エラリイ・クイーン『アメリカ銃の謎』

(本書および『エジプト十字架の謎』、ディクスン・カーの「死んでいた男」、「二つの死」の内容に触れています。)

 

 『アメリカ銃の謎』はエラリイ・クイーン最大の問題作である。

 こう言うと、いや『盤面の敵』か『第八の日』だろう、といった声が聞こえてきそうだ。しかし、『アメリカ銃』に比べれば、あんなものは問題作でも何でもない。これから説明しよう。

 『アメリカ銃の謎』はエラリイ・クイーンの「国名シリーズ」第六作で1933年に発表された。最初の三作[i]に見られた「公共の場で不特定多数の容疑者のなかから犯人を探し出すミステリ」に回帰した作品で、二万人の観衆で埋め尽くされたロデオ会場が舞台となっている。カウボーイの集団の先頭を走っていた元映画スターが、銃の一斉射撃(空砲)が鳴り響いた直後、馬から転落して死亡する。遺体には実弾による銃撃のあとが残っていた。

 何しろ、二万人の観客がスタジアムに足止めされ捜査対象となる、というスケールの大きさで、凶器となった銃が発見されない、という不可能犯罪ミステリの特色も併せ持つ。国名シリーズのなかでも、もっとも華やかでセンセーショナルな作品といえるだろう。しかし、『オランダ靴の謎』や1932年の二作(『ギリシア棺の謎』、『エジプト十字架の謎』)に比して、その評価は高くない。犯人を特定する推理が、これらの諸作ほど鮮やかでない、という理由からだと思えるが、しかし、この点は、別に問題ではない。

 本書を考察するには、前作の『エジプト十字架の謎』との関連性を考えていかなければならない。明らかに、『エジプト十字架』が本作を執筆するきっかけとなった、とみられるからである。

 『エジプト十字架』も『アメリカ銃』も、ミステリとしての基本アイディアは同一で、「被害者が犯人」という、意外な犯人の類型に属する。ただし、『エジプト』は「顔のない死体」がテーマだが、本書はそうではない。『エジプト』では、複数の首の切られた死体が発見され、衣類から死体の身元が推定されるが、そのうち数件で被害者と犯人が入れ替わっていた、というトリックが用いられている。言うまでもなく、「顔のない死体」テーマは、ミステリの定石のひとつで、このトリックを扱っている作品は数多い。クイーンも前年の『エジプト十字架』とロス名義の『Xの悲劇』で挑戦して、見事な成果を残した。本書は、異なった視点から、このトリックに再度挑戦した作品と捉えることができる。

 しかし、繰り返すが、本書では、死体の顔は傷つけられてはいない。元映画スターのバック・ホーンは、上記のように銃で撃たれて落馬するが、後続の馬に踏みつけられることなく、顔は無傷で、身元は友人や養女によって確認される。もちろん、顔が損傷したとしても、その前に、彼の顔は何万という観衆によって認識されている。被害者が誰か、に関しては疑いようがない。・・・はずだったが、最後にエラリイの前に現れた真犯人はバック・ホーンであった・・・。

 え、でも「顔のない死体」でもないのに、死んだのはバック・ホーンじゃないの、双子だったとか書いてないし、なんで、とキツネにつままれたような読者を尻目に、エラリイは、俺は最初から被害者のすり替えは知っていた、と豪語する(「俺」、とか言わないか)。

 チッ、チッ、チッ、と指を振る、得意気なエラリイの顔が眼に浮かぶ。君達、バック・ホーンが映画スターだったことを忘れてるね。アクション・スターにつきものなのは、そう、吹き替えだよ。

 いや、いや、いや、そんなのあり? 吹き替え、って、顔が似ている必要ないでしょう。ましてや、そっくりとか。

 ところが、そんなことで怯むエラリイではない。「しかし、替え玉がスターのやる演技ができるばかりでなく、顔がスターと驚くほど似ている例もある・・・」[ii]

 「も」、って、ちょっと! いいかげんにしろよ、オラア。

 元映画スターだから、顔がそっくりな吹き替えがいてもおかしくない、という理屈。これを反則と言わずして、何が反則なのか。『アメリカ銃』に比べたら、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』など、可愛いものである。アンフェアでも何でもない。ジョン・ディクスン・カーの短編小説に「二つの死」という作品があって、そのなかに「どんな人間にしろ、姿かたちがそっくりそのままという相手を、ひとりは必ず持っているものである」[iii]、という文章が出てくる。実際、顔がそっくりの他人が主人公にすり替わる、という内容なのだが、『アメリカ銃』を皮肉っているのか?[iv]この安易な設定に、解説の中島河太郎は、「甘すぎると思う」[v]、と𠮟正しているが、ごもっともです。クイーンにも言ってやってくださいよ、河太郎先生[vi]

 しかし、問題作というのは、このことではない。

 

 このいろんな意味で驚天動地のトリックは、同時に「顔のない死体」トリックを解体し、葬り去るものだった。もはや、被害者・犯人入れ替わりのトリックに、顔を傷つけたり、首を切り取る必要はなくなった。そんな苦労をしなくとも、「どんな人間にしろ、姿かたちがそっくりそのままという相手を、ひとりは必ず持っている」のだから(あっ、これはカーのセリフだった)。殺人事件の被害者が顔かたちから身元確認ができたとしても、ミステリ読者は油断してはならない。顔がうり二つの人間など、その辺にうろうろいるのだ(さすがに、言い過ぎか)。

 しかし、この点も、パズル・ミステリとしての問題というに過ぎない。

 

 本作のエラリイは、相変わらず次々に意外極まる推理を展開する。

 まず、初期三作でも見せた、「関係者以外お断り」、と言わんばかりの推理で、不特定多数の容疑者を一振りで盤上から払い落とす。被害者の体内に入った銃弾の角度から、犯人が観客席ではなく、カウボーイたちが疾走するトラックにいたこと、言い換えれば、カウボーイのなかに交じっていたことを明らかにする。あっという間に、容疑者が十数人に減ると、あとはそのなかの誰が犯人なのか、に絞られるが、被害者のすり替えに気づいたエラリイは、もし被害者のバック・ホーンが生きているとすれば、彼が犯人かもしれない、と当然のごとく推定する。しかし、この仮説はいつのまにか、そうに違いない、という確信に変わる。変わるのはよいが、直接に犯人を特定する推理によるのではなく、(生きているなら)バック・ホーンにも殺人が可能だった、という、状況証拠ならぬ、状況推理の積み重ねで、犯人の確率を上げていこうとする。しかし、このやり方では、100パーセントに近づけても、100パーセントにはならない。『エジプト十字架』と比較して、今一つ明快さに欠ける、と思わせてしまう要因だろう。

 だが、もっとも重要なのは、犯人を特定するための推理ではない。死体が腰に巻いていたベルトについていた古い留めあとと、被害者が握っていた銃に残された、長年の使用ですり減ったあと、これらから導かれる推理である。これら二つの推理によって、エラリイは死体がバック・ホーンではないことを知る。エラリイ自身も、「その結論は信じがたいものに思われた」[vii]、と述懐するが、それでも自身の推理を疑うことはない。エラリイ・クイーンのミステリにおいて、論理は絶対である。

 すなわち、顔が一致するなどといった些末な事実を、論理が凌駕するのが、エラリイ・クイーンのミステリである。そう、顔かたちは、もはや人間のアイデンティティを決定するものではない。ドッペルゲンガーも、ウィリアム・ウィルソンも、おととい来い。腹が出てりゃ別人なのだ。エラリイ・クイーンが切り開いたミステリの地平では、顔かたちで人間は識別できない[viii]。ウエスト・サイズが、いや、論理がアイデンティティを決定する世界。誰かが誰かである、とはどういうことか。ロミオは、なぜロミオなのか。人の本質とは、を根本から問い直す世界文学史上の革新、これこそが『アメリカ銃』の問題作たる所以なのだ。

 本書を未読のミステリ読者は、心して読むように(内容、しゃべっちゃったけど)。

 

[i] 『ローマ帽子の謎』(1929年)、『フランス白粉の謎』(1930年)、『オランダ靴の謎』(1931年)。

[ii]アメリカ銃の謎』(大庭忠男訳、早川ミステリ文庫、1989年)、379頁。

[iii] ディクスン・カー「二つの死」『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1970年)、247頁。

[iv] 「二つの死」は1939年作。原型となった「死んでいた男」は、1935年。『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(宇野利奏・永井 淳訳、創元推理文庫、1983年)、72-89頁。さらに原型作品があるという。同、71頁。

[v] 『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』、334頁。

[vi] 中島河太郎は、創元推理文庫の旧訳『アメリカ銃の謎』の解説を書いているが、トリックや推理には触れていない。『Yの悲劇』絶対主義者の中島は、国名シリーズには興味なかったのだろうか。『アメリカ銃の謎』(井上 勇訳、創元推理文庫、1961年)、407-10頁。

[vii]アメリカ銃の謎』(早川ミステリ文庫)、373頁。

[viii] これほどの、ミステリでは未曽有の哲学を持ち込みながら、後年の長編では、恥ずかしげもなく、双子(三つ子)のトリックで意外性を出そうとしているのは、どうしたことか。『アメリカ銃』の奇天烈さ、いや、問題意識をなくしてしまったのか。