ニコラス・ブレイク『死の翌朝』

(本書のほかに、『死のとがめ』、『死のジョーカー』の真相を明かしています。他のブレイク作品の内容にも、おまけにエラリイ・クイーンの中編小説、J・D・カーとE・D・ビガーズの長編小説にも言及しているので、ご注意ください。)

 

 2014年に刊行された本書『死の翌朝』(1966年)[i]をもって、ニコラス・ブレイクの全長編の翻訳が完了した。そんなにいるとは思えないけど、遅ればせながら、おめでとう、ブレイク・ファンの皆さん。私もその一人です。最初が『野獣死すべし』で1954年だったらしいので[ii]、60年かかって20冊の完全制覇が実現したことになる。

 本書は、色々と注目すべき点があるが、そのひとつは舞台がアメリカであることで、それで、タイトルもアメリカを代表する女流詩人エミリー・ディキンソン(私が知っているのは、サイモンとガーファンクルの「夢の中の世界」の歌詞に出てきていることくらいだが)の作品からとられている。前作『悪の断面』から、また一新して、ナイジェル・ストレンジウェイズが『メリー・ウィドウの航海』(1959年)以来の外国の地で(最後の)殺人事件の謎に挑む犯人当てミステリである。

 二番目は学校殺人ものということで、処女作の『証拠の問題』(1935年)が学園ミステリだったが、あちらはプレップ・スクール、今回は大学である。ハーバードをモデルにしたという架空のカボット大学に、ナイジェルが客員研究員として招かれている設定なので、関係者はほぼ大学研究者達。オクスフォードやケンブリッジを舞台にしたイギリス伝統の大学ミステリの雰囲気である。

 大学の地下にあるロッカー・ルームで、ロッカーのひとつから、額を銃で撃ち抜かれた男の死体が見つかる。被害者は文学部教授のジョシア・アールバーグで、数日前から失踪していた。生前、学生のひとりとトラブルを起こしており、教え子であるジョン・テートのアイディアを盗んだという疑いである。ただし、現実には、ジョンがジョシアの論文を剽窃したため停学になっていて、しかし、姉のスザンナらは、そもそもジョシアがジョンの研究を横取りしたため、ジョンが報復としてわざと盗用してみせたのだ、と主張している。さらに、ジョシアには、チェスターとマークという二人の腹違いの弟がいて、ともにジョシア同様にカボット大学の教員を務めている。三人の父親は実業家で、大学のハウス(オクスフォードやケンブリッジのカレッジのようなものなのだろうか)[iii]のひとつで、関係者が所属しているホーソン・ハウスを寄贈した人物。彼が死ねば、遺産は三人の息子の間で分割される。すなわち、金銭的な動機も考えられるのである。しかもスザンナは、かつてチェスターの恋人だったが、彼と別れて、今はマークと婚約している。以上のような、ブレイク作品ではお馴染みの入り組んだ人間関係が描かれて、さらにそこに、アイルランド生まれの詩人で大学教授のチャールズ・ライリー、ハウスの理事長のジーク・エドワーズと妻のメイが加わり、これらの登場人物の間で、いつもながらの会話のバトル・ロイヤルが繰り広げられる。今回の訳は新しいこともあって、大変読みやすく、ブレイクの小説の醍醐味である会話の面白さがいつにもまして堪能できる。普通の小説としても、十分に楽しめる作品である。

 それに比べると、お話のほうは物足りないかもしれない。というのも、上記の登場人物の相互関係を見渡すと、過去のブレイク長編とまったく代わり映えしないからである。というより、むしろ作者自身が意図的に同じようなシチュエイションで同じようなプロットを構成しようとしているかに見える。もっとはっきり言えば、『死のとがめ』(1961年)[iv]、『死のジョーカー』(1963年)[v]とほぼ同一なのである。いずれも、二人ないし三人の兄弟が登場して、三人の場合は、ひとりが腹違いの兄弟である。これらの兄弟たちと関わりのある人物が殺害され、疑いは彼らにかかる。そして、実際に兄弟のひとりが犯人なのである。もちろん背景や細かな人物関係は異なるが、ここまでプロットも結末も似ているということは、作者に何らかの意図があったと考えるのが適当だろう。

 思えば、ニコラス・ブレイクの作品には、ある時点から、こうしたマンネリズムがつきまとっていたし、兄弟姉妹が出てくる小説が多かった。『死の殻』(1936年)では姉弟、『ビール工場殺人事件』(1937年)では兄弟が出て来た。『雪だるまの殺人』(1941年)は兄妹(二組)、『殺しにいたるメモ』(1947年)は双子の兄妹、『呪われた穴』(1953年)は姉妹と兄弟、『メリー・ウィドウの航海』(1959年)は姉妹と、他にもあるが、これらの作品では彼ら彼女らが重要な役割を果たす。被害者であったり、犯人である場合も多々ある。それでも、『死のとがめ』、『死のジョーカー』、『死の翌朝』の三作ほどの相似は見られない。これはもう、はっきり「三部作」とでも言ったほうがよさそうである。

 こう言い切れるのは、これら三作がプロットの展開でも、犯人の造形の面でも酷似しているからである。いずれの作品でも、作者はあまり犯人を隠そうとしていない。途中から、兄弟のいずれかが犯人であるらしいことが明白になっていき、そして、いずれの作品でも、犯人はいわゆるサイコパス的人物として描かれている。つまり、明確な動機がなく、殺人そのものが目的化した精神病質者なのである。1990年代以降に大流行したサイコ・スリラーの犯人のタイプで、無論、時代が異なるので、サイコパスとは書かれていないし、シリアル・キラーでもないが、ブレイクが書こうとしているのは、明らかにこのタイプの犯人である。そして、一作毎に、よりタイプが明確になっていっている。三作目の本書では、上述のとおり、物質的動機がないわけではないのだが、犯人への手紙で、ナイジェルが彼をあからさまに狂人と呼び、最後の章は、犯人の主観描写で狂人の心理が描かれている。

 三作とも、一応犯人当てミステリの形式は守られているが、作者が書きたかったのは、要するに狂気の殺人者だったらしいのだ。三作品を通じて、次第にその輪郭が明瞭になっていくのをみると、それが、1960年代のブレイクが目指したミステリの方向のひとつだったのだろう。

 ただし、本書は、先の二長編に比べると、パズル的要素が強く現われている。何しろ、日本の謎解きミステリでお馴染みのアリバイくずしが出てくるのである。舞台がアメリカということもあってか、容疑者のひとりが殺人のあった当日にイギリスに出張していたという設定で、しかし、時間的に、ジェット旅客機を使えばアメリカに戻って、殺人後にイギリスにとんぼ返りすることは可能だった、という状況なのだ。無論、日本のアリバイくずし、例えば高木彬光の『黒白の囮』(1967年)のような冴えたトリックが使われるわけではないので、あまり期待されても困るが(わたしが困ることはないか)、ブレイクの小説としては珍しい趣向である。

 もうひとつ、ナイジェルの推理の要となるのが「犯人の失言」で、なかなか面白くできている[vi]が、ちょっと奇妙なのは、最後の謎解きのなかで、ナイジェルが、この失言に気づいたのは、直前のある人物との会話からだ、といっている。ところが、前のほうを読み返すと、事件発覚直後の犯人を交えた、ある会話のなかで、この手がかりが出てくるのである[vii]。翻訳の間違いでもないだろうし、こんな明らかなミスを見逃すとも思えないのだが、どういうことだろうか(もちろん、推理自体に影響があるわけではない)。

 二つ三つ蛇足を加えると、本書には、こちらも珍しいセックス・シーンが描かれている[viii]。といっても、微にいり細を穿つというわけではないので、そちらを期待されても困るが(わたしは、別に期待していませんでしたよ)、ブレイクにしては珍しい。これまでも、それと匂わすような描写はあったが、これほど、はっきり書かれるのは初めてで、しかも、ナイジェルがスザンナといたすのである。クレアという恋人がいるのに、こんなことしていて、いいのでしょうか?『死のとがめ』もそうだったが、この頃のナイジェルはハードボイルド・ミステリの探偵をきどっているというか、時代とはいえ、幾分迷走していたようだ。

 もうひとつ、メタ的小ネタとして、序盤のある会話でミステリが話題になる。エドワーズ夫人から、探偵小説をどう思うか、と問われたナイジェルが、「芸術なんかじゃありません。単なる娯楽なんですから」と答える[ix]。ブレイクに聞いても、多分、こう答えただろうから、詩人が本業だけに割り切ってるなあ、とも思うが、まあ、正論でしょう。でも、ぐぬぬ、と思うミステリ作家もいそうですね。

 

[i] 『死の翌朝』(熊木信太郎訳、論創社、2014年)。

[ii] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、606頁。

[iii] 訳者による解説がある。『死の翌朝』「訳者あとがき」、298頁。

[iv] 『死のとがめ』(加島祥造訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1963年)。

[v] 『死のジョーカー』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1964年)。

[vi] 似た例として、エラリイ・クイーン「菊花殺人事件」(『クイーン犯罪実験室』(青田 勝訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1973年)所収)がわかりやすいだろう。本書と同じ1966年作なのが面白い偶然だ。もっと古い例として、カーター・ディクスンの長編ミステリがある(『白い僧院の殺人』(1934年、厚木 淳訳、創元推理文庫、1977年))。一番有名なのは、しかし、次の作品だろうか。E・D・ビガーズ『チャーリー・チャンの活躍』(1930年、佐倉潤吾訳、創元推理文庫、1963年)。もっと古い例もあるかもしれないが、ちょっと思いつかない。あ、『罪と罰』(1866年)か!

[vii] 『死の翌朝』、84頁。

[viii] 同、256-57頁。

[ix] 同、29頁。