ニコラス・ブレイク『章の終わり』

(本書のほか、『旅人の首』の内容に言及しています。)

 

 出版社というのは、作家にとっては身近な存在であるはずなので、舞台にしやすいのだろうか(いや、むしろ、しにくいのか。本を出してもらっているわけだから)。ニコラス・ブレイクの1957年の長編『章の終わり』[i]は、ロンドンの老舗出版社の一室で作家が殺害されるというミステリである。

 この手の作品では、カーター・ディクスンジョン・ロードの合作『エレヴェーター殺人事件』(1939年)、もっと新しいところでP・D・ジェイムズの『原罪』(1994年)あたりが思い浮かぶ。ブレイクの本書は、あんなに厚くないが、ジェイムズの小説の雰囲気に近いだろうか。登場人物がいずれもひと癖ありげで、主役のナイジェル・ストレンジウェイズの人間観察もいつにもまして辛辣で皮肉味が増している。ディクスン/ロード作品に比べると、さすがに、キャラクターが立っている。ひとつには、戦後の作品という面もあるのだろう。ブレイクの初期長編に見られた、どこかのどかなムードと登場人物の慇懃でお行儀のよい態度が薄れてきているようだ。

 出版社ミステリ(そんなジャンルがあるとして)らしく、著名な将軍が別の軍人(少将)の戦時における作戦失敗を徹底的にこき下ろした回顧録を書いて、出版社を慌てさせる。ウェナム・アンド・ジェラルディン社は、著者と話をつけて問題個所を削除したはずが、なぜか「イキ」(元に戻すという校正用語)と書き込まれた原稿が印刷所に送られてしまい、そのまま出版され、名誉棄損問題へと発展する。損害を被ることになった出版社社主のアーサー・ジェラルディンとリズ・ウェナム、そして若い共同経営者のバジル・ライルは、会社を訴訟に追い込んだ犯人捜しをナイジェルに依頼する。

 もっとも機会に恵まれていたのは校閲主任のスティーヴン・プロザロウだが、古くからの社員で動機がない。彼の部屋の隣は、人気女流作家のミリセント・マイルズが仕事部屋に利用していて、自叙伝を執筆している。プロザロウの不在中に部屋に入ることは容易で、しかも、彼女は、旧作の出版をプロザロウに反対されているので、彼に罪を着せて免職に追い込みたい動機がある。ところが、ナイジェルがプロザロウとマイルズの調査を進めているさなか、終業時刻が過ぎても部屋に籠って執筆を続けていたマイルズが喉を切られた死体となって発見される。この殺人をめぐる謎解きがメインだが、執筆していた自伝の一頁がすり替えられていることがナイジェルの推理によって明らかとなる。そのページが置かれていたのが「章の終わり」だったというわけである。

 原稿の改竄と殺人事件とは、当然関係があると読者は予想するが、ナイジェルはライト警部とともに捜査を進め、殺された作家は、社主のジェラルディンとも、校閲主任のプロザロウとも、浅からぬ因縁があることを突き止める。さらに、幹部のひとりのライルは、マイルズに恋い焦がれながら、性悪な彼女に罵倒されたあげく袖にされ、こちらも殺害動機があると判明。マイルズの息子のシプリアン・グリードまで、母親との折り合いが悪く、金目当てに親を殺害しかねない凶悪な性格の持ち主である。後半、プロザロウ、ジェラルディン、ライル、グリードらの動機と疑惑が次々に浮かび上がって、読者を惑わせる展開になるあたり、細かなプロットの捻りを好むブレイクらしい。それにしても、被害者と深い関係を持った人々がひとつの職場に集まってくるのは、やや偶然がきつすぎるようだ。

 ブレイクらしい小味な推理が楽しめるのが、事件直後にナイジェルとライト警部が繰り広げる推理合戦だが、その前に、実は犯行場面が描写されている[ii]。犯人(無論、その正体は伏せられている)は被害者を殺害した後、隣のプロザロウの部屋との壁にくり抜かれた小窓に鎹を打って開かなくしておき、タイプライターを使って偽の原稿を作成すると、本物の原稿と一枚を入れ替えて立ち去る。ナイジェルは、犯人が窓を固定したのは殺人前ではあり得ない(殺人には数秒しかかからない)ので、殺人後に何かをするためだったと推理。そこでタイプライターを調べると、挟んであった用紙が一旦取り外されたあと、再び戻された形跡があることに気づく。そこから原稿の一枚がすり替えられた可能性に思い至る[iii]のだが、この辺の推理過程は、前もって描かれている犯人の行動をナイジェルが逐一言い当てていくので、ロイ・ヴィカーズの迷宮課事件簿のシリーズを連想させる。

 しかし、ブレイクらしい推理が味わえるのはこのくらいで、肝心の犯人を特定する推理のほうは、まったく心理的なものである。それはそれでよいのだが、ブレイクの旧作に似かよっているので、いささか失望する。というのも、犯人はかつて優れた詩集を発表しながら、その後、まったく書けなくなってしまった詩人である。書けなくなった理由が、マイルズ殺害の動機に繋がる過去のある出来事で、すなわち、『旅人の首』(1949年)[iv]と似ているのだ[v]。もちろん、まったく同じというわけではなく、『旅人』では、長年詩を書けずにいた天才詩人が、事件勃発とともに、また書けるようになった、というのが手がかりになる。細部は異なるが、発想が同一なのだ。自身が詩人であるブレイクらしい趣向とはいえるが、二番煎じのようで、これには少々がっかりする。ただ、ブレイクが繰り返し作中に詩人を登場させ、重要な役割を担わせているのは興味深い。自己省察なのか、(詩人である)自分を客観視できることを示そうとしているのか。それとも、そもそも詩人が嫌い(!)なのか。

 それはともかく、裏に色々な思惑を隠しながら、表面は愛想よく振る舞う登場人物たちを縦横に絡み合わせて描き出すブレイクの筆は本作でも冴えわたっている。今回、数十年ぶりに再読して、犯人やプロットをきれいさっぱり忘れていたので、ほとんど初読のように楽しんだ。そして、途中から犯人はプロザロウだろうと見当をつけたのだが、その通りであった。へへーん、どんなもんです(再読で自慢しても、見苦しいだけだが)。

 なぜプロザロウだと思ったかというと、こう推理した。

 犯人は、タイプライターで偽の原稿を作成している間、隣の部屋から覗かれないよう、小窓を鎹で開かなくした。しかし、隣の部屋はプロザロウ個人の部屋で、彼以外の人間が就業時間外に出入りする可能性は低いはずである。犯人はビルの出入り口の鍵を入手するなど、明らかに出版社の内部事情に詳しい。プロザロウの退社時間も事前に把握していたはずで、つまり、覗かれる危険性は低いのに、わざわざ貴重な時間を犠牲にして窓を固定したことになる。従って、これは偽装工作に過ぎないとみるべきである(隣の部屋に誰かが入ってきたら、作業を中断して殺害現場から逃走すればよい。いきなり小窓から隣の部屋を覗く奴はいないだろうから。都合の悪い自伝の一頁は持ち去ればすむ)。窓を開かなくするという作業は、プロザロウが犯人なら必要のないものである。つまり、本当に覗かれたくなくて窓を固定したとするなら、犯人はプロザロウでないことになる。しかし、逆にこれが偽装工作だとすれば、それで利益を得るのはプロザロウ本人のほかにはいない。従って、犯人はプロザロウである。

 ところが、解決を読むと、ナイジェルはそんな推理はしていない。何だよ、人がせっかくブレイクっぽい理屈を考えたのに。この推理を採用してくれよ・・・。

 などと今さら言っても仕方がないが、こういういかにもブレイクがやりそうな緻密な推理(自画自賛)が読みたかったなあ・・・。

 ちなみに、本書の前の長編は『くもの巣』(1956年)[vi]で筆者未読。でも、実話犯罪小説であることは知っている。さらにその前は『闇のささやき』(1954年)でスパイ・スリラー。本書の次の作品は『血塗られた報酬』でサスペンス・ミステリである。つまり、1950年代以降のニコラス・ブレイクは、パズル・ミステリから、もっと広くクライム・ノヴェル作家へと間口を広げたといってよいだろう。もっとも、1959年の『メリー・ウィドウの航海』は、トリッキーなパズル小説なので、パトリック・クエンティンのような、わかりやすい変身ではない。まことにニコラス・ブレイクというのは、一筋縄ではいかない作家である。

 

[i] 『章の終わり』(小笠原豊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)。

[ii] 同、111-14頁。

[iii] 同、130-32、137、157頁。

[iv] 『旅人の首』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年、2003年再版)。

[v] 『章の終わり』、290-91頁。

[vi] 『くもの巣』(加納秀夫訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)。