ニコラス・ブレイク『血ぬられた報酬』

(本書のアイディアおよびプロットを明かしているほか、『野獣死すべし』について、ちょっとばらしています。)

 

 『血ぬられた報酬』(1958年)[i]、タイトルはまるでハードボイルド・ミステリだが、前作の『章の終わり』(1957年)[ii]から一転して、再びサスペンス小説となった。再びというのは、前作のその前が『くもの巣』(1956年)だからだが、戦後のニコラス・ブレイクは確かにクライム・ノヴェルの方向に傾斜しつつあったようだ。

 理屈好きのブレイクにはパズル・ミステリが性に合っていたと思うのだが、本人にはまた本人なりの思いがあったのだろうか。謎解き小説が好きなので、正直、スリルやサスペンスが売りのミステリは好みではないのだが、ブレイクを読み直すと決めたので、あまり気が進まないが、手に取ることにした(言い訳というか、文句が多い)。

 冒頭、主役のひとり、チャールズ・ハンマーが立ち寄ったパブで二人の男女を見かける。ハンマーには読唇術という特技があって、隅の席で話している彼らの会話を盗み見る。二人は不倫関係にあるらしく、邪魔な妻をどうにかできないか、と相談している。実は、ハンマーにも殺したい人間がいて、工場の支配人の地位を与えてくれた伯父なのだが、何かにつけて口出しして事業を任せてもらえないのだ。

 女と別れた男のあとを追うと、ハンマーは口実をつくって話しかけ、自分のヨットに誘う。沖合に出た船上で、ハンマーがその男、ネッド・ストウに持ち掛けたのは、互いに邪魔な相手を殺さないか、という提案だった。

 すなわち本書は、いわゆる「交換殺人」もののミステリで、パトリシア・ハイスミスの『見知らぬ乗客』(1950年)に先例があることに気づいたブレイクが、ハイスミスに了承を得て、本書を刊行したというのは有名な話だ。本書の巻末に経緯を書いた「追記」が付されている[iii]。このテーマでは、他に、フレドリック・ブラウンの『交換殺人』(1961年)などが思いつくが、ブラウン作には、もはや、そうした断り書きはついていない。

 ブレイクとしては、うまいアイディアだと思ったら、先を越されていて、悔しさいっぱいだったのかもしれないが、謎解きミステリのトリックなどとは違うので、プロットのオリジナリティは確かに大事ではあるが、結末が異なれば、別に問題ではないだろう。

 問題があるとすれば、このアイディアの小説の場合、二人の見ず知らずの者同士が、どうやって交換殺人で合意するか、その過程が自然に描かれているかどうかだろう。もっとも、「交換殺人」というテーマ自体が現実離れしているので、本当らしく見せるのはなかなか難しそうだ。もちろん、事実は小説より奇なり、で、現実の犯罪では、見ず知らずの二人が信じられないぐらい安易なきっかけで意気投合してしまうなんてことがあるのかもしれない。小説のほうが、かえってもっともらしく書かなければならないので、難しいだろうか。

 本書の場合も、一応頁数を使って経緯を丁寧に描写しようとはしているが、やはり唐突で急ぎ過ぎているという印象を受ける。ことに、最初に出てくるチャールズ・ハンマーは、ひげ面のたくましい、ブレイク作品では珍しい無頼漢風のキャラクターで、いかにもの犯罪者タイプなのだが、一方のストウが劇作家で、こちらはブレイク作品の主人公らしい色白で知性派タイプ。彼が、意外に簡単に殺人の提案に応じてしまうのは、少々違和感を覚える。

 そもそものきっかけとなったストウと不倫の恋人ローラとの会話の盗み見に読唇術を使うというのも、いささかご都合主義で苦しい方法と思わぬでもない。この特技がこのあとのプロットに活かされているのかというと、そんなこともなく、その後は読唇術のドの字も出てこないので、やはり、この発端の展開は都合のよすぎる偶然という印象である。

 このあと中盤が、ハンマーとストウが互いの殺人計画を実行する箇所で、この辺もブレイクらしく、どちらの犯行も予定通りには行かない。ハンマーが、ストウの妻ミリアムの寝室に忍び込むと、なんと浮気相手の男が隣に眠っている。あとで近所に住むブライアン・ホームズという若者だったとわかるが、ハンマーは、そちらの頭を殴ってからミリアムを殺し、物取りの犯行に見せかける当初の計画を変更して、浮気相手による殺人と思わせようとする。ところが、明らかに自分ではつけられないような重い傷なので、かえって警察の疑いを招いてしまう。

 ストウはストウで、ハンマーの伯父ハーバートを車で引き殺そうとするが、失敗。しかし、結果的にハーバートの弱い心臓がショックを受けて止まってしまい、予期せぬ形で殺人計画は成功する。しかし、ハーバートが散歩させていた犬に追いかけられ、腕を噛まれたうえに、その場を目撃されるという不手際を犯す。

 このあたり、いかにもの犯罪小説らしい展開だが、一番ブレイクらしさが出ているのは、この後、ストウがミリアムの死による罪の意識と後悔に苛まれる描写で、さらにホームズの母親との会話で、息子の無実を信じる未亡人が、ストウの言葉のはしを捉えて問い返すと、ストウのほうは、疑われているのではないか、と猜疑心を募らせる[iv]。このあたりの細密な文章で畳みかけていく展開は、サスペンスものは趣味ではないと書いたが、急激に緊迫感が高まって、主人公の不安と恐怖がダイレクトに伝わってくる。さすがに見事な筆力である。

 原題は、冒頭に掲げられている子守唄の一節[v]を採ったもののようで、A Penknife in My Heart。しかし、ナイフが凶器というわけではなく、そもそもペンナイフでは、殺人には向いていない。ストウがミリアムを思って、塊根と贖罪の意識に押しつぶされそうになる様を意味しているようだ。邦題の「血ぬられた報酬」は、そうしたストウの心情を皮肉に表現しているのだろうが、じわじわと犯人の心理が侵されていく過程を描く本書には、やはり直截に過ぎて、あまりふさわしくないタイトルだったようだ(エド・マクベインの「87分署シリーズ」みたいだし)。

 ところで、本書の主役二人、チャールズ・ハンマーとネッド・ストウは、どこかで見たような既視感のあるキャラクターだな、と、ずっと思いながら読んでいたのだが、ようやくわかった。『野獣死すべし[vi]のジョージ・ラタリーとフィリクス・レインである。『野獣死すべし』にもヨットが出てきたので、そのせいもあるのかもしれないが、ハンマーとストウも、最後、ラタリーとレインと同様に、洋上で死を賭した闘争を繰り広げる。まるで、主演俳優たちが別の映画で共演しているような錯覚を覚える。しかし、そう思えるのは、本書もまた「死すべき野獣」を描いた罪と罰の物語だからなのだろう。

 

[i] 『血ぬられた報酬』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)。

[ii] 『章の終わり』(小笠原豊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)。

[iii] 『血ぬられた報酬』、264頁。「追記」によると、ブレイクは、ハイスミスの小説も、ヒッチコックによる映画も見ていなかった、とのことだが、じゃ、一体どうやって同じプロットであることに気づいたのだろうか。出版社に注意されたのか?

[iv] 同、190-93頁。

[v] 同、4頁。「訳者あとがき」(268-69頁)も参照。

[vi]野獣死すべし』(永井 淳訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。