ニコラス・ブレイク『旅人の首』

(本書の犯人を明かしています。)

 

 「復刊アンケート第9位」。私が持っているハヤカワ・ポケット・ミステリの『旅人の首』(2003年、原書刊行1949年)には、例のあのビニール・カヴァーの下に、こう謳い文句が載った帯が付いている。ハヤカワミステリの50周年記念で43年ぶりに再版されたものである[i]

 待望の復刊だったらしいのだが、本書を読んだミステリ・ファンは、さすがブレイク、埋もれていた傑作だ、と感嘆これ久しゅうしたのだろうか。それとも、幻のままのほうがよかったなあ、と嘆息したか?

 初めて読んだのが、この再版本だったのだが、内容はきれいさっぱり忘れていたので、再読してみた。そして思ったのは、・・・パッとしないなあ。

 初読時の感想をまるで覚えていなかったのをみても、多分、感心はしなかったのだろう。ニコラス・ブレイクの第九長編で、『殺しにいたるメモ』の二年後の刊行。戦後のロンドンを舞台とした前作とうって変わって、ブレイク、あるいはイギリス作家お得意の田園ミステリである。オクスフォードシャのはずれにあるプラッシュ・メドーというお屋敷で事件が起こる。例によって、イギリス地方の風景を描くブレイクの筆は抒情を感じさせ、そこに、こちらもブレイクらしい、ちょっとエキセントリックで、しかし、表面上は穏やかな登場人物たちが、皮肉に満ちた、でも、一見和やかな会話劇を繰り広げる。ファンなら、戦前のブレイクに再会したような懐かしさを感じるだろう。

 が、前作で健在だったブレイクらしい中毒気味の理屈っぽさは薄れて、『野獣死すべし』のような大胆な語りのトリックも見られない。中心となるシートン一家を見渡しても、意外な犯人になりそうな人物は皆無で、そこから容疑者がさらに絞られて、疑わしい人物が二人になると、Aが犯行を置き手紙に残して死んでしまう。でも、結局真犯人はBだったとわかるという結末で、でも、どちらが犯人でも意外なことは何もない。一向に映えない幕切れで、最後、ナイジェル・ストレンジウェイズが、真相を公けにすべきか、迷いを吐露しつつ小説は終わるのだが、勝手に悩んでろよ、といいたくなるラストである。はたして、作者は何がやりたくて、この小説を書いたのだろうか?

 ストーリーはなかなか面白くて、冒頭、ナイジェル・ストレンジウェイズが友人の紹介で、シートン一家を訪ねる。家族は当主のロバート・シートンと妻のジャネットと子どもたちで、二人は、ロバートの前妻が死去した後結婚したのだが、もともとジャネットの父親が所有していた屋敷をシートンの父親が買い取って住むことになったという、何やらいわくありげな夫婦である。彼らの間に子はないが、先妻が産んだライオネルとヴァネッサの兄妹がいる。他には、昔夫妻がドーセットに旅行したときに連れ帰ってきた唖で小人のフィニー・ブラックという謎めいた使用人。さらに、母屋から離れた一棟に、彫刻家のレンネルと娘のマラのトランス親子が借りて住んでいる。登場人物は、ほぼこの二家族に限られて、ナイジェルが訪問してから二カ月たったある日、プラッシュ・メドーの傍らを流れる小川から、首無し死体が見つかる。付近に行方不明者はおらず、ナイジェルがシートン夫妻を問い詰めると、十年前に行方不明となり、死んだと思われたシートンの兄オズワルドの存在が浮き彫りになってくる。そして、屋敷内にたたずむ古木の枝から、男の首を包んだ網の袋が発見され、死者は案の定オズワルドと推定される。

 フィニーが隠したとみられる被害者の首が転げ落ちてくるシーンはショッキングだが、あっさり死者の身元が明かされて、首なし死体はオズワルドと見せかけて別人だろうと予想した読者のあてははずれる。それでも、実はオズワルドとロバートが入れ替わっているのでは、と推測すると、ナイジェルの友人のポール・ウィリンガムが先回りして同じ推理を口にする[ii]。もはや登場人物のなかに意外な犯人になりそうな者は見当たらないので、それなら、一家全員の犯行だろうと思っていると、やはりウォリンガムが、推理に行き詰るナイジェルに、シートン一家総出の殺人ではないかと示唆する[iii]。クリスティの読み過ぎです。

 どうやら本書は、首なし死体と奇妙な一家の暗い秘密という、おあつらえ向きの餌をぶら下げて、実は読者の予想を微妙にはずしていくことを狙いとしたミステリのようにも思えてくる。しかし、その挙句の果ての結末が平凡そのものとあっては、作者の捻った企みも、あわれ不発ということになりそうである。

 事件が大詰めを迎えるあたりで、ナイジェルは重要な論点に行き当たる。行方知れずでプラッシュ・メドーと結びつけられる心配のないはずだったオズワルドをわざわざ当地に呼び寄せて殺害し、首を切って正体を隠そうとしたのは、殺人が計画的でないことを意味する、と[iv]。この辺りのナイジェルの推理は、ブレイクらしい理詰めの面白さがあるが、この推理が発展していかない。その後の犯人を特定する推理は、何だか曖昧な憶測ばかりで、一向に感銘をもよおさない。やはりブレイクにしては物足らない、というのが再読しての感想である。

 だが、と、ここでいわなければならない。本書はブレイクにとって、いつか書かなければならなかった宿命的な作品だったのかもしれない、と。

 というのも、本書の主人公ともいえるロバート・シートンが詩人、それも天才詩人という設定だからである。

 しかも、シートンの詩作に感動したナイジェルは、何の根拠もないのに、シートンだけは犯人ではありえないし、どうあっても守らなければならない、と心に決める。何という無茶苦茶な論理、無茶苦茶な探偵であろう。ドーヴァー警部のほうがまだましだ。

 要するに本書は、自身が詩人であるブレイクが、犯罪に巻き込まれ、運命に翻弄された天才詩人を描いて、その人物像をナイジェルを通して創り上げようとした小説なのだろう。

 その意味で、本書でブレイクが書きたかったのは、ロバート・シートンの遺書[v]とそれに対するナイジェルの分析を描いた最終章[vi]だったと思われる。なぜロバートは犯人であるジャネットの罪を引き受けようとしたのか、彼女にいかなる感情を抱いていたのか、十年間詩を書くことができなかったロバートがなぜ事件後、再び書けるようになったのか。これらの問いに対するナイジェルの考察は、謎解きというより、詩作と詩人とに対するブレイクの自己省察とでもいうべきものなのだろう。生憎、シートンの詩が作中で紹介されているわけではないので(さすがに、ブレイクも「天才詩人が書いた詩」を自作する度胸はなかったのだろう)、天才詩人といわれても、あまりピンとこないのだが、ナイジェルがいつもの彼にも似ず、やたら深刻で、事件の締めくくり方に思い悩むのは、ブレイク自身の心情を投影しているのだろうか。彼が本書で天才詩人を描いたのはコンプレックスからなのか、いやいや、桂冠詩人ともあろう人がそんなことはないか-。

 

[i] 『旅人の首』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年、再版2003年)。

[ii] 同、71-72頁。

[iii] 同、179頁。

[iv] 同、180-81頁。

[v] 同、241-47頁。

[vi] 同、250-61頁。