(本書のトリック等のほか、G・K・チェスタトンの短編小説、E・クイーンの長編小説、横溝正史の長編小説の内容を明かしています。)
1966年、ディクスン・カーは前年に引き続いてフェル博士を主役とした長編ミステリを発表した。『仮面劇場の殺人』[i]は、カーには珍しい劇場ミステリである。これまでも、女優が主要登場人物だったり(『ホワイト・プライオリの殺人』、『雷鳴の中でも』)、劇場が出てくる小説もないわけではない(『青ひげの花嫁』)。しかし、本格的に劇場を舞台とした長編ミステリは初めてだ。
同時に、フェル博士シリーズが二年続くのも、実に19年ぶりのこと(『囁く影』(1946年)、『眠れるスフィンクス』(1947年))で、1950年代以降は、現代ミステリの翌年は歴史ミステリというのがローテーションになっていた。しかも、このあと、翌1967年にも、フェル博士ものの『月明かりの闇』が刊行されて、三年連続となる。何も、大騒ぎするほどのことでもないが、この心境の変化は何によるものか。
文庫版の解説[ii]で、三橋 暁は、1963年のエドガー賞巨匠(グランドマスター)賞受賞がきっかけとなったのではないか、と推理しているが、そして、そうかもしれないが、何だか、フェル博士(およびヘンリ・メリヴェル卿)ものの長編のほうこそ、カーが本来書くべき作品であるかのような言い方で、歴史ミステリに逃げるべきではなかった、と暗に言っているようにも聞こえる。
単純に、久しぶりにフェル博士登場作を書いたら、興が乗って続けて書く気になったのだろうか。あるいは、劇場のボックス席[iii]を利用した殺人トリックを思いついたが、歴史ミステリで劇場を扱うのは、資料集めが大変だと思ったのだろうか。むしろ、エドガー賞受賞の影響をいうなら、出版社がこの機を逃さずに売行きを伸ばそうと、カーにフェル博士登場の現代ミステリを書くよう勧めた、という可能性のほうがありそうだ。少々、興ざめな憶測ではあるが。
大騒ぎするほどのことでもない、と言いながら、話が長くなったが、いずれにせよ、『悪魔のひじの家』でも書いたように、フェル博士ものも、歴史ミステリも、回顧的なミステリという意味では共通している。冒頭、イリュリア号という船に乗り合わせた一行の間で、銃の発砲騒ぎが起こるトラヴェル・ミステリで始まり、すぐに舞台がアメリカに移ると、カーが一時暮らしていたママロネック近郊のリッチヴィルという架空の地方都市で事件が展開する。主人公格のフィリップ・ノックスのように、実際に講演旅行に出かけていたという[iv]カーにしてみれば、イメージが湧きやすい、書くのが楽しい作品だったのだろう。
エラリイ・クイーンの処女作が劇場ミステリ[v]だったので、つい比較したくなるが、クイーンの小説が、劇場を舞台にしている割に、警察の捜査ばかりで、俳優や関係者間の人間模様がほとんどまったく描かれていないのに対し、さすがに、30年以上書き続けてきたカーの本作は、主演男優のバリー・プランケットを中心とした登場人物の会話や行動が事細かに描写されている。といっても、例によって例のとおりのカー流儀なので、登場人物の個性は表面的なものにとどまっているし、彼らの間の心理的な軋轢が生むサスペンスなどは薬にしたくともない(曖昧な会話の応酬による腹の探り合いは、いつも通りだが)。
事件のほうは、仮面劇場に資金提供をしている、往年の大女優マージョリー・ヴェインが開演前日のリハーサル中、一人で観劇していた二階ボックス席で、劇で使用される石弓の矢で刺し殺されていた、というもの。ボックス席は内部から被害者が施錠していたが、もちろん舞台に向かって開かれているので、密室ではない。しかし、石弓を発射できる場所や方角は限定されるので、自ずと容疑者は限られてくる。が、実は・・・、というトリックで、短編の旧作「銀色のカーテン」[vi]の焼き直しである。前作の『悪魔のひじの家』といい、この時期のカーは、自作を読み直して、使えそうなトリックを渉猟していたのだろうか。さすがのカーも、新しいアイディアを考案することは難しく、しんどくなっていたようだ。とはいえ、それなりによく考えられており、途中で、出演中の俳優が舞台から石弓を発射したのでは、という仮説が持ち出されたりして、G・K・チェスタトンのブラウン神父ものの短編[vii]や上記のクイーン作を連想させる[viii]。上演中の舞台から犯人が観客を射殺する仰天トリック(横溝正史にも、そんなトンでもトリックを使った長編がありました[ix])と思わせて裏をかく、カーらしいひねくれた技を見せてくれる。
本作の犯人は、二階堂黎人が「フーダニットとしてはよくできている」[x]、と評価するように、ある意味定型的だが、読者にあれこれ考えさせて的を絞らせないプロットは健在だ。あれこれ考えさせるというのは、例えば、マージョリーには、取り巻きのローレンス・ポーターという胡散臭い青年がいて、カー作品では、十中八九、こういうやつが犯人なのだ(無茶な発言ですな)。しかし、さすがにカーも自覚しているのか、作品半ばで、こんなメタ・ミステリ風モノローグをノックスにさせている。
犯人は誰なのか。
ノックスは待つのに焦れながらも考えた。
これが探偵小説なら、犯人はラリー(ローレンス)・ポーターと相場が決まってい
る。(後略)[xi]
私は、この文章を読んだとたん、犯人はポーターだ、と確信した。「ポーターが犯人なんてありえないよね」、と言っておきながら、最後にまたあれこれたちの悪い言い訳をして、こっそり舌を出す、カー一流の汚いテクニックに違いない、と思い込んでしまったのだ。どうせまた、最後に、「あれは、あくまでノックスの独白に過ぎなかったのだ。これは読者を惑わす正当なテクニックである」、とか何とかいうに決まっている、と。・・・どうやら、筆者も、カーを読み過ぎたらしい。
ただ、犯人が工作したアリバイは、証人を脅して偽証させるという荒っぽさで、感心できない。最初の船上での発砲騒ぎで、犯人の見当が付いていながら、それを被害者のマージョリーにも、他の誰にも言わないのも、いささか不可解だ。本気で殺すつもりはなかったと推測したにしても、普通言うだろう。この発砲事件の犯人の動機も不明瞭で、何だかよくわからない。作者もわからないのかもしれないが。
もうひとつ、これも相変わらずで、いちいち取り上げるのも気がさすが、ノックスと二十年間音信不通だった妻のジュディとのやり取りも、まったく理解の程度を越えている。ノックスがジュディに未練たらたらであることはわかるが、ジュディのノックスに対する態度は、かんしゃくを通り越して、もはや狂乱状態。離婚寸前というより、家庭裁判所での、ののしり合いみたいなのだが、結局、最後には、お互いに対する愛情を確認してキスをする。これが夫婦というものなのですか、カー先生。
もっと気楽な話題としては、作中に「現在活躍中の007」[xii]という発言が出てくる。今となっては時代を感じさせるが、1960年代はスパイ小説花盛りで、まこと、ディクスン・カーなどはおよびでなかった。そのあとのページで、今度は「イギリスでも1215年のマグナ・カルタで、石弓を使う外国人の傭兵を雇うことを禁じている」[xiii]などと、いかにもカーらしい歴史豆知識が出てくる。ジェイムズ・ボンドや『寒い国から帰ってきたスパイ』[xiv]の時代に、駄目だ、こりゃ、と思うが、雀百まで、というところでしょうか。
[i] 『仮面劇場の殺人』(田口俊樹訳、原書房、1997年)。
[ii] 『仮面劇場の殺人』(田口俊樹訳、創元推理文庫、2003年)、460頁。
[iii] 原題のPanic in Box C は、最初見たとき、意味がわからなくて、『五つの箱の死(Death in Five Boxes)』みたいな話かな、と思ったが、我ながら間抜けな話ですね。
[iv] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、453-54頁。
[v] 『ローマ帽子の謎』(1929年)。
[vi] 『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1970年)、129-58頁。
[vii] G・K・チェスタトン「俳優とアリバイ」『ブラウン神父の秘密』(1927年)所収。
[viii] 『ローマ帽子の謎』では、舞台に出演中の俳優が犯人。前注のチェスタトンの短編も同じアイディア。
[ix] 本当はトリックではないのだが、『死神の矢』(1958年)。(犯人の行動に突拍子がなさ過ぎて、笑えます。)
[x] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、390頁。
[xii] 同、54頁。
[xiii] 同、94頁。該当するのは、マグナ・カルタの第51条のようだ。正確には、国王(ジョン)と反国王派諸侯との抗争に際し、王が雇い入れた外国人の傭兵や弩兵をイングランド王国から退去させることを約束したものである。G・R・C・デーヴィス『マグナ・カルタ』(城戸 毅訳、ほるぷ教育開発研究所、1990年)、32頁、W・S・マッケクニ『マグナ・カルタ-イギリス封建制度の法と歴史-』(禿氏好文訳、ミネルヴァ書房、1993年)、478頁。