこまで優れていると思えたのか、改めて考えてみよう。

 推理作家フィリクス・レインことフランク・ケアンズは、一人息子をひき逃げによって失い、絶望的な日々を送っていた。彼の生きる唯一の目的は、息子を殺した運転手を探し出して復讐することである。推理作家らしい洞察力で犯人を見つけ出したレインは、まず、車に同乗していた女優リーナ・ロースンに接近する。彼女と恋人関係になったレインは、目指す相手である自動車工場主ジョージ・ラタリーの一家に入り込み、妻のヴァイオレット、幼い息子のフィル、母親のエセルらと知り合う。彼ら一家の間に漂う異常な雰囲気に驚きつつも、レインは、ジョージに対する復讐計画を練っていく。ついにその日、レインはジョージをヨットの川遊びに誘い、泳げない彼を海に振り落として事故死を装おうとする。

 ここまでが第一部で、乱歩の紹介のとおり、レインの日記、すなわち一人称の手記として書かれている。続く第二部からは、三人称の客観描写に変わり、復讐を果たそうとするレインに対し、ジョージが反撃に出て、お前の計画はすでに知っている、自分を殺そうとすれば、日記を警察に送る手はずをつけている、と脅す。レインも応戦して、日記が公になれば、ひき逃げの罪も暴かれるぞ、と切り返し、結局、両者は互いの秘密を暴露しないことを約束して別れる。

 ところが、翌朝、家に戻ったジョージがストリキニーネを飲まされて死亡したことを知ったレインは、このままでは自分が殺人犯として逮捕されると考え、友人を通じて、素人探偵のナイジェル・ストレンジウェイズに事件の捜査を依頼する。

 以上が前半で、後半はナイジェルの視点で『死の殻』(1936年)[x]にも登場したスコットランドヤードのブラント警部とともに、ラタリー殺害の真相に迫っていく、という筋書きである。

 乱歩が指摘した本書の創意とは、ひとことでいえば、倒叙ミステリでありながら犯人当て小説でもある、という点に集約できる。文庫版で最初の100頁余りは、レインによるひき逃げ犯人の探索と復讐計画が綴られており、予備知識なしに読み始めた読者は、一人称で書かれた犯罪小説だと思うだろう。ところが、レインの計画が失敗して、しかし、その後ラタリーが自宅で毒殺された事実が判明する第三部から、本書は通常のパズル・ミステリへと転換する。

この一人称から三人称への語りの変化に本書の工夫があるのだが、真犯人は結局レインなのである。すなわち、倒叙ミステリから犯人当てミステリに転化したと見せて、最後倒叙ミステリに戻る(一人称の手記ではないが)、という捻ったプロットなのだ。このアイディアのヒントは、恐らくアンソニー・バークリーの『殺意』(1931年)ではないか。『殺意』は、もちろん全編一人称の倒叙ミステリだが、これをパズル・ミステリに出来ないかというのが、本書の発想だったように思える。

 同時に、本書は一人称の手記の作者が犯人だった、という「記述トリック」のミステリでもある。ヨット遊びを装った殺人はおとりで、毒殺のほうが本当の目的だったというトリックなのだが、無論レインは日記にそのことを書いていない。つまりA・クリスティの代表作[xi]のように、犯人であることを隠した一人称の手記のなかで、わざと事実を省略したり、自分の真意を伏せて記述をするなどの細工を施すミステリでもある。もし『野獣死すべし』が全編一人称で書かれていたら、クリスティ作との相似がもっとはっきりしていただろう。

 さらに、レインはわざと殺害計画に失敗したように見せかけることで、自分が犯人ではないように思わせるのだが、つまり、本書は、最初に疑いをかけられる人物が最終的に真犯人であった、という逆説的な「意外な犯人」のミステリでもある。このアイディアの長編も枚挙にいとまないが、恐らくブレイクが直接影響を受けたのは、ジョン・ディクスン・カーの長編(注で書名を挙げます)[xii]のように思われる。カー長編は、あまりにトリッキーすぎて無理があるが、これをもっと心理的に扱ったのが本作だったともいえる。以上の諸作品との関連についての推測が正しいとすれば、第一部の終わりで、カーとバークリーの名が挙げられている[xiii]のは意味深長である(クリスティの名が挙げられていないのは、代表作との相似から真相を言い当てられる危険が高いと判断したからだろうか)。ミステリ作家らしいお遊びとも取れるが、先輩作家の名前を持ち出して手の内を明かしているようにも見える。

 ただし、この、意図して自分に疑いがかかるように見せるトリック、あるいは殺害計画に失敗したとみせかけて疑いを逸らそうとするトリックが、本書が優れている理由というわけではない。このようなトリックは、紙の上では通用しても、現実にこんなことを企てるバカな殺人犯はいないだろう。わざと殺人に失敗したかに見せかけて、結局は警察の疑いを招くなどという危険極まる計画を実行する素っ頓狂な犯罪者がいるわけがない。意外であっても、騙せるのはミステリの読者だけで、現実にはありえない、トリックのためのトリックでしかない。しかし、実は、ここにこそ、乱歩の言葉を借りれば、「前例のない創意」が隠されている。なぜなら、レインがこのような非現実的なトリックを実行したのは、疑いを免れることが第一目的ではないからである。最後のレインとの対話の場面で、ナイジェルはこう言う。

 

  「・・・罪を証明できない人間を殺すことはできない考えたときから、日記はきみ

 の新しい計画の主要な道具になった・・・」[xiv]

 

 つまり、この偽りの殺害計画は、ジョージから罪の告白を引き出すためのものであり、日記は最初から彼に読ませるために書かれたものだったのだ。ラタリーが息子を死に至らしめた事実を確認できない以上、レインには彼を殺害することはできなかった。従って、それが明らかとなった瞬間から真の殺人計画が発動したというわけである。

 なぜ殺人の偽装などという不自然なトリックを計画したのか、という疑問に対する、この解答は素晴らしい。この犯人の性格だからこそ、この解釈が成立するよう、巧みに人物造形がされている。本書の最大の美点は、こうした一見すると不自然なトリックに必然性があることである。ミステリの謎を、人間心理の分析によって解き明かしているといってもよい。別の言い方をすれば、作者が読者を欺くための意外ではあっても無理のあるトリックが、犯人にとっては、どうしても必要な計画の一部だったと読者に納得させる点にある。ヴァン・ダインが目指して到達できなかった心理的探偵法[xv]を実現しているといえるかもしれない。

 だが、まったく不自然さがない、ともいえない。告白を引き出すために偽りの殺害計画を立案するというのは、本当にレインが殺人の罪を免れようと思っていたのだとすれば、やはり、あまりにも無謀すぎる。人間心理を読み解くナイジェルの推理は見事だが、犯罪計画の不合理さを完璧に払拭する説明にはなっていない。

 レインが、復讐だけが目的で、自分の生命を顧みるつもりはなかったというのなら、ナイジェルの説明で完全に納得できるだろう。しかし、そう思えないのは、ナイジェルに捜査を依頼した理由が理解できないからである。

 復讐を果たしてもなお罪を逃れようとする意志と大胆過ぎる殺害計画との整合性がとれていない。探偵に捜査を依頼するのはよいが、どうやって無罪を証明してもらうつもりだったのだろう。レインは自分が無実であるかに見せるための工作をほとんどしていない。従って、実際に作中で描かれているように、警察に疑いをかけられるのは確実である。誰かに罪を着せるために偽の手がかりを用意しておいて、探偵にそれを発見させるというなら、まだわかるが、(ナイジェルのような)腕利きの探偵であれば、レインが犯人であることを見抜いてしまうかもしれない。そのような危険があるにもかかわらず、探偵に依頼する意図がわからない。そもそも、処罰を免れようとするなら、あのようなトリックを立案するはずがないだろう。告白を引き出したいなら、もっと別の方法を考えるべきで、自身の殺意や殺人計画を記した手記を残すのは頭がおかしい。

 もっとも、ラタリーが殺害されて警察の捜査が入れば、レインの正体も早晩明らかになることは避けられない。従って、むしろ殺意を自ら暴露することで、逆に疑いを逸らそうとする捨て身のトリックだったということなのかもしれない。しかし、そうだとしても、自分は殺害に失敗した間抜けな犯罪者であるが殺人犯ではない、と思わせたいのなら、警察がそう判断するのを期待して見守るほかないのではないか。名探偵に事件の解決を依頼するなど、危険を増幅させるだけである。

 それとも、最初は処罰を受けることも覚悟していたが、殺人を実行してみると、やっぱり自分の命が惜しくなった。それで焦って探偵を探したのだろうか。可愛がっていた少年が犯人と疑われても、なお自ら告白しようとはしなかったところをみると、そう考えてもよいかもしれない。しかし、それでは、レインの人物像は、作者が描こうとしていたものとは大きく異なってしまうのではないか(「野獣」とは、フィリクス・レインのことなのだろうか)。人物描写に優れているはずのブレイクにしては、レインのキャラクターがブレているように見えるのだ。

 このあたりの矛盾は充分には説明しきれていないようだ。一体なぜ、レインは、このような危険な計画を実行したのか。一体なぜ、ナイジェルを事件に介入させるようなことをしたのか。パズル・ミステリである以上、事件は探偵(役)によって解決されなければならないから、作者としても苦しいところではある。ブレイクにとって、本書でもっとも難かしかったのは、いかにして名探偵を登場させるかにあった、ということだったのかもしれない。

 『野獣死すべし』こそ、史上最高のパズル・ミステリと思ってきたのだが、さて、――。

 

(追記)

 『野獣死すべし』に論理的な矛盾があることを、都筑道夫の兄である鶯春亭梅橋が指摘して江戸川乱歩らを感心させた逸話は、都筑のエッセイによってよく知られている[xvi]が、具体的にどのような矛盾であるのかは、明かしてくれていない。「都筑道夫コレクション」の編者である新保博久は、解説で「犯人の計画のなかに、予測できなかったはずの名探偵の登場が織り込み済みであるのはおかしいといったところだろうか」[xvii]、と推測している。この指摘が当たっているか、そもそも、新保氏の解釈の内容も、上記の短い文章だけでは、いまひとつはっきりしないが、どうやら筆者の発想も新保氏と似かよっていたらしい。もっとも、本文で述べた「矛盾」は、論理的というより心理的なものだと思うのだが。

 

[i]野獣死すべし』(黒沼 健訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1954年)。筆者未見。

[ii] 江戸川乱歩「イギリス新本格派の諸作」『幻影城』(講談社、1987年)、121-39頁。

[iii] 『秘められた傷』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1971年)。

[iv] 『死の翌朝』(熊本信太郎訳、論創社、2014年)。

[v] 『殺しにいたるメモ』(森 英俊訳、原書房、1998年)。

[vi] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、604-605頁。

[vii]幻影城』、126-27頁。

[viii] 同、127頁。

[ix]野獣死すべし』(永井 淳訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[x] 『死の殻』(大山誠一郎訳、創元推理文庫、2001年)。

[xi] 題名を挙げる必要はないので、挙げません。

[xii] 『死時計』(1935年)(吉田誠一訳、創元推理文庫、1982年)。

[xiii]野獣死すべし』、113頁。もうひとり、グラディス・ミッチェルの名も挙げられているが、彼女に本作のヒントになったような作品があるのかどうかは、寡聞にして知らない。

[xiv] 同、280頁。

[xv] 江戸川乱歩「探偵小説論争(江戸川乱歩井上良夫)」(1943年)『書簡 対談 座談』(講談社文庫、1989年)、131-32頁。

[xvi] 都筑道夫『推理作家のできるまで 上巻』(フリースタイル、2000年)、471頁。

[xvii] 都筑道夫都筑道夫コレクション 悪意銀行(ユーモア篇)』(光文社、2003年)、新保博久「〈ユーモア篇〉解題」、549頁。