J・D・カー『死の館の謎』

(犯人やトリックは一応伏せていますが、未読の方はご注意ください。それと、似たトリックを用いているカーの他の長編に注で触れています。)

 

 『死の館の謎』(1971年)[i]は、ジョン・ディクスン・カーの70冊目か、そのあたりの作品となる。というより、最後から二番目の長編ミステリといったほうがわかりやすい。『ヴードゥーの悪魔』(1968年)、『亡霊たちの真昼』(1969年)に続く「ニュー・オーリンズ三部作」の完結編でもあるが、別にとくに何かが完結したわけでもない。しかし、時代背景が1927年なので、さすがに、これより後の時代では歴史ミステリにならないだろう。処女作の『夜歩く』が1930年なので、下手をすれば、そちらより新しくなってしまう。つまり、完結せざるを得ない。

 1906年生まれのカーにとっては、懐かしき青春時代というわけで、主人公のジェフ・コールドウェルが、いつにも増して、カー自身を投影した青年で、作品自体もいつにもまして回顧的なのも無理もないといえる。彼の名前がジェフ(ジェフリー)なのは、ジェフ・マール(『夜歩く』の語り手)にあえて近づけたのだろうか。

 「回顧的」なのは晩年の長編がだいたいそうなのだが、意図して過去の諸作に似せているように見えるのも60年代あたりから目立つ特徴で、本書の場合も色々な意味でセルフ・パロディっぽい。あるいは、自分つっこみのような、といえばいいのか。例えば、小説冒頭で、いきなり、こんなセリフが主人公の口から飛びだす。

 

  「・・・きょう、ぼくと顔を合わせる連中はみんな、半分いいかけてやめてしまう 

 が、どういうわけかな」[ii]

 

 そんなこと、こっちが聞きたいよ!

 それと、事件が大詰めに近づいて、主人公がヒロインのペニー・リンと会話していると、ペニーが、犯人の心当たりがないわけではないの、推理小説ならそんな結末もあるかも、でも、これは推理小説ではないし、と、いきなりメタ的発言をかますが、(推理小説を書くと広言している歴史小説家の)ジェフも興が乗ったか、推理小説なら(友人の)デイヴ・ホウバートが犯人だろうな、などと言い、続けて「推理小説であろうが現実の事件であろうが、ほかに考えられるテクニックがあるのか?」、などと口走る[iii]。いや、作中人物がミステリと現実を一緒くたにしてどうする?

 カーも年のせいか、文章がくどくなっているようにも感じる。『アラビアンナイトの殺人』[iv]などの宇野利奏訳なので、格調高いのはわかるのだが、本作では、妙に古めかしく感じられて、やはり、もともとのカーの文章が、ことに歴史ミステリでは、時代がかっているせいだからなのだろうか[v]。これもしばしば指摘されるように、場面を途中で切ってしまって、次のシーンで登場人物が回想するという方法で、そのあとを説明しようとするが、まさに説明調の文章になってしまい、そこも気になる。全体に文章がまだるっこしくて、テンポが良くないのも、残念なことだが、年齢のせいなのかもしれない。

 お色気シーンが多いのは、これも年のせいなのだろうか?本編では、主人公が再三にわたって(過去回想でだが)ヒロインのペニーを裸にしようとするが、最後には、といっても序盤だが、バスルームでシャワー中のペニーの船室にジェフが闖入する(実際は、ペニーが部屋を間違えただけ)。まるで、ロバート・ブロックの『サイコ』のようだが、どうせなら、ペニーの体の特徴をもっと詳細に描写してくれたらよかった。1971年といえば、すでにミッキー・スピレインばかりか、お色気系ハードボイルドのカーター・ブラウンなどが一世を風靡していたのだから(「カーター」つながりだしね)。

 そういえば、船上ミステリでもないのに、船旅の場面が長々と描かれるのも特徴の一つで、『仮面劇場の殺人』(1966年)もそうだったが、カーの旅行好きのあらわれなのだろうか。実は、本書で一番妙なのが、この船旅のシーンで、タイトルが『死の館の謎』なのに、なかなか館が出てこない。主人公のジェフ・コールドウェルはニュー・オーリンズ生まれだが、イギリスで暮らしているところを、友人だったデイヴ・ホウバートと妹のサリーナから彼らが暮らすデリース館こと「死の館」に招かれる。弁護士のラトレッジから、兄妹の父親が遺した遺言書に関して相談があるので、ぜひともニュー・オーリンズに帰郷してほしい、と求められたのである。ところが、ニュー・オーリンズまでミシシッピ川下りを楽しもうと蒸気船に乗り込んだジェフの前に、デイヴやら、サリーナやら、その他主要登場人物が次々に姿を現わす。デイヴに至っては、船長に口をきいて、姿を隠して乗船したという怪しさで、主人公が死の館に到着して出会うと予想していた人物たちが早々と勢ぞろいして、読んでるこっちは目をパチクリする。どうやら、もう一人、姿を隠して乗り込んでいる犯人を隠すために、こんなにぞろぞろ主要キャストを乗船させたらしいが、一歩間違うとコントのようである(本当に、ギャグのつもりなのかもしれないが)。そのひとりがペニーなので、上記のとおり、シャワー中を襲われ・・・、いや、覗かれただけだが、数年ぶりにジェフと再会する。例のとおりの初恋の相手同士で、以下、本筋と関係なく、ジェフとペニーのいらぬ駆け引きがさらにストーリーを渋滞させる。

 肝心の殺人事件は、こちらも、なかなか起こらず、デリース館に戻ったデイヴとサリーナが、館を売却する話をジェフに打ち明けたり、兄妹の祖父がかつて引き揚げたスペイン船から回収した金塊が、いまも館のどこかに隠されているという宝探しまで絡んでくる。遺産相続問題というのは、兄妹が一定期限内に死んだ場合は、父親の友人たちの子どもであるジェフと、もうひとり、ボストンに住む牧師が遺産相続人になる、という、いかにもミステリらしい嘘くさい条項が含まれていることだったとわかるが、その直後、サリーナが深夜、二階の自室の窓から転落して、そのショックで弱かった心臓が止まって死亡してしまう。次いで、デイヴが何者かに襲撃され、事件は遺産相続をめぐる連続殺人に発展していくやに思われる。主人公が殺人の容疑者になるのはサスペンス・ノヴェルにつきものの展開だが、そのままジェフが疑われるという方向にならず、一向にスリリングではないのは、これが、もう一人の相続人である牧師(実は犯人)から読者の眼をそらすための手管に過ぎないからである。

 サリーナの部屋は内部から施錠されており、こちらもまた回顧的な「密室における転落死」で、その解決は、晩年の長編でやけに増えてきた機械トリックが使われている。どうも、カーは、自分の苦手な理系のトリックを逆に面白がって作品に取り入れようとしたらしい。20世紀初頭の「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」の時代の短編ミステリに出てきそうなトリックで、その点では、確かに1927年という時代には合っている。これを、あえて「回顧的な」トリックを用いたしゃれっけと見るべきか、この年になっても新しいトリックの考案に励む熱意を素直に賞賛すべきなのか、なんとも言い難い。ま、たいして面白くないことだけは断言できる。

 犯人は、前半の蒸気船の旅に密かに加わっており、二人の女性を手玉に取る、いけすかない似非ダンディなのはいつものことだが、表面的には作品に登場していない人物の一人二役トリックで、これまた1934年(作品名を注に書きます)[vi]以来、繰り返し用いてきた手なので、手垢がついたとは言わないが、確かに新鮮味はない。

 それより面白いのは、死の館というのが、16世紀のエリザベス時代に建築されたイギリスの古舘をアメリカに移築したという、いわくつきの物件で、ニュー・オーリンズには似つかわしくない古色蒼然たる屋敷。そこに住むのが、いささか奇矯な性格の兄妹というのは、なんだか「アッシャー家の崩壊」みたい。いや、みたいではなくて、いつもならヒロイン枠に入りそうな妹が早々に不慮の死を遂げるプロットをみても、どうやらカーは、謎解き版「アッシャー家の崩壊」を書こうとしたらしい。郊外にぽつんと立つ館を訪れた友人に兄が奇怪な打ち明け話をする、妹の突然の死に兄は半狂乱となる、という筋立ても似かよっている。もし、この推測が正しいとすれば、カーは、自身の作家生活の終わりが近いことに気づいて、温めていたアイディアを、生煮えの状態でもいいから、この際全部調理しちまえ、と思ったのかもしれない。もっとも、ラストはポーのような怪奇の結末ではなく、よどんだ沼が「『アッシャー家』の残骸を音もなくゆっくりと吞みこんでしまった」[vii]りはしない。呑気なハッピー・エンドで終わるのは、カーが健全なエンターテインメント作家である証拠だろう。それが彼の限界であるが、魅力でもあって、怪奇の衣装はまとっていても、カーの長編ミステリは常に知的興奮で終わる。あの『火刑法廷』でさえ、ラストはちっとも怖くなく、意外な結末であっと言わせるだけである。余計な感傷や人生訓などは排除して、とことん知的快感の後味のみが残る。それこそが七十余編におよぶカーのミステリの醍醐味である。

 

[i] 『死の館の謎』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1975年)。

[ii] 同、25頁。

[iii] 同、379-80頁。

[iv]アラビアンナイトの殺人』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1960年)。

[v] 『死の館の謎』、433-34頁(戸川安宣による解説)参照。

[vi] 『黒死荘の殺人』(南條竹則・高沢 治訳、創元推理文庫、2012年)。

[vii] エドガー・アラン・ポオ「アッシャー家の崩壊」(河野一郎訳)『ポオ小説全集1』(阿部知二他訳、創元推理文庫、1974年)、361頁。