エラリイ・クイーン『チャイナ橙の謎』

(本書のトリックやアイディアに触れているほか、『帝王死す』の犯人、G・K・チェスタトンの短編小説のトリックについて、言及しています。)

 

 『チャイナ橙の謎』(1934年)は、作者(といってもフレデリック・ダネイのほうだが)が自作ベストに挙げた作品として知られている[i]

 また来日時にダネイが語ったエピソードとして、本書を書くきっかけとなった夫人との会話も有名である。

 

  「彼女(夫人)は、私の机の上の灰皿が吸い殻でいっぱいになっているのを見て、 

 こんなにたくさん溜める前にどうして捨ててしまわなかったのか、私に問いただした

 のです。それで私はちょっと冗談めかして、それならこの灰皿の吸い殻をどこへ捨て

 たらいいのだ、天井裏にでも、屋根の上にでも捨てたらいいのかと言ったんです。そ

 のことは笑い話で終わったんですが、私はここで考えたんです。あり得ないような、

 異様な状況の小説を書いたら面白いのではないか、とね。」[ii]

 

 大して面白い冗談でもないが、これもアメリカン・ジョークというやつなのか。よほどこの一口話が気に入っていたようだが、アイディア自体もお気に入りだったらしい。殺人現場のすべての家具や調度品、なかんずく死体の衣服までが、すべてあべこべになっている、という冒頭の謎は、確かにヴァン・ダイン風のリアリズムより、チェスタトン風の幻想的ミステリに相応しい。

 1932年の『エジプト十字架の謎』あたりを契機として、クイーンのミステリは一作ごとに趣向を変えて、読者サーヴィスを意識するようになった感がある。初期のようなパズル・ミステリ道を究めようとするような禁欲的な雰囲気は薄れ、例えば、『アメリカ銃の謎』で、スタジアムに詰めかけた数万人の観客が容疑者となる長編を書いたかと思えば、次の『シャム双子の謎』では、山火事に襲われた山中の屋敷で極端に限定された容疑者のなかから犯人を捜す作品を構想する、といった具合に。

 『チャイナ橙』では、ダネイの回想のように、それが別の方向にエスカレートして、非現実的で奇抜な殺人事件をテーマとしている。室内のすべてのものがさかさまになっているだけではなく、死体にはズボンから上着の背中まで二本の槍が差し通されており、まるで邪教の儀式のようなグロテスクな殺人現場である。

 しかし、クイーンの散文的な文章と類型的な人物描写のせいか、読んでいて、あまり幻想的な雰囲気は伝わってこない。プロットのほうも、冒頭の殺人場面が終わると、あとはスキャンダルとかゆすりとかの即物的なエピソードに終始して、登場人物もそろいもそろって俗物ばかりなので、せっかくの不可思議な殺人の謎が、作品全体のイメージに繋がっていかない。チェスタトン風のミステリを書くには、この時期のクイーンの文章もプロットづくりも平板すぎるようだ。

 また、本書は、それまでのクイーンには珍しい密室ミステリとして知られてきた。本書のほかには、『ニッポン樫鳥の謎』、『帝王死す』などが不可能犯罪ものだが、そのなかではもっとも高評価でもあった。1981年にエドワード・ホックが編纂した密室短編小説のアンソロジーは、併せて行われた密室ミステリ長編のアンケート結果を紹介しているが、本書は、堂々8位にランクしている[iii]。しかし、これもまたよく知られているとおり、本書は、実は密室ミステリではない[iv]。そうではないのだが、使っているトリックが密室ミステリのそれなのである[v]。言葉を変えて言えば、殺人現場は密室ではないが、犯人のほうが密室に閉じ込められている[vi]「逆」密室ミステリなのだ(「逆密室」、なんだかカッコいいな)。殺人現場のみならず、いろんなところが、あべこべになっている、というのが本書のミソなわけである。

 その「あべこべの謎」のほうだが、たったひとつのあべこべのものを隠すために、すべてをあべこべにする、というアイディアは確かに面白い。これもまた、チェスタトンの「折れた剣」[vii]の応用であるが。ただ、あべこべのものというのが聖職者のカラーで、ネクタイを締めていないことを隠すため、というのは、日本人にはピンとこないだろう。また、ネクタイがなければ、どこからか取ってくればよいのだが、それができない、というのが犯人を特定する手がかりになっている。

 すなわち、犯人は、隣の控室に待たせていた被害者を殺害した後、初めて神父であることに気づく(マフラーをしていたので、それまでわからなかった)。しかし犯人が在室していなければならない事務室は、通路に出るドアの外に受付けの女性がいて、気づかれずに部屋を離れることはできない。もっとも、現場となる隣室にも、事務室に通じるドアとは別のドアがあり、異なる通路に出ることができる。しかし、長時間部屋を空けること、また室外で誰かに目撃されることを恐れた犯人は、部屋の家具や被害者の衣服をあべこべにして、ネクタイの不在をごまかし、さらに事務室との境のドアを控室から施錠したように見せかけることで、自分が事務室内に閉じ込められたように装う。

 随分回りくどい思考回路の持ち主だが、現場の状況を観察したエラリイは、犯人は、すべてをあべこべにすることでネクタイの不在を隠蔽しようとした人物、すなわち、ネクタイを調達することができなかったただ一人の人物、つまり、殺人のあった部屋の側から施錠されて、その結果、事務室に閉じ込められた格好になっていた人物だ、と推理する。犯人に負けず劣らず回りくどい推理だが、しかし、事務室に閉じ込められていたなら、そもそも犯行不可能なはずだ、と最初に考えるはずで、それでも犯人であると証明するには、事務室側から控室側のかんぬきをかけるトリックが可能であることを立証しなければならない。だが、もしそれが可能であるなら、控室のもうひとつのドアから出て、受付けの女性に気づかれずにネクタイを調達することができたことになる。再び部屋に戻ってから、施錠のトリックを使えば、事務室から一歩も出ていないように見せかけられる。

 無論、エラリイの推理では、もし控室を通って外に出て、そこで誰かに目撃されれば、こっそり部屋を抜け出したことがばれて、決定的な疑いをかけられてしまう。従って、控室のドアから外に出ることができても、出るわけにはいかない、というのだろうが、素直に頷けないのは、殺害現場のものをすべてあべこべにするなどという手間をかけるのは、こっそり部屋を抜け出てネクタイを調達しに行くのと同じくらい危険ではないか、と思えるからである。

 殺人の謎もトリックも非現実的なので、常識的推理をしても意味がない気はするが、時間をかけて部屋のものをすべてあべこべにするより、ドアを施錠するトリックだけにとどめて、あとはとぼけているほうが安全だったのではないのか。つまり、なんで、そこまでして、被害者が聖職者であることを隠さなければならないのか、という疑問が払拭できないのだ。実際に被害者のトランクが発見されたように、身元を完全に秘匿し続けるのは不可能だろう。反対側からドアに施錠する方法も大掛かりなばかりか、奇抜過ぎて、従来の密室ミステリで使われていない新手をわざわざ考案したようにしかみえない。あんたは、密室マニアなのか。

 エラリイの推理を形成するもうひとつの手がかりは、施錠のトリックそのものである。結局、エラリイが犯人を疑ったのも、死体に異様な細工が施され、書棚が奇妙な角度に移動させられていたからで、その目的はドアに施錠することである、ドアに施錠することによって殺人の疑いを逃れられるのは事務室に籠っていた犯人だけである、と、エラリイは断定する。だが、死体や家具の奇妙な状態から、ドアに施錠することが目的である、と直ちに結論できるのは、相当頭が飛躍している人間に限られる。もちろん、エラリイ・クイーンは頭が飛躍しっぱなしの名探偵だが。

 被害者の背中に刺し通されていた槍が意味するのは、なんらかのトリックが使われたということだ。そのトリックとは、ドアに施錠するトリックだ。そのトリックによって利益を得るのは犯人だけだ、という論法は、果たして論理的なのか、それとも超論理なのか。密室に限らず、トリックをメインとしたミステリでは、名探偵が断片的な手掛かりから、トリック全体を丸ごと再構成して、それが可能な犯人をいきなり推断するが、本書の場合もそれらの不可能犯罪ミステリとさして変わらないような気がする。つまり、エラリイ・クイーンならではの論理的推理には見えない。トリックを解明することで犯人を論理的に指摘する、という手法は、案外と難しいようだ。

 上記のあべこべの謎と施錠のトリックに関する複雑な推理を、もっと単純化する手っ取り早い方法がある。犯罪現場の部屋には、犯人が待機している事務室との間のドアしかない、という設定にすればよい。つまり、控室から廊下に出るドアをなくす。そうすれば、「犯人は殺害後、被害者が聖職者であると知る」→「しかし、受付けの女性がいるので、ネクタイを調達にいけない」[viii]→「部屋中のものをあべこべにして、ネクタイの不在をごまかす」→「自分が疑われないように、控室側から施錠したようなトリックを施す」→「結果、唯一のドアが内側から施錠された密室内で、被害者が発見される」、という具合に、犯人特定の推理も、密室さえも完璧になる。もっとも、この状況設定にすると、真犯人以外、疑わしい人間はいなくなってしまう。いくら完全な密室だといっても、逆に完全すぎて、トリックが可能なのは、隣室にいた真犯人しか考えられないからである。それで、作者も密室にするのは断念したのだろう[ix]。トリックよりも、犯人の意外性を重視したというべきか。しかし、その結果、犯人特定の推理も、トリックも、どちらも、はなはだわかりづらいものになってしまったのは皮肉である。

 いずれにしても、犯人は、目撃されるのを恐れてネクタイ調達のために部屋を出ることができなかった、それぐらい慎重だった、と推理しておきながら、誰かが突然入ってくる危険もかえりみず[x]、ドタバタと部屋中の家具を動かしまくったりする奇天烈なパズル・ミステリなので、くどいようだが、常識的論理を振りかざしても始まらない。

 1950年代以降に顕著となる、エラリイ・クイーンのヘンテコ・ミステリの原点というべき作品だろうか。

 

[i] 『九尾の猫』(越前俊哉訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2015年)、飯城勇三による解説、496頁。

[ii] 『EQ』(1978年1号、光文社)、「対談:エラリー・クイーンVS松本清張」、23頁。

[iii] エドワード・D・ホック編『密室大集合』(井上一夫他訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1984年)、「まえがき」、7頁。投票には、ダネイも加わっている。彼がどの作品を挙げたのか、興味あるところだ。

[iv] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、94頁。

[v] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、62頁。

[vi] 同。

[vii] チェスタトン『ブラウン神父の童心』(1911年)所収。

[viii] 控室側から施錠されているのだから、堂々と受付けの女性の前を通って、ネクタイを手に入れに行けばよい、とも言えるが、通路側のドアがないとすると、容疑者が極端に限定されることになるので、目的の知れない不審な行動は取りづらいだろう。

[ix] 1952年の『帝王死す』では、開き直って、密室を優先させたように見える。同作の場合も、密室が完璧すぎて、犯人は被害者と密室内にいた人間以外にはあり得ず、実際にその人物が犯人(実行犯)である。

[x] 実際に、殺人直後に、何人もの関係者が事務室にやってくる。家具を動かしている最中に、誰も入ってこなかったのが不思議なくらいだ。『チャイナ・オレンジの秘密』(乾 信一郎訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、32-38頁。