エラリイ・クイーン『シャム双子の謎』

(本書の犯人の設定や手がかりに触れています。他に、アガサ・クリスティヴァン・ダイン、クリスティアナ・ブランドの長編小説に言及しています。)

 

 エラリイ・クイーンの第七作『シャム双子の謎』(1933年)は、それまでの諸作に比して、随分風変りな作品である。全編、ダイイング・メッセージをめぐる謎が中心で、地味なこと、この上ない。その代わり、舞台装置は、これ以上ないくらい特異なものである。

 エラリイとクイーン警視の親子旅の途中、山火事に遭遇した二人は山頂の一軒家に難を逃れる。迎えるのは、世捨て人のような外科医とその妻、他にも、知り合いの医師や招待客の女性など、ひと癖ありげな人々のなかに、さらに謎めいた客が隠れているらしい。その正体は、シャム双生児の少年たちだったとわかるが、同時に殺害された主人の死体が発見され、クイーン親子は、警察の手を借りることなく事件の捜査に取り組まなければならなくなる。

 何しろ、四方八方から火が押し寄せて、死の恐怖に怯えながら、屋敷内では連続殺人事件が起こって、登場人物が互いに疑心暗鬼に陥る、という、まるでパニック映画のようなストーリーは、ベストセラー作家となったクイーンがさらなる商業的成功を狙って、極限状況のスリルを描くエンターテインメント小説に挑戦したかのようだ。

 ミステリとしては、明らかに中編ネタで、確かにトランプ・カードによるダイイング・メッセージの謎は、二転三転するクイーンらしいトウィストが効いているが、犯人を特定する推理には、いつもの堅牢さが足りないようだ。推理の巨城というには安普請で、「読者への挑戦」がないことでも知られる。後続の長編では、うっかり忘れたようなことを書いている[i]が、明らかにこの内容では、堂々と読者に挑戦する気になれなかったのだろう。

 物語としてはともかく、パズル・ミステリとしてはいまいち、というのが本書についての一般的な評価ではないか、と思うが、横溝正史が本書に言及した随筆があって、それをみると、えらく手厳しい。

 

  「私はちかごろふとした気まぐれから、エラリー・クイーンシャム双生児の秘 

 密』というのを読んでみた。これは題に国の名を入れたエラリー・クイーンの諸作の

 なかでは、いちばん冗(つま)らないものだが、それにしてもあまりにも冗らないの 

 に驚いた。これならばちかごろ読んだ日本の新しい作家、森村誠一君や斎藤栄君のも

 ののほうがよっぽど面白いと思わざるをえなかった。」[ii]

 

 森村誠一らについて語るため、その枕に『シャム双子』を持ち出したようだが、「あまりにも冗らないのに驚いた」とは、聞かされるこちらのほうが驚いた。クイーンを日本に紹介した功労者のひとりでもある横溝にして、叩きっぷりに躊躇がない。書きぶりからみると、トリックやパズルの面がつまらない、という意味のようだが、せっかくの手に汗握るプロットも、正史には通じなかったらしい。

 横溝の感想から思うことは、シャム双生児[iii]や山火事の脅威といった、いくらでもスリルとサスペンスを強調できそうなお膳立てを揃えながら、さほどそれが読み手を引きつけないとすれば、それはなぜか、ということである。クイーンの明晰で理知的な作風がこうした題材に向かなかったのか。あるいは、単純に筆力の問題なのか。『ギリシア棺の謎』のような大長編を、大きくテンポを崩すこともなく書き切るのだから、20代後半の作家としては充分な文章力を持っていると思うのだが。会話が面白くないのは確かなようで、紋切り型のセリフが多く、従って、人物描写も平凡。情景描写は適格と思うので、小説として難は少ないが、個性が薄いということだろうか。判然とはしないが、少なくとも本書の場合は、分量からいっても、これまでの諸長編に比べ、ヴォリューム不足の感は免れない。

 パズル・ミステリとしては、1932年に専業作家に転身して、いきなりクイーン名義で二冊、ロス名義で二冊、それもとてつもない傑作ばかり計四冊もものしたものの、それを二年続けるのはさすがに無理だった。1933年の四冊は、いずれも前年の四冊に及ばない出来で、かろうじて『Zの悲劇』にクイーンらしい緻密なパズルの組み立てが見られるのみ。他は、早くもクイーンがピークを過ぎた、と思わせるような作品ばかりだった。とはいえ、この年から、クイーンは短編小説も書き始めており、むしろ創作量はこれまで以上に増えている。合作とはいえ、あの質と量を維持しろというのは、さすがに気の毒でもある。しかし、翌年になると、いきなり長編が年一冊に減少するなど、この時期のクイーンはアップ・ダウンが激しい。本書は、やはり年四冊という課題に応えるために、長編小説を支えるには足りないプロットを、冒険小説的なシチュエイションを加えることで、何とか長編ミステリに仕立てた、ということなのだろう。

 前述のとおり、犯人を特定する推理は、かなりあっけない。クイーン父の指輪の盗難という手がかりが最後の最後に持ち出され、その謎の解釈には意外性があるが、決定的なデータは、ある人物の持ち物に指輪が見当たらない、という事実のみ。果たして、これで推理しろ、と言われてもなあ、というところ。長々と続くダイイング・メッセージの検討も、その結論が犯人を特定するのに、まるで役に立っていないのも肩透かしのようだ。

 ただし、ダイイング・メッセージの解釈が二転三転することによって、容疑者もくるくる変わるあたりは、本書の犯人の意外性と結びついており、そこは充分に練られている。山火事で孤立した邸宅という、完全なクローズド・サークルにおける犯人探しという状況設定が、この犯人の設定とうまく連動していて、逆に、この状況設定なら、この類型の犯人しかいない、という作劇上の必然性を感じさせる。(以下、犯人の設定に立ち入る。)本書の犯人の設定は、すでにいくつか前例のあるもの[iv]だが、本作ならではの特色は、二重の手がかりの偽装が行われるところにある。まず、犯人が他の人物に罪を着せようとカードの手がかりを現場に残すが、直後に死体を発見した別の人物が異なるカードにすり替えて、違う人間を犯人に見せかけようとする。ところが、罪を着せようとしたのが真犯人その人だった、というオチ(?)である。他人を陥れようとしたのが、ブーメランとなって自分に帰ってくるというプロットは、やや人工的に過ぎるようだが、この偶然が皮肉味というよりは、犯人の意外性に活かされている。しかも、告発された真犯人は動揺のあまり罪を認めてしまうのに、カードが偽装だと気づいたエラリイが、真犯人を無実だと断定する。これで、さらに犯人の意外性が際立つ構成になっている(このアイディアは、クリスティアナ・ブランドも後年の長編で巧妙に使用している)[v]

 この、「名探偵が無実を証明した人物が真犯人だった」、というアイディアが本書の最大のミステリ的技巧といってよいだろう。エラリイの失態は、飯城勇三が指摘しているように[vi]、『ギリシア棺の謎』を連想させ、同作の事件で懲りたはずなのに、性懲りもなく、といいたくなるが、作者としては、かなり思い切ったプロットだったかもしれない。親子そろって失敗を繰り返す姿は本書ならではで、人間臭いともいえる。超人的な名探偵というレッテルをそろそろ剝がし始めたということだろうか。ただし、注意すべきは、本作でのエラリイは推理に失敗しているわけではない。犯人が罠にかけられたのは事実で、エラリイはそれを正しく見抜いている。ただ、「罠にかけられた」→「無実だ」、という短絡的な結論に飛びついたことが間違いだったのだ。罠にかけられたからといって、無実とは限らない。もう一度、全員を容疑者として、フラットに推理をスタートさせるべきだったのに、そうしなかった。推理を間違ったのではなく、推理を怠ったことが間違いだったのだ。

 ともあれ、「疑わしい人物が犯人」という犯人類型に大胆な捻りを加えることで、従来にないパターンを作り出したところに、本作の新しさがある。犯人を特定する推理に、もっと説得力のある手がかりを用意できていれば、素晴らしい傑作になっていただろう。

 もっとも、細かい点を蒸し返すと、無実を証明する根拠が、例によって、左ききとか右利きとかのあれなので、果たして鉄壁と言えるのかどうか。エラリイが一人黙々とカードをちぎっては捨てている光景は、何だか面白いが、こんな予断のある実験に信憑性があるのか、本人も認めているが[vii]、疑いが残る。父親を使って試しただけで、皆を集めて前言撤回するのは、少々早すぎやしないか。

 もうひとつ、全体の印象をみると、意外なようだが、同年の『レーン最後の事件』と似かよった読後感をもたせる。『最後の事件』も、それまでの『X』、『Y』、『Z』に比べると、評判はよくなく、犯人を特定する推理は、やはりあっけない。犯人特定の推理よりも、犯人の意外性のみに焦点を絞った作品であり、とりわけ、最後の一行[viii]にすべてを賭けたような長編である。それは、ある意味本書も同様で、もっとも印象的なのは、ラストのクイーン警視の一言だろう。まるで短編小説のどんでん返しのような幕切れである。

 『レーン最後の事件』も『シャム双子の謎』も、ラスト一行[ix]にすべてがある、といってもよさそうだ。

 

[i] 『チャイナ・オレンジの秘密』(乾 信一郎訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、276頁。

[ii] 横溝正史「私の推理小説雑感」(1972年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、298-99頁。

[iii] 横溝にシャム双生児を扱った長編『悪霊島』(1979-80年)があることは、いうまでもないだろう。

[iv] アガサ・クリスティ『スタイルズの怪事件』(1920年)、ヴァン・ダイン『甲虫殺人事件』(1930年)など。

[v] クリスティアナ・ブランド『はなれわざ』(1955年)など。

[vi] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、45頁。

[vii]シャム双生児の秘密』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)、162頁。

[viii] 実際は、二行です。

[ix] くどいようですが、前者の場合は、ラスト二行です。