江戸川乱歩『妖虫』

(本書のほか、『蜘蛛男』の犯人について触れています。また、横溝正史の某短編小説についても同様ですので、ご注意ください。)

 

 昭和8年12月から翌年11月まで『キング』誌上で連載された『妖虫』(1933-34年)は、第二回目の(に、二回目!?)休筆期間を経て、江戸川乱歩が再び探偵小説文壇に戻ってきた記念すべき「第二作」である。

 では、復帰第一作は?そう、もちろん『悪霊』である。

 同長編は、『新青年昭和8年11月号から華々しい宣伝文句に飾られて連載開始し、しかし、わずか三か月で敢え無く玉砕した。

 そして『悪霊』といえば、そう!言わずとしれた、横溝正史による「乱歩罵倒事件」である。

 「二年間の休養を経て書きだした近頃の作品は、一体何というざまだ」、「一先ず仕事のしめくくりはついたから、あとはどんな仕事をしてもよかろうというのじゃお話にならない」、「[今書きかけている四つの長篇を、]全部あやまってもう一度休養に入るべきだ」、「それよりほかに救われる道はないと思う」[i]

 わざわざ全文を自著に再録した乱歩であったが、正史に気を使ってか(あるいは自らを慰めてか)「酔余の一筆」[ii]であったろう、と付け加えている。が、それにしてはテンポがよい。酔っぱらって書いたとは思えないリズミにのった名文で、タンカの切り具合など、さすが横溝正史である(?)。乱歩にしても、弟分の横溝からケチョンケチョンにいわれて、無論面白くなかっただろうが、しかし、それはそれとして、あまりに痛快な罵倒文なので、半ば感心して全文を再現したのではないか。反面、戦後になっても、結構ネチネチと根に持っていたらしい様子も文章からうかがえる[iii]中井英夫は、「江戸川乱歩全集」解説で、この弾劾文の一件を、乱歩と正史の友情を越えた絆の物語として、はなはだ感動的に描いているが[iv]、乱歩も正史も(そして中井も)既にいない今、一読者の無責任な感想を述べれば、まさに日本ミステリ史に歴然として輝く名場面のひとつであろう。

 「ところで、横溝君が『あとはどんな仕事をしてもよかろうというんじゃあ』と書いた他の三つの仕事」[v]と乱歩が続けて記している、そのなかに『妖虫』が含まれていることは言うまでもない[vi]。これら三長編は、確かに毎度おなじみの猟奇スリラーで、乱歩本人も「本格ものでは却って困るのだし、(中略)実をいうと全体としての一貫性なんかはどうでも」[vii]よかったと、よく読むと、とんでもないことを書いている。後年、大内茂男も、こうした自己評価を踏まえてか、「『魔術師』や『黄金仮面』にみられたような通俗チャンバラ小説に対する一種の情熱はもはや見られず、どうも惰性で毎月毎月をつないでいった」と断じたうえ、「終回近くなるまで、乱歩のほうでも誰を犯人にするか、はっきりした見通しをもっていなかったのかも知れないのだが」と、通俗スリラーのなかでもさらに下方評価している[viii]

 しかし、上記の自嘲自戒の言葉とは裏腹に、別の機会に本作について語っているのを読むと、「真犯人と動機はちょっと珍しい着想であった」[ix]と、結構自慢気なのである。大内の言うとおり「通俗チャンバラ小説」に対する「情熱」は失せていたかもしれないが、必ずしも「惰性」ばかりではなく、探偵小説の新しいアイディアを盛り込もうとしていたらしいのだ。

 そしてそれは、書き出しの部分を読むと推測がつく。

 冒頭、主人公の相川守と妹の珠子は、珠子の家庭教師である殿村京子とレストランで食事をしている。すると、離れた席の青眼鏡に口髭の怪しい男の口元を見ていた殿村が、メニューの裏に何やら書き留め始める。彼女はリップ・リーディングすなわち読唇術を会得しており、聞こえない会話でも唇の動きから読み取ることができるのだ。そして、青眼鏡の男が語ったのは、恐るべき殺人計画であった。翌夜、問題の谷中天王寺町の空き家に赴いた守青年は、やがて相川家を襲うことになる残虐極まりない事件の渦中へと足を踏み入れることになる。

 上記の展開で、すでに問題なのは、たまたま殿村が盗み読んだ会話が、相川家を狙う悪人たちの計画[x]だったなどという偶然があり得ようはずがない(なんで相川家を狙う怪人たちが、兄妹を前にのんきに歓談しているのだ)。仮に、殿村に会話を読み取らせることまでが計画のうちだとしても、彼女がそうするかは運任せである。殿村が読み取ったと称する話自体が嘘なのだが、青眼鏡の男がもともと無関係な赤の他人だったのかどうかは、わからない。犯人である殿村が説明しないからである。青眼鏡の男も一味だったのか、それとも、まったく無関係の部外者だったのかは、最後まで不明のままである。

 レストランの場面のどこまでが芝居なのかはともかく、乱歩の言う「意外な犯人」とは、この読唇術で犯罪計画を明らかにした人間が犯人だったという着想を指してのことと思われる。リップ・リーディングという言葉を使っているところを見ると[xi]、外国ミステリから借りたネタなのかもしれないが、ちょっと思い当たらない。

 しかし、このアイディア、残念ながら、上記のごとき信じがたい偶然を含んでいるので、殿村が断然怪しくて、しかも、このあと乱歩作品恒例の見え透いたマジック-例えば、回りの者が気付かぬすきに、サソリのおもちゃを放り出して、あれ、あそこにサソリが、とか大騒ぎするトリック-を連発するので、犯人であることが丸わかりになってしまう。もうちょっとアイディアを練って工夫すれば、かなり面白いトリックになったはずだが、そう思うのは、実際に同一の着想によるミステリがあるからである。よく知られているので、もったいぶることもないが、ほかならぬ横溝正史の「鏡の中の女」[xii]である[xiii]

 同作品は、ずっと後の昭和32年(1957年)に書かれたもので、時代の違いを考慮に入れずとも、『妖虫』より、はるかに巧妙に出来ている。上記の不自然な偶然も改良されており、評判もよいようだ[xiv]。しかし、『妖虫』と「鏡の中の女」、読唇術がテーマであるばかりか、犯人の設定も、まったく一緒なのである。金田一耕助とカフェで同席していた女性が、別席の男女の会話をリップ・リーディングで読む。その会話が暗示する殺人が起きるのだが、結局、読唇術の女性が犯人である。『悪霊』以下の諸作(そのなかには本書も含まれる)を、「何というざまだ」とこき下ろしたはずの正史なのに・・・。

 

乱歩:横溝君、あんだけ言っておいて、パクるとはひどいよ。

正史:いや、それは、そのう、乱歩さん。・・・「要注意(ようちゅうい)」ちゅうことで、堪忍しとくれやす。

乱歩:そのトリックは、ぼくが「使用中(しようちゅう)」ちゅうこっちゃな!

(関西言葉は、よくわからないので、何分、ご容赦願います。)

 

 まあ、正史としては、乱歩に敬意を表したつもりなのかもしれない。『妖虫』のこのアイディアに、実は感心していて、上手く扱えば面白くなると考えていたのではないか。

 上述の「あれ、あそこにサソリが」トリックにしても、いわゆる「早業殺人」のトリックとして有名なアイディアで、乱歩ごひいきのジョン・ディクスン・カーもある作品で用いているほどである(『妖虫』のほうが早い。注で作品名を挙げます)[xv]。つまり、トリックの使い方がまずいので(これもひどい言いようだが)、アイディア自体は優れているのである。

 さらに推測を連ねると、これらのアイディアは『悪霊』の構想のなかで生まれたものではなかったか。『新青年』に連載する小説なのだから、あれこれと幾つもトリックや手がかりを考えていたはずである。『妖虫』は、順番からいえば、『黒蜥蜴』や『人間豹』より早く、『悪霊』に次いで連載開始されている。従って、『悪霊』のために考案したトリックの幾つかを本書に投入した可能性は低くはないだろう。

 『黒蜥蜴』、『人間豹』との対比で、もうひとつ浮かんでくる疑問は、本書の探偵が明智小五郎ではないことである。

 三笠竜介という白髭をはやした丸眼鏡の老人で、「サルに洋服を着せたような」[xvi]と形容される、うさん臭さでは『蜘蛛男』の畔柳博士さえ上回る怪人物である(名探偵の紹介じゃないな、こりゃ)。しかも探偵のくせに、自分で作った落とし穴に落とされたり、調子に乗って犯人に見えを切っているところを後ろから刺されたり、どうもデクノボーのジジイ探偵としか思えない。なんで、わざわざ明智ではなく、こんな世界のミステリでも屈指の後期高齢者探偵(年齢は不詳です)をつくったのだろう。

 ひとつ考えられるのは、上記の推論とも重なるが、実は乱歩としては、本書をできるだけ本格探偵小説らしくしたかった。それで、すっかりアクション・ヒーローと化した明智ではなく、新規の探偵を創造したということである。

 いまひとつは、三笠竜介こそ真犯人であると読者に勘違いさせる狙いだったのではないか(『蜘蛛男』方式ですね)。犯人である殿村を隠すためのレッド・へリングということであるが、もしこの推測が正しければ、やはり本書は、案外本格的な謎解き小説として構想されていたのかもしれない。ところが、肝心の『悪霊』が早々に沈没してしまい、そのあおりを食って、本書も、すっかり、いつも通りの「通俗チャンバラ小説」へ堕してしまった。三笠探偵も、年甲斐もなく頑張るお爺ちゃん探偵に成り下がってしまったというわけである。

 乱歩自身が自画自賛している犯人の動機にしても、一見すると、『蜘蛛男』などと代り映えしない殺人淫楽症的無差別殺人だが、もっと切実な人間憎悪と母性とを組み合わせることで、従来の長編探偵ものになかった狂気と情念の犯罪を描きたかったのかもしれない[xvii]

 本書は、例のごとく、冒頭の個所で不用意に「かれ」という代名詞を使用する[xviii]など、粗さが目立つが、読み返すと、そこここに見逃せない創意工夫がある。ひとくちに猟奇スリラーといっても、それぞれの作品には、一作ごとに狙いやこだわりがある。乱歩の長い作家生活のなかで書かれた多くの長編小説を、ひとくくりに通俗ミステリとして片付けるべきではないということだろう。

 

[i] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、571-72頁。

[ii] 同、572頁。

[iii] 「しかし戦争後、横溝君の機嫌のいいとき、彼の方から初めてこの罵倒文について謝意の表明があり、私も水に流したのだから、今では、少しも含むところはないのだが、(中略)横溝君は多少不快かも知れないけれども、(中略)敢えてのせさせて貰うことにする。見出しは『江戸川乱歩へ・・・・・・横溝正史』というので、名前も呼び捨てである。」(同、571頁。)これは1954年の文章である(同、538頁)。「機嫌のいいとき」、「彼の方から初めて」、「水に流した」、「含むところはない」、「敢えて」、「名前も呼び捨て」といった言葉の端々に、いろいろと、ホントにいろいろと思いがにじみ出ているようである。当時、すでに横溝は戦後探偵小説界の巨匠であり、乱歩にしても、もはや弟分ではないという遠慮もあったのだろう。残酷なようだが、乱歩が日本探偵小説界のトップである時代はすでに過ぎ去っていた。戦後も、もちろん売れる作家であることに変わりはなかったが、新時代の探偵小説を牽引したのは、戦前、乱歩フォロワーのひとりに過ぎなかった横溝であった。

 ところで、「謝意の表明」とあるのは、いつのことなのだろうか。乱歩の「探偵小説行脚」(昭和22年)のときだろうか。『探偵小説四十年(下)』(光文社、2006年)、278-80頁、横溝正史「『二重面相』江戸川乱歩」(1965年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、118-21頁も参照。

[iv] 中井英夫銀と金」(1980年)『地下鉄の与太者たち』(白水社1984年)、109-111頁。

[v] 『探偵小説四十年(上)』、575頁。

[vi] 残りは、『黒蜥蜴』と『人間豹』。

[vii] 『探偵小説四十年(上)』、575頁。

[viii] 大内茂男「華麗なユートピア」(『幻影城増刊 江戸川乱歩の世界』、1975年7月)、226-27頁。

[ix] 江戸川乱歩「乱歩 自作自解 コラージュ」(新保博久・山前 譲編)『謎と魔法の物語』(『江戸川乱歩コレクション・Ⅵ』、河出書房新社、1995年)、351頁。

[x] 『妖虫』(春陽文庫、1972年)、30-31頁。実際は、有名女優の春川月子の殺害事件なのだが、その後に、守は青眼鏡の男から、珠子に対する殺意を聞かされる。同、31頁。

[xi] 同、8頁。

[xii] 横溝正史「鏡の中の女」『金田一耕助の冒険1』(角川文庫、1979年)、89-137頁。

[xiii] ウィキペディア:妖虫。

[xiv] 『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島1375』、宝島社、2007年)、91頁。

[xv] カーター・ディクスン『赤後家の殺人』(1935年)。

[xvi] 『妖虫』、46頁。

[xvii] 同、121頁の「殿村さんはそういって、なぜかニッコリ笑った」という個所などは、あとになって読みかえすと、なかなか凄いというか、気味が悪い。

[xviii] 同、2頁。これを見ると、大内が推測するように、犯人をだれにするか決めていなかったという風にも解釈できる。そんなことはなかったと思うが。