エラリイ・クイーン『緋文字』

(本書の犯人・アイディア等のほかに、『Xの悲劇』、『シャム双子の謎』のダイイング・メッセージに言及しています。)

 

 1950年代になって、エラリイ・クイーンのミステリは、また新たな段階へと入ったようだ。40年代はライツヴィル・シリーズをメインに据えていたが、1950年の『ダブル・ダブル』で区切りをつけると、それ以降、新しいシリーズ、というより、一作毎に世界観まで変える何でもあり状態になった。パターン好きのフレデリック・ダネイのことだから、30年代、40年代、50年代、と、十年単位で作風を変更する方針を取ったのだろうか。

 『悪の起源』(1951年)は、ハリウッドものなので、1930年代後半のシリーズのリヴァイヴァルのようでもあるが、プロットは極度に人工的になり、『十日間の不思議』(1948年)さえ上回る、つくりものの限界に挑戦したかのような作品だった。翌年の『帝王死す』になると、まるで近未来SFミステリだが、絵にかいたような不可能犯罪のシチュエイションなど、こちらもまさに人工的パズル・ミステリ(パズル・ミステリはそもそも人工的だが)で、その点は共通している。

 ところが、1953年の『緋文字』[i]では、夫婦間の愛憎のもつれをテーマにした都会小説という印象で、前二作から作風を一変させて、地味な、普通小説っぽいスタイルに変わった。江戸川乱歩が感嘆した[ii]のとは違った意味で、千変万化の変身ぶりには驚かざるを得ない。

 もっともプロットの人工性、パターン好きは変わっていない。妻とその愛人がアルファベットのA、B、Cで始まる名前の場所で逢引きを重ねるという(表面上の)筋書きは、恋人同士の秘密の約束というより、何者かに操られる人形劇のようだ。実際、他人を操る恒例のエラリイ・クイーン的超越者的犯人が本書にも登場するのだが、Aから始まった逢瀬の場所を律儀にWまで続けるのは、クイーンらしいというより、いくら人工的プロットとはいえ、小説としておかしい。

 無論、タイトルの『緋文字』にかけた趣向で、不倫をテーマにした小説にホーソーンの古典の書名を借りるというのもクイーン好みのお遊びである。夫婦関係の危機と破局を描く主題は、ライツヴィル・シリーズに通じるものがあるが、舞台がニュー・ヨークなので、上記のとおりの都会小説の雰囲気で、全編にわたって鬱々とした感情が充満している。神経症気味の夫が妻の浮気を疑って精神を苛まれていく一方で、妻もまた夫を避けて、気持ちを曇らせていく。次第に夫が暴力を振るうようになり、昨今のDV、あるいはモラハラの先駆のような描写が続き、そこに妻の友人のニッキー・ポーターとエラリイが巻き込まれて、殴られたり、泣き出したり、エラリイまで情緒不安定気味になる。この緊迫感と焦燥感は、コーネル・ウールリッチ心理的スリラーを思わせる。もちろん、ミステリなので、ラストには意外な結末が待っているのだが、このどんでん返しも、何だかウールリッチっぽい。パズル・ミステリというより、サスペンス・ノヴェルのようなオチである。とはいえ、最後にすべての謎が解けてみると、そこに至るまでの夫の行動は、すべて計算づくだったことが明らかとなって、まさに人工的かつ無茶なプロットで、前二作と共通するクイーン流であると実感される。

 しかし、文庫本で300ページほどの、さして長くない小説の大半が、妻と愛人の密会とそれを尾行するエラリイの私立探偵もどきの追跡劇で占められているので、単調で退屈なのは置くとして、読み進めているうちに、段々、オチの見当がついてきてしまうのである。エラリイが目的も曖昧なまま、ただ漠然と尾行を続けているのは、何かやばいことが起きるのを待っているとしか思えない。案の定、カタストロフィが訪れて、夫が、妻と愛人の浮気現場に乗り込むと、二人を銃で撃つ。愛人は死亡し、妻は人事不省の危篤状態になるが、この展開に、ああ、初めから殺人が目的だったんだな、と直感的に気づく読者は多いだろう。どうも、このどんでん返しは、長編で長々と引っ張るには、ちと難しかったのではないか。ウールリッチなら、短編か、せいぜい中編小説でもっとうまくまとめていただろう。

 無論、エラリイ・クイーンのミステリは、このラストの意外な結末を、直感ではなく論理的な推理で解き明かすところに特質があるので、本書は、ウールリッチ風のスリルとサスペンスの小説をパズル・ミステリの手法で描いた意欲作と見ることもできる。

 しかし、その点が、実は問題であって、本書のパズル・ミステリ的要素の第一は、ダイイング・メッセージ(以下「ダ=メ」と略記)にある。「ダ=メ」といえば、エラリイ・クイーンの十八番で、短編でも多くの作例があるが、長編では、『Xの悲劇』(1932年)と『シャム双子の謎』(1933年)が代表だろう。だが、『X』における「ダ=メ」は、犯人が特定されたあと、その犯人を指し示す解釈が発見される段取りで、すなわち、犯人特定の推理を補強する、おまけに過ぎない。また、『シャム双子』では、犯人(および第三者)が残した偽の手がかりであって、犯人の特定には直接繋がらない。ところが、本書の場合、「ダ=メ」が犯人特定の推理の基盤になっているのである。

 夫に撃たれた愛人が、最後に自らの血でもって書き残したのがXYという文字で、これが本書の「死に際の知らせ」である。ABCで始まるミステリに相応しい、そしていかにものクイーン好みの謎かけであるといえる。

 XYの意味を探して、考えあぐねたエラリイは、被害者はXYZと書くつもりだったのではないか、と推論する。すなわち、この「ダ=メ」は完全ではなかった、というアイディアである。アルファベットのAから始まる本書にピッタリの解答だが、残念ながら、意味のある解釈を見つけられない。しかし、その後、ついにエラリイは、殺された愛人が書こうとしたのはXXであって、最後の斜めの線を書き終わる前にこと切れたのだ、という解釈にたどり着く。そこから、ダブル・クロス(XX)、すなわち「裏切り」という意味を読みとり、夫による計画的な二重殺人の企みを明らかにする。面白い、そして意外性のある推理であることは確かだ。

 しかし、XYという「死に際の知らせ」は、XXと書こうとして書き終われなかったことを示している、という解釈は、巧みな仮説ではあるが、あくまで仮説に過ぎない。XYおよびXYZには意味がない、という結論は、エラリイの知識の範囲内においては、という条件つきであって、意味がないということが論理的に証明されたわけではない。要するに、エラリイの知識にはないと言っているに過ぎない、あるいは、彼が気づいていない解釈が存在する可能性を否定しきれていない。そして、そうした仮説に基づく推理も仮説の域を超えることはできない。短編小説なら、意外な解釈ということで不満を感じさせなかっただろうが、長編小説となると話は別である。論理的推理というには穴が大きすぎて、こんな推理に基づいて有罪を宣告されたのでは、たまったものではない。

 もちろん、エラリイが裁判長らに提示したのは、「XY」の解釈だけではなく、妻が愛人に書いたとされる一連の手紙の科学的分析結果が含まれる。これこそまさに重要証拠であって、この物的証拠があればこそ、エラリイの推理が裏付けられたのだが、それなら、そもそも、「妻の不倫に逆上した夫の突発的凶行」という表面的な事実に疑惑をもった段階で、最初から、手紙の分析に注力するべきだった。ダイイング・メッセージにかまけている場合ではない。腕利きの私立探偵なら、そうしていただろう。なまじ、エラリイ・クイーンが奇抜な手掛かりに飛びついてしまう天才探偵だったことが災いしたようだ。むしろ事件の解決を遅らせてしまった可能性さえある。

 『帝王死す』もそうだが、ダネイが、50年代になって、新たなスタイルに挑戦しようと意気込んでアイディアを練ったのだとすれば、エラリイ・クイーンに代わる探偵役を創造すべきだった。事実、次作の『ガラスの村』(1954年)では、エラリイを引っ込めて、まったく異なる主人公によるミステリを書く決断をしている。エラリイ・クイーンが有名になりすぎて、探偵の交代が難しくなったのだとすれば、作者クイーンにとって、実に皮肉な状況に陥ってしまったことになる。

 

(追記)

 本文で「ダイイング・メッセージ」を「ダ=メ」と略記したのは、本書が「ダメ」という意味ではありません。

(さらに追記)

 私見では、ダイイング・メッセージの最高傑作は、ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』である[iii]。これ以上はネタバレになるので、というか、すでに書きすぎているので、同書を未読の方は忘れてください。

 

[i] 『緋文字』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[ii] 江戸川乱歩推理小説随想」(1946年)『随筆探偵小説』所収、『鬼の言葉』(光文社文庫、2005年)、328頁。

[iii] 『三つの棺』(加賀山卓朗訳、早川書房、2014年)。