ニコラス・ブレイク『死のとがめ』

(本書の結末を明らかにしています。)

 

 『死のとがめ』[i]は『メリー・ウィドウの航海』[ii]に続く、ニコラス・ブレイクの長編ミステリだが、前作同様の犯人当て小説で、しかし、印象は対照的である。

 『メリー・ウィドウの航海』は、エーゲ海クルーズ船を舞台にした、極めてトリッキーで華麗なパズル・ミステリだったが、本書は、ロンドンのテムズ川沿いの一画で起こる連続殺人を暗い淀んだ空気の中で描いた現実味の強いミステリである。

 1950年代のブレイクは、『呪われた穴』[iii](1953年、犯人当てミステリ)、『闇のささやき』[iv](1954年、スパイ・スリラー)、『くもの巣』[v](1956年、犯罪実話小説)、『章の終わり』[vi](1957年、犯人当てミステリ)、『血ぬられた報酬』[vii](1958年、サスペンス・ノヴェル)、『メリー・ウィドウの航海』(1959年、犯人当てミステリ)、と一作毎にスタイルを変える柔軟さで、順調に執筆を続けてきた。この振れ幅がいかにもブレイクで、専業作家ではないミステリ・ライターの強みというか、自在さが目に付く。

 そして、1960年代最初の本書は、ひと癖ありげな男女からなる奇妙な一家を描いた、ブレイク作品らしい謎解き小説で、構成にも一工夫ある。いきなり一人称の手記が登場して、書き手の人物は、家族の一人、それも息子によって殺されるのでは、と恐れているらしい。ところが、むしろ肉親に殺人の罪を負わせるくらいなら、自ら命を絶つほうが望ましい、と思い直したところで手記は終わる。その息子とは誰なのか、本当に殺人を企てようとしているのか。続きを記した完全な手記が最後に掲げられて、最初と最後を手記が占めるという趣向である。

 第二章に入って、手記の書き手が老練の医師ピアーズ・ラウドロンとわかり、グリニッジに転居してきたナイジェル・ストレンジウェイズと恋人のクレア・マシンガー(マシンジャじゃなかったの?)がラウドロン家を訪問する場面から物語が動き出す。ピアーズ一家は、父の後を継いて医師の長男ジェームズ、その弟で実業家のハロルド、亡くなった母親代わりの娘レベッカ、そして養子のグレアムという顔ぶれで、ただし、ハロルドは妻シャロンとともに、テムズ川沿いの別の家に住んでいる。他に、しょっちゅう出入りするのがレベッカの恋人の画家ウォルター・バーンである。

 以上の人物紹介のあと、ピアーズが失踪し、数日後、両手首に傷あとのついた死体となってテムズ川に浮かび上がる。ウォルターを含めた家族全員にチャンスと動機があるかに見え、容疑者は限られているものの、警察の捜査は難航する。ハロルドは事業の失敗で金に困り、しかし、ピアーズは次男が援助を求めるのに、いい顔をしなかったらしい。ウォルターは労働者階級出身で、ラウドロン家に対しても、ナイジェルに対しても、傍若無人な態度で、レベッカとの結婚に反対のピアーズとも険悪な間柄だった。養子でありながら、ピアーズに可愛がられていたグレアムは、しかし、こちらも生意気で反抗的な若者で、シャロンと関係をもって、彼女に麻薬を渡していたらしい。問題のなさそうだったジェームズも、同業であることからくる父親への鬱屈した感情があったようで、こうして、例によって、ブレイク作品恒例の腹に一物抱えたキャラクターとナイジェルとの間で、軽妙でありながら辛辣な会話バトルが展開される。

 読み直して特徴的だったのが、ナイジェル・ストレンジウェイズが以前にもまして挑発的な言辞を繰り返す、なかなか意地の悪い主人公に描かれていることで、私立探偵なりの計算もあるのだが、本書では、いよいよ人が悪くなって、容疑者たちをやたらと煽る発言をする。対するラウドロン家の面々も負けず劣らず喧嘩っ早く、陰険で挑戦的である。中盤、ナイジェルが彼らを訪問して回ると、(ナイジェルが挑発したからだが)ハロルドは激高して怒鳴りつけ、シャロンはベッドに誘って、失敗するとヒステリーを起こす。挙句の果ては、ウォルターと殴り合いになって、まるでアメリカの私立探偵なみのタフガイぶりなのだ。いや、本当に、本作でのナイジェル、というよりブレイクがハードボイルド・ミステリにかぶれたのか、それっぽい言動や雰囲気が目立つので、いささか面食らってしまう[viii]。これも、時代というやつだろうか。

 肝心の事件のほうは、終盤、手記で言及されていた息子とはグレアムだったことがわかり、シャロンが第二の犠牲者となるあたりで、大体結末の方向が見えてくる。

 というか、最初から一番怪しいのはグレアムで、彼は実はピアーズの不倫相手との隠し子であり(これも読者の予想どおりか)、ピアーズが母親を結果的に見捨てたことを恨みに思っていることがわかる。もっとも、そこに至るまで、他の家族ひとりひとりもそれぞれに秘密を抱えていて、アリバイも不確か、お互いに足を引っ張り合うような証言を重ねるので、そして、決定的な手掛かりも見当たらないので、なかなか絞り切れないようにはできている。

 殺人手段の謎は、睡眠薬を飲んで意識のないピアーズを湯を張った浴槽に入れて手首を切って出血死させ、死体をテムズ川に投げ入れたものと判明する。しかし、遺体を運んだのは、一家の評判が傷つくのを恐れたジェームズの仕業だったことが明らかになるものの、殺人なのか、自殺なのかも、最後までなかなか決定できない。

 しかし、結局、犯人はグレアムで、作者もそれを隠そうとする意図はあまりもっていないようなのだ。ウォルターとグレアムという、反抗的で反体制の若者が二人も登場するのは、そのうちの一人が犯人であることをぼかすための人物配置だったのかもしれないが、より暴力的なウォルターのほうが無実で、むしろあからさまに疑わしかったグレアムがそのまま犯人というのは、謎解きの結末としては、あまりにも当たり前すぎるようにも思える。最後、ナイジェルを誘い込んで罠にかけるが、ここは、名探偵、うかつだなあ、と呆れるところで、いいようにやられて、這いつくばれ、と脅されたりして、はなはだ情けない。このあたりもハードボイルド的か。しかし、絶体絶命、危機一髪の名探偵を救ったのは、ヒーローならぬヒロインのクレアだった。彼女の機転(?)によって、犯人グレアムはロープで首を吊られ、あわれ絞首刑となって終わる。

 小説としては、ブレイクの小説らしく、登場人物同士の会話のやり取りが面白く、読んでいて楽しいのだが、この見え透いた結末は、正直あっけにとられる。一体、作者の狙いはどこにあるのだろう?

 そう考えると、どうやら、前作の『メリー・ウィドウの航海』が絵にかいたようなパズル小説だったことに意味があるように思えてくる。謎解き小説の体裁はとっているが、前作とは異なり、本書のテーマはパズルではないらしい。舞台背景もそうだが、真逆のミステリを書こうとしたようなのだ。

 本書で最も興味深いキャラクターといえば、やはりグレアムで、父親が向ける愛情にむしろ反発して、しかも母親の復讐といいながら、実際は殺人そのものを目的化して暴走する性格は、ある意味現代的なサイコ・スリラー的犯罪者で、作者としては、第二次大戦後の若者世代の負の側面を描写しようとしたのかもしれない。旧世代のブレイクが、戦後世代の若者たちに抱く興味関心を具体的なキャラクターとして具現化したのが本書の犯人で、この犯人像を描くことが本書の狙いだったのだろうか。そして、さらに勘ぐれば、はなはだ安易な憶測だが、自身の子どもたち(の世代)に対して抱く「不安」を反映しているようにも思えてくる(ただし、ダニエル・デイ・ルイスは1957年生まれなので、この時点では、まだ四歳)。

 ところで、原題のThe Worm of Death は、これも例によって文芸作品からの引用なのだろうか。今回は解説すらないので、わからないのだが、Worm には「種」、「原因」といった意味もあるようだ。とすれば、「死の原因」となるが。さもなくば、「死の蛆虫」あるいは「死という蛆虫」か。死は、殺された者のみならず、殺した者の精神をも蝕む蛆虫のようなものだ、ということだろうか。

 

[i] 『死のとがめ』(加島祥造訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1963年)。

[ii]メリー・ウィドウの航海』(中村能三訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)。

[iii] 『呪われた穴』(早川節夫訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1955年)。

[iv] 『闇のささやき』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)。

[v] 『章の終わり』(小笠原豊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)。

[vi] 『くもの巣』(加納秀夫訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)。筆者未読。

[vii] 『血塗られた報酬』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)。

[viii] 法月綸太郎ニコラス・ブレイクを読む若い人たちのために」『殺しにいたるメモ』(森 英俊訳、原書房、1998年)、326頁に同様の指摘がある。