ニコラス・ブレイク『ビール工場殺人事件』

(本書の犯人、トリック等のほか、注で横溝正史の短編小説のアイディアを明かしています。)

 

 ニコラス・ブレイクの第三作は、第一作の学園ミステリ、第二作の田園ミステリから一転して、ビール醸造工場内の殺人事件を扱っている[i]。おや、ブレイクが企業ミステリを書いたのか、と思わせるが、基本的には、本書もイングランドの田舎町を舞台にしており、都会企業における殺人を描くミステリでない。それにしても、「トラブルが醸成する」というしゃれたタイトルに表われているように、ビール工場内の圧力釜の中から、骨ばかりになった男の死体が発見されるという珍しい殺人現場シーンは、前二作までの、むしろ平凡な殺人手段に比べると、ブレイクらしからぬセンセーショナルなもので、わざわざ取材したのだろうか。それとも、ビール工場で働く知り合いでもいたのか。いずれにしても、前作前々作には見られなかったショッキングな死体発見場面である。

 しかし、作品のテーマはミステリとしてはオーソドックスで、何と「顔のない死体」である。顔どころか、皮膚も内臓も溶解して、かろうじて溶け残って回収された義歯から、身元が確認される。もちろん、そこにトリックがあるのだが、当然読者は、殺されたのは別人だろうと予想するはずだ。先に真相を明かせば、結局、予想通りで、殺されたと思われた工場主のユースタス・バネットが犯人、被害者は弟のジョー・バネットとわかる。定石通りで、従って、「顔のない死体」テーマを、どうひねっているのかが焦点となるわけである。

 作中でも最初から、死体はユースタスではないのではないか、という疑問が呈されて、作者も「顔のない死体」トリックを熟知したうえで、このテーマに挑んでいるのがわかる。従って、死体は別人でユースタスこそ犯人である可能性が提示されると、それを打ち消す論拠が直ちに持ち出される。そこがプロット上の工夫で、物理的証拠から否定されるのではなく、地域の名士であるユースタスには、死を偽装してまで自らを死んだものとする動機が見当たらないという理由[ii]で否定される。こうした理屈は心理的推理法を特徴とするブレイクらしい。

 それでもなお、最終的にユースタスが犯人であるという結末を納得させるためのアイディアが本作の見所となるわけで、それが加害者と被害者の逆転である。つまり、当初ジョー・バネットが兄ユースタスを殺害しようと計画し、しかし土壇場で、反撃したユースタスが逆にジョーを殺してしまい、被害者が立てた計画をそのまま引き継いで、自らを死んだものと見せかけようとした、という解決法である。

 前作の『死の殻』でも、「他殺と見せかけた自殺」トリックに「殺人を目的とした自殺」というアレンジを加えることで、既存のテーマに独自性を持たせようとしていたが、既存のアイディアやトリックをちょっと捻るというのが、初期のブレイクのミステリ作法であったらしい。

 それにしても、前作といい、本書といい、従来からあるテーマとはいえ、かなり大がかりで、ある意味不自然なトリックが用いられており、現実味のある人物描写に長けた不自然さの少ないミステリの書き手というブレイクの定評からは、かなり遠い印象である。どうやら、意外にトリッキーなミステリが好きだったらしい。

 ただし、これもブレイクらしいともいえるのだが、犯人のユースタスが、殺人を犯したとはいえ、なぜ、自分が殺されたように見せかけて、姿を消さなければならないのか。一応、説明は加えているが、十分に納得できるとは言い難い。正当防衛を主張すれば済むではないか、という常識論を打ち消すまでには至っていないのだ。その辺の動機の合理化が完璧とは言い難いのは、この後のブレイク作品にも見られる[iii]ところで、むしろ、そこにこそブレイクの長所があるはずなので、不満が残る。

 それと、これも前作同様に、本作でも、ストレンジウェイズは、しきりに推論を組み立てては壊す作業を繰り返す。これを嬉々として書いているらしいブレイクという作家は、文学派のイメージとは裏腹に、実に理屈好きだったのだな、と、そこはむしろ感心する。最終的に間違っていたとわかる推理まで、ああでもないこうでもないと様々な角度からひねくり回すナイジェルの姿を見ていると、ブレイク自身が、単にいろいろな可能性を考えて理屈をこねるのが好きなだけなのでは、と勘繰りたくなる。

 例えば、エラリイ・クイーンのミステリの場合、無駄な推理というものがない。すべてのロジックが計算されており、エラリイ探偵の推理はことごとく最終的な結論に結びついている。たとえ間違っていたとしても、エラリイの失敗そのものがプロットの不可欠な一部として組み込まれている。しかし、ナイジェルの推理は、結末にまったく関係ない場合もあるようなのだ。作者が色々な推論を組み立てるのが好きで、不要な推理まで作中探偵にさせているように思えるところがある。見方を変えると、読者が想定しそうな推理を先回りしてナイジェルにやらせているようにも見える。読者に勝手に見当違いさせておけばよさそうなものを、間違った推理であっても自分のほうが先に提示しておきたいらしいのだ。この理屈好きの性癖で連想するのは、見当違いかもしれないが、コリン・デクスターである。別稿でも書いたが、とても詩人とは思えない(どういう偏見?)。本書の解説に「詩論家としてのほうが断然すぐれている」[iv]という評価を読むと、なるほど、とも思う。この人は芸術的インスピレーションよりも、分析的論証に秀でていたようだ(これも偏見?)。

 ちなみに、『死の殻』の構想が、横溝正史の長編ミステリに似ている、と、やはり別稿で書いたが、本書の「被害者が加害者を倒して、犯罪計画を引き継ぐ」というアイディアも、横溝の戦後間もない時期に書かれた短編小説のプロットによく似ている[v]。これもなかなか面白い偶然だ。

 

[i] 『ビール工場殺人事件』(永井 淳訳、『別冊宝石102号』、1960年)、8-162頁。

[ii] 同、57頁。

[iii] 次作のところで詳しく述べたい。

[iv] 『ビール工場殺人事件』、「ニコラス・ブレイクおぼえがき」(大原寿人)、164頁。

[v] 横溝正史「靨」(1946年)。ただし、横溝短編のアイディアは、E・ベントリーの『トレント最後の事件』に基づくようだ。