J・D・カー『悪魔のひじの家』

(本書の犯人、トリックのほか、『孔雀の羽根』、『第三の銃弾』の内容に言及しています。)

 

 1965年、ディクスン・カーは、突然、五年ぶりにフェル博士が登場するミステリ長編を発表した。それが『悪魔のひじの家』(1965年)である。しかし、翻訳が出たのは1998年[i]。実に、30年以上かかったことになる。『雷鳴の中でも』(1960年)[ii]が、原著と同年に日本でも翻訳刊行されていることを考えると、1960年代におけるカーの不人気ぶりと、1990年代以降における狂い咲き状態のあまりにも大きな落差が見て取れる。

 本書以後、カーは、フェル博士シリーズを三作続けて執筆して、その後、またローテーションからはずしてしまう。そのまま博士は引退、カーも1972年を最後に筆を折った。フェル博士が、カーに最後まで付き合った名探偵となった。

 『悪魔のひじの家』では、カーはもはや何か新しいことをやってやろうという意欲は持ち合わせていなかったようだ。むしろ、意図的にこれまでの諸作をなぞるような小説を書こうとしている。舞台は、イギリス南部の海沿いに立つ屋敷。その一帯は「悪魔のひじ」と呼ばれている。そこに住むバークリー家の当主クロヴィス(古代ゲルマン人の王と同じ名なのは、何か意味があるのだろうか)が亡くなって、ほぼ時を同じくして、父と衝突してアメリカに移住した長男ニコラスも死去する。他に、バークリー家に住んでいるのは、父と折り合いの悪い次男のペニントン・バークリーと年下の妻ディードル、そして独身の長女エステル・バークリーだが、クロヴィスが全財産を遺したのは長男のニコラスで、彼が死去したため、相続人はその息子で同名のニコラスとなった。アメリカから戻ったニック(ニコラス)には、しかし、「悪魔のひじの家」を相続するつもりはなく、伯父のペニントンに譲る考えでいる。そのことを告げにバークリー邸に向かうニックが同行を求めたのが、友人の歴史家ガレット・アンダーソンで、彼には、パリで知り合い、再会を約束しながら連絡が取れなくなったフェイ・ウォーダーという恋焦がれる相手がいる。というわけで、またまた、おまけで、さらにまたお馴染みの人物配置が完成して、物語はガレット・アンダーソンの視点で語られる。

 そしてまたまたまたまた恒例のように、「悪魔のひじの家」に向かう列車の中で、アンダーソンはフェイと再会する。実は、彼女はディードルの友人で、今はペニントンの秘書をしていることがわかる。何という驚くべき偶然!などと感心している場合ではないが、これがカーの小説作法だから仕方がない。突っ込まないで、先に進もう。

 フェイと一旦別れたガレットが、ニック、そして一家の弁護士であるアンドリュー・ドーリッシュとともに、彼らを迎えにきたディードルの車に同乗して、バークリー邸に到着すると、突如、銃声が轟く。現場とおぼしき図書室に一行が駆けつけると、ペニントンがぐったりと椅子にもたれかかっている。彼の話では、ヴェールをかぶった幽霊のような男が彼に向って空包を発射した、という。しかも、その幽霊-以前住んでいた老判事のそれだという-は数日前、さらに数十年も前にも現れたことがある、と。信じがたい話だが、現に、幽霊が姿を消したはずの窓には、内側から鍵がかかっていた。

 そこに、フェル博士と、懐かしや、『緑のカプセルの謎』(1939年)に登場したエリオット(今では副警視長に出世している)が調査に訪れるが、ペニントンは、皆を部屋から追い出すと、再び図書室に閉じこもってしまう。

 数時間たっても部屋から出てこないペニントンを怪しんで、ニックとガレット、それにフェイらが図書室に入ろうとすると、ドアにも窓にも鍵がかかっている。窓ガラスを打ち破って侵入した彼らが見たのは、再び胸を、今度は実弾で撃たれ、倒れているペニントンだった。この辺りの展開は、数年前の『ハイチムニー荘の醜聞』(1959年)を連想させる。

 こうして、事件は、こちらも懐かしのメロディ、密室の謎ということになる。

 ダグラス・グリーンが指摘しているとおり[iii]、トリックの原理は『孔雀の羽根』(1937年)に基づいている。また、犯行の手順は『第三の銃弾』(1937年)を思わせる。つまり、自作の二次活用だが、それなりによく考えられており、失望させるということはない。大傑作ということもないが。

 このトリックに関連して、事件前の歓談中に、被害者のジャケットに蜂蜜がどっぷりかかって、潔癖な彼が絶句する場面があるが、明らかに伏線だと分かる書き方になっている。これほどわざとらしく露骨な手掛かりは、これまでの、目立たぬよう、気づかれぬように伏線を張る面倒な作業に、カーも疲れてきたということだろうか。それとも、このくらいあからさまな手掛かりでないと、読者には難しい、と考えたのか。どちらでもいいようなことだが、そんなことを考えさせる書きぶりである。

 犯人は、例によって、見栄坊で自信家の男。ただし、かつてのような傲岸不遜な青年ではなく、弁護士のドーリッシュなのだが、この犯人は結構意外だ。というか、動機が意外なのだが、つまり、ペニントンを殺せば、ディードルと一緒になって、財産を相続できる、というもの。しかし、ドーリッシュがディードルに横恋慕しているというはっきりした描写はなく-もっとも、あれば一目瞭然になってしまうが-、しかも、そもそもこのような誇大妄想気味の動機で殺人を犯すだろうか。それも、れっきとした弁護士が。おまけに、実は、ニックとディードルは初対面ではなく、密かに恋し合っていることが、後半で暴露される。なんだか、しっちゃかめっちゃかな人物関係で、何でこんなにややこしくしたのだろう。ドーリッシュの動機を隠すためかもしれないが、こんなレッド・へリングを泳がせなくとも、ドーリッシュの動機を言い当てられる読者はほとんどいないだろう。大体、この二人の秘密の関係は不自然極まりなく、筋の上で何の意味もないように見えてしまう。しかも、最後に、ニックはディードルと一緒になるつもりはない、と言って、アメリカに去っていくのである。まさか、かつてのような安易なハッピー・エンドではない-結局ペニントンは死なないので、もし二人が一緒になろうとしたら、駆け落ちか、あるいは、今度は、ニックがペニントンを殺すしかない-ことを強調して、大人の恋愛を描こうとしたのだろうか。カーが?まさかね。

 さらに、上記のように、ペニントンは死亡せず、事件が殺害未遂で終わる理由もよくわからない。ペニントンに愛着が湧いたのだろうか。カーも年を取って、やたらと登場人物を殺すことに気が咎めるようになったのか。それとも最初の殺害未遂事件は、ペニントンのひとり芝居なので、彼の告白がないと、読者を納得させられないと判断したのだろうか。フェル博士の推理も、そう冴えたものではないし。

 そういえば、本作でのフェル博士は、『死者のノック』や『雷鳴の中でも』に比べると、はぐらかし発言を連発して、読者をイライラさせることは比較的少ない。途中、エリオット副警視長が、今ならハドリーの気持ちがよくわかる、と言い、「結論を聞かせてくださるのですか、それとも曖昧なことをぶつぶついって、お茶を濁すおつもりですか?」[iv]とフェル博士に詰め寄る-まるでカー自身のノリ突込みのようだ-が、作者もちゃんと自覚はしていたようだ。

 いずれにしても、イギリス地方の旧家に住む奇矯な人々の間で起こる密室ミステリ。スパイ・スリラー全盛の1960年代に発表するには、クラシックすぎるお膳立てだが、これがカーであることも確かで、グリーンも繰り返し書いているように、カーが現代という時代を描くことにうんざりしていて、過去のなかでしかミステリを書く意欲が生まれなかったのだとすれば、この期に及んで、フェル博士が復活したのもよくわかる。カーにとっては、もはや現代ミステリも、歴史ミステリも区別する意味がなくなっていたのだろう。せいぜい、歴史ミステリでは時代考証の手間、あるいは楽しみがあるという違いだけで、すべては「古きよき時代のミステリ」だったに相違ない。読み手である我々も、同じ気分で本書を読むのが正しい態度であるようだ。その意味では、原著の発表から30年もたって、ようやく本書を読んだ日本人読者は、案外正しい選択をしたといえるのかもしれない。

 

[i] ジョン・ディクスン・カー『悪魔のひじの家』(白須清美訳、新樹社、1998年)。

[ii] 『雷鳴の中でも』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)。

[iii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、453頁。

[iv] 『悪魔のひじの家』、209頁。