ニコラス・ブレイク『メリー・ウィドウの航海』

(本書のトリックおよび犯人のほかに、クリスティアナ・ブランドの『はなれわざ』、アガサ・クリスティの長編小説の真相を明かしています。)

 

 ニコラス・ブレイクの第十五長編『メリー・ウィドウの航海』(1959年)[i]は、これぞパズル・ミステリというべき作品である。ジャンルとしては、トラヴェル・ミステリでエーゲ海を周遊する客船に乗り込んだナイジェル・ストレンジウェイズと恋人のクレア・マシンジャが船上で起きた殺人事件の謎に挑戦する。トラヴェル・ミステリとくれば、これはもう古典的な謎解き小説の定番中の定番だが、一番有名なものといえば、アガサ・クリスティの『ナイルに死す』(1937年)[ii]あたりか。いや、それより、E・D・ビガーズの『チャーリー・チャンの活躍』(1930年)[iii]だろうか。非日常的な船上を舞台に、見ず知らずの他人同士の(はずの)間で生ずる衝突と軋轢。そして、ついに起こる殺人の謎。まったくおあつらえ向きのシチュエイションで、ブレイクの作品のなかでも、もっともゲーム性の強い長編ミステリといってよいだろう。

 中心となるのは、富豪の未亡人メリッサ・ブレイドンと妹の元古典語教師アイアンシー・アンブローズ。一緒に乗り合わせた著名なギリシア古典文学研究者のジェレミィ・ストリートは、翻訳書をアイアンシーに散々叩かれたうえ、さらに船内で開かれた講演会でもこっぴどくやり込められて、ひどく彼女を憎んでいる。実業家の息子ピーター・トルウボディは、双子の妹フェイスが、アイアンシーにいじめられたことが原因で学校をやめることになったと信じ込んで、妹の仕返しとばかりに攻撃の機会を狙っている。ところが、ピーターは美しいメリッサに恋心を抱くようになるが、一方、遊び人の航海長のニコライテスも彼女に色目を使っている。こうした入り組んだ人間関係に詮索好きな眼を向けるのが、精神分析家夫妻の娘プリムローズ・チャルマーズで、ませガキの彼女は、怪しげな中年男ベンティング=ジョーンズの言葉を真に受けてか、船客の秘密を嗅ぎまわって、知るべきでないことを知ってしまったらしい。

 こんな具合に、観光ミステリではお馴染みの、実は過去に因縁のある人々が、なぜか一か所に集まってくるという偶然から、逃げ場のない環境のなかで、釜がぐつぐつ煮え立つように緊張感が高まっていく。そして、作半ば、ストリートの講演の最中に突然席を立ったアイアンシーのあとをプリムローズが追い、やがて少女の絞殺死体が船内プールに浮かんでいるのが発見される。アイアンシーの姿は消えて、船のどこからも見つからない。彼女がプリムローズを殺し、海に身を投げたのだろうか・・・。

 ストーリーだけを見ると、原題がThe Widow’s Cruise なのに、事件の焦点はアイアンシーのほうに置かれて、メリッサは端役のように思える。しかし、無論そうではなくて、最後、ナイジェルが犯人を指摘すると、やはりタイトルが本書の主題を意味していたことがわかる。つまり、メリッサがアイアンシーを停泊中の島で殺害して一人船に戻ると、妹の扮装をして生きているかに見せかけ、秘密を知ったプリムローズをも殺して、アイアンシーが身投げしたように見せかけたのだ、と。ところが、実はもう一段裏があって、真の解決は、アイアンシーのほうがメリッサを殺害して、姉に成りすまそうとしたのだった。

 ブレイクにしては、かなり大胆なトリック小説だが、いろいろと細かな伏線が張ってあって面白いことは面白い。文庫解説では、「クリスティー女史のある作品の手法をほうふつとさせる」[iv]と指摘されているが、なるほど、確かにアガサ・クリスティの長編のなかに、同じようなトリックの使い方をしている作品がある(注で、作品名を挙げます)[v]

 しかし、そのクリスティ作品よりも、もっと本書によく似た長編小説があるのだ。よく似ているというか、そっくりなのだが、クリスティアナ・ブランドの『はなれわざ』(1955年)である。

 これら二作品の間には、偶然とは思えないほど大きな類似点がある。ともに、トラヴェル・ミステリで、真相もほぼ同じ。つまり、『はなれわざ』にも、よく似た二人の女性(従妹同士だと途中でわかる)が登場して、一方(A)が他方(B)を殺害してなりすます、と思わせて、実は、BがAを殺して、すり替わっていた、という結末なのである。さらに、『はなれわざ』では、犯人Bは自分がAを殺害したと告白しているつもりなのに、周囲には、AがBを殺したと告白しているように見える-そこが作者の巧みなテクニックである-という錯覚トリックが使われていて、実は逆だったという真相が、読者をも、登場人物をも驚かす仕掛けになっている。

 細部は異なっているとはいえ、基本アイディアは同一で、ここまで似かよっていると、本書の発表当時、盗作騒ぎなど起こらなかったのか、気になってくる。とくに、ブレイクには「前科」[vi]があるので、ことさら不思議に思うのだが、日本で両作が翻訳されたとき、話題にならなかったのだろうか。というのも、これら二作は、かなり近い時期に翻訳出版されたからである。『はなれわざ』が1959年3月[vii]で、『メリー・ウィドウの航海』が1960年4月[viii]。約一年空いているとはいっても、『はなれわざ』は、かなり評判になったらしいので、両作品の類似に気づいた読者は多かったのではないだろうか。しかし、例えば、『はなれわざ』を絶賛した[ix]小林信彦は、同じ連載書評でブレイクの本書も取り上げていて、そして、パズルとしての出来栄えは認めつつも、あまり感心はしていないのだが、『はなれわざ』とのプロットの類似については、まったく触れていない[x]

 果たして、両作品の酷似した内容は、どう理解すればよいのだろうか。いくつかの可能性が考えられよう。

1.ただの偶然。

2.ブレイクがパクった。

3.『はなれわざ』を読んで、不満に思った点があったので、そこを改善しようとして、ことさら同じような構成で書いた。

 1については、トラヴェル・ミステリというジャンルばかりか、トリックまで同一とあっては、果たして偶然で済ませられるだろうか。否、断じて、否である。

 2の可能性はどうか。前作の『血ぬられた報酬』を、パトリシア・ハイスミスの『見知らぬ乗客』とアイディアが同一だったからと、ハイスミスの了解を取ったうえで出版したくらいだから[xi]、堂々とパクりはしないだろうと思うのだが。

 3も結局はパクったのと同じなのだが、『はなれわざ』と『メリー・ウィドウの航海』を比較して、後者のほうが優れている点が見つかるのかどうか、ということであるが、上記のとおり、『はなれわざ』はブランドの代表作で、小林のみならず、多くの批評家が絶賛している[xii]。それに比すれば、本書はさほどでもなかったらしい(絶賛もあったようだが[xiii])。筆者も、『はなれわざ』のほうが上だと思う。

 もしも本書のほうが優れている(と、少なくともブレイクが思ったかもしれない)点があるとすれば、殺害動機が挙げられるかもしれない。本作では、メリッサがアイアンシーを殺す動機はないが、逆の場合は、大いにありうる。その意味で、姉が妹を殺したのではなく、その逆である、というナイジェルの推理は納得しやすい。ブランド作も、従姉妹同士の一方が他方を殺害する動機が不自然というわけではないが、恋愛がらみなので、この入れ替わりはうまくいくのかな、という気はする(恋人をいつまでもだませるのだろうか)。しかし、そこは『はなれわざ』の欠陥とまでは言えないだろう。

 となると、結局、最初に戻って、ただの偶然だったのだろうか?いや、それとも、そもそも『はなれわざ』と『メリー・ウィドウの航海』が似ているというのは、私がそう思っているだけで、他の人が見れば、ちっとも似ていないのだろうか?なんだか、すべての前提が崩れ去る、どんでん返しのミステリを読んでいるような結論だが、どうなんでしょう?(似ていないかなあ。)

 

[i]メリー・ウィドウの航海』(中村能三訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)。

[ii] アガサ・クリスティ『ナイルに死す』(脇矢 徹訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1973年)。

[iii] E・D・ビガーズ『チャーリー・チャンの活躍』(佐倉潤吾訳、創元推理文庫、1963年)。

[iv]メリー・ウィドウの航海』、313頁。

[v] アガサ・クリスティ『エッジウェア卿の死』(1933年)。

[vi] 後述の『血ぬられた報酬』のこと。「前科」というのは、もちろん冗談です。

[vii] クリスティアナ・ブランド『はなれわざ』(宇野利奏訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)。

[viii]メリー・ウィドウの航海』(中村能三訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)。

[ix] 小林信彦『地獄の読書録』(ちくま文庫、1989年)、39-40、44-45頁。

[x] 同、119-20頁。今、気づいたが、意図的に伏せていたのだろうか。しかし、なぜ?

[xi] 『血塗られた報酬』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、264頁。

[xii] 註6を参照。『はなれわざ』は、翻訳出版される前に、都筑道夫が取り上げて賞賛している。都築道夫「ペイパア・ナイフ クリスチアナ・ブランド『はなれわざ』」『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』(1956年9月号)、都築道夫『ポケミス全解説』(古森 収編、フリースタイル、2009年)、432-34頁。

[xiii] 註9を参照。