J・D・カー『血に飢えた悪鬼』

(本書の主題やトリック等を明かしています。)

 

 ジョン・ディクスン・カー最後の長編小説『血に飢えた悪鬼』は1972年に刊行された。ちょうど50年前のことだ。翻訳出版は1980年[i]。すでにカーは亡くなっていた。一年先輩のエラリイ・クイーンの最終作が1971年の『心地よく秘密めいた場所』[ii]なので、両者とも43年間の作家生活だったことになる。年齢も一歳違いなので、どちらの作も66歳になる年の長編。どこまでも気が合う二人、いや三人だったようだ。

 もっとも、クイーンが時代の変化に敏感で、作風を次第に変えていったのとは対照的に、カーは、歴史ミステリのようなスタイルの変化はあっても、むしろ変わらなかったことが特徴とされている。

 本作もその通りで、19世紀のイギリスが舞台の歴史ミステリで、密室殺人がテーマとなれば、まるで処女作の『夜歩く』とブック・エンドの両端で残りの長編を挟んでいるような図が浮かぶ。

 その密室の謎は、ガラス張りの温室のなかで胸を撃ち抜かれた被害者が横たわり、周囲に人の姿はなく拳銃だけが捨てられている。周囲のガラスに銃弾のあとはない、という教科書通りの状況設定なのだが、銃弾が発射された直後に、外にいた目撃者がガラスを破って被害者の傍らに駆けよる、という段取りなので、トリックは簡単に見当がつく。被害者は死んだわけではないので、撃たれた瞬間に目撃した事実を何度も自ら証言しようとするが、周りの連中がよってたかって話をさせない、というヘンな展開で解決を先延ばしする。密室の謎解き自体、20世紀初頭の短編ミステリの時代に見られたような素朴なトリックで物足りないが、被害者を無理やり黙らせるという話のもっていき方は、カー一流のテクニックというより、単に小説が下手になっただけのようにも見える。

 犯人はといえば、こちらも相も変わらず、一方的な思い込みで人妻に横恋慕して、夫を殺害しようとしたのだと明かされる。これまでの犯人と少し異なるのは、無口で控えめな青年であることだが、一途というより、動機の身勝手さは、現代ならさしずめサイコパスだろう。どうやら犯人もトリックも、従来のカー作品の枷から逃れられず、右往左往しているようだ。

 そもそもどういう話かといえば、アメリカ帰りの作家で主人公のキット・ファレルが、友人の探検家ナイジェル・シーグレイヴと妻のミュリエルに自宅に招待されるところから始まる。キットは、遺産相続のために帰国したのだが、アメリカ滞在中にパトリシア・デンビーというイギリス生まれの美女と恋に落ちて、しかし、なぜか彼女が突然姿を消してしまい、わが身の不運を嘆いている。ところが、ロンドンのホテルにチェック・インすると、そこで偶然パトリシアを見かける。・・・うん、そうなるって知ってた。

 カー自身は、本書を最終作にするつもりはなかったようだが、いずれにしても、カーは最後までカーだった。いまさら、新しい舞台やシチュエイションを考える熱意も根気もなかったのだろうが、それにしても、毎度おなじみの設定にキャラクター、そしてプロットと、これまでの70冊もの長編ミステリの似たような展開が眼前を駆け抜けていき、クラクラめまいがしてくる。

 しかし、本書のテーマは、実は犯人やトリックとは無関係の(本当に関係ない)、カー作品に前例のない斬新なものだった。19世紀が舞台のミステリで、しかも探偵役がウィルキー・コリンズとくれば、ヴィクトリア時代のメロドラマ的スリラーを意識したのか、妻が別人のように思えるという怪奇小説的な謎なのだ。ナイジェルは閨房におけるミュリエルの仕草から-そこ、もっと詳しく!-、妻が別人ではないか、との疑いを抱く。相談をもちかけられたキットは、そんな馬鹿な、と一笑に付し、一旦はナイジェルを納得させる。しかし、その後もナイジェルの疑いが完全に消え去ることはなく・・・、というゴシック・ロマンス風の展開で、それだけなら、むしろカーらしいといえる。だが、そんな生易しいものではないのだ。なんと、この「妻が別人に見える」という謎の答えが、本当に別人で、顔もそっくり、名前まで同じだったという、とんでもない真相なのである。「斬新」というのはそこのところで、つまり、ドッペルゲンガーが実在する世界観らしいのだ。予想外のことに半信半疑の主人公に向かって、ナイジェルの妻ミュリエルは、こともなげにこう言う。

 

  「・・・それから、話に聞いたところだと、誰でも生きているひとは、男女とも 

 に、そっくり自分と同じダブルが、どこかにいるらしいの。彼女はわたしのダブルで

 すわ」[iii]

 

 あのー、一体これは、どう反応すればよいのでしょうか?パズル・ミステリを読んでいるつもりだったのに、いきなりこんなことを聞かされても・・・。確か、カーは前にも「二つの死」という短編小説で似たようなことを書いていたのを覚えている。「どんな人間にしろ、姿かたちがそっくりそのままという相手を、ひとりは必ず持っているものである」[iv]というのだが、この短編の発表は1939年。そうか!本書のための、三十年の時を越えた壮大な伏線だったのか!・・・いや、そんなことはない(あぶない、あぶない、冷静さを失うところだった)。・・・もっとも上述のとおり、登場人物リストに名前も挙がっていない生き写しのダブル(分身、生霊)が犯人でした、などという結末では、無論ない。ないのだが、顔がそっくりで名前も同じミュリエルが実在して、ナイジェルの妻のミュリエルと入れ替わっていた、という種明かしは、うわっ、すごい、意外な結末でびっくりしたよ、などと無邪気に感心してはいられない。いられるかっ!

 ダグラス・グリーンは、『火刑法廷』を評した際、カーは他には超自然的な結末の長編を書かなかった[v]、と指摘したが、本作は超自然的な解決ではないのだろうか?超自然的な怪談の短編なら、カーには他にいくつもある[vi]が、本作がこんな話だったとは、すっかり忘れていた(それとも、あまりのことに唖然として、わけがわからず、無意識に記憶から抹消していたのだろうか)。

 とすれば、本書はヴィクトリア朝を舞台とした怪談として読めばいいのだろうか?しかし、怪異譚といっても、ナイジェルも、本物の(?)ミュリエルの不倫相手のジム・カーヴァーも、お相手のそれぞれのミュリエルに満足しているらしく、最後はめでたしめでたしのハッピー・エンドに終わる。ついでに、キットと(実は二人のミュリエルに協力していた)パトリシアもいつのまにか懇ろになって八方まるくおさまるので、一向怪奇小説らしくはない。怪談とも、ミステリともつかないこのプロットは、怪奇小説と歴史ミステリを融合した新たな挑戦なのか。いや、それとも、『死の館の謎』でも書いたが、昔思いついたアイディアを思い出して、残り少ない作家人生の締めくくりとして、やりたい放題やってみた結果なのだろうか。

 この「生き写しの謎」と関連して、もうひとつ首をひねるのは、最初にキットがシーグレイヴ家を訪ねる場面で、出迎えたのはダブルの方のミュリエル(本名は、ミュリエル・ジェニファー・ヴェイル)なのだ。それなのに、地の文で、彼女をミュリエル・シーグレイヴと書いている[vii]。カーらしくもない、これはアンフェアではないのだろうか。

 もっとも、続く場面では、彼女はただミュリエルとだけ書かれているので[viii]、つまり、嘘は書いてないよね、彼女もミュリエルなんだから、ということらしい。なるほど、それならアンフェアではないね(ニッコリ)。・・・いや、いや、いや。よく考えると(考えなくても)、名前も同じミュリエルだから、ミュリエルとだけ書いておけばアンフェアではないって、そんな言い訳ある?

 1950年代までは、カーも、こうした叙述トリックでは細心の注意を払っていて、他人に成りすましている犯人を、成りすましている相手の名前では呼ばない、というルールを徹底して守っていた[ix]。顔がそっくりなだけでなく、名前まで同じというトンデモ設定は、このような叙述トリックを、文章に苦心することなく可能にする究極のアイディアだったのだろうか。なるほど!さすがです、カー先生!・・・いや、いや、いや。

 とはいえ、これが最後の長編と思えば、細かいことをあげつらっても仕方がない(というより、さすがにこれはお手上げ?)。ミステリの巨匠の花道を、(いろんな意味で)万感の思いを胸に見送ることにしようではないか。それにしても、最後まで読者を煙に巻いておいてトンずらとは、さすがパズル・ミステリの幻術師の名に恥じない、見事な逃走っぷりである。

 

[i] 『血に飢えた悪鬼』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1980年)。

[ii] 『心地よく秘密めいた場所』(青田 勝訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1974年)。

[iii] 『血に飢えた悪鬼』、272頁。

[iv] ディクスン・カー「二つの死」『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1970年)、247頁。

[v] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、185頁。

[vi] 前述の「二つの死」のほか、『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』収録の「めくら頭巾」など。

[vii] 『血に飢えた悪鬼』、112頁。

[viii] 同、112-18頁。

[ix] 『九つの答』(1952年)等を参照。