J・D・カー『死者のノック』

(トリックや犯人は明かしていませんが、ちょくちょく暗示的なことは書いています。)

 

 9年ぶりのフェル博士シリーズで、博士はアメリカで探偵の腕を振るう。『墓場貸します』(1949年)のヘンリ・メリヴェル卿に続くアメリカ上陸だが、H・Mのようなおちゃらけたところは微塵もない。それどころか、終始真面目な表情を崩すことなく、冗談ひとつ言わない深刻さである。

 『死者のノック』(1958年)[i]は、ディクスン・カーの小説の変化を如実に表わしている。戦後のミステリの動向として、ゲーム性が薄れ、シリアスな人間ドラマの傾向が強まるが、カーの作品も紆余曲折を経つつも、その方向に向かっていった。本書はそうした変化の一つの到達地点で、全体が四部に分かれるその第一部などは、主人公のマーク・ルースベンと妻のブレンダの不信と嫉妬をぶつけ合う会話から成り立っている。マークは妻の不倫を疑い、ブレンダは学究生活に閉じこもる夫から無視されていると思い込む泥沼状態で、まるで、1940年代の諸作で最後に結ばれた恋人同士のその後を描いているかのようだ。

 無論、二人のいさかいの背後に、ミステリの伏線が張られているのだが、第二部までの前半を見る限り、パズル・ミステリというより、むしろ心理スリラー。カーの小説としては、もっとも普通小説に近い雰囲気である。

 もっとも謎解きのテーマはこれ以上ないくらいのパズル趣味で、これもまた久々の密室もの。しかも、ウィルキー・コリンズが書簡のなかで言及した未完の密室小説を現実に模した犯罪という趣向だから、本来なら、ミステリ・マニアを歓喜させるようなお膳立てである。それがあまりピンとこないのは、コリンズと密室ミステリという組み合わせのせいか。「モルグ街の殺人』に続くエドガー・アラン・ポーの未発表密室小説の原稿というなら、もっと盛り上がったかもしれないが、すでにポーは『帽子収集狂事件』で扱っている。最終作の『血に飢えた悪鬼』(1972年)で探偵役に起用した所を見ても、カーはコリンズがえらく気に入っていたらしいが、やはり19世紀ミステリへの郷愁なのだろうか。

 ワシントン近郊のクイーンズヘイヴンという大学町で、悪名高い美女のローズ・レストレンジが自宅の寝室で胸を刺されて死亡しているのが見つかる。発見したのは主人公とその友人トビー・サンダーズ、および、トビーの婚約者キャロラインの父親であるサミュエル・ケント教授。問題の部屋は窓もドアも内部から鍵がかけられており、三人は、ドアの鍵穴に内側から刺さったままの鍵を外から突っついて、ドアの下の隙間に差し入れた新聞紙の上に落とし、鍵を取り出すという方法でドアを開くことができた。・・・という細かい描写にトリックが潜んでいるのだが、この密室のアイディアは、カーには珍しいというか、1940年代以降の密室もので多用するようになった、ちょちょいのちょいの小手先トリックで、日本作家の思いつきそうな手品である(失礼な言い草?実際に、日本のミステリで似たようなすり替えトリックを使った小説があったと記憶している[ii])。しかし、これはこれで、小味ながら、カーとしては新鮮でなかなか気が利いている。しかも、人間関係の軋轢を扱ったミステリに見合った、現実味のあるトリックと言えるだろう[iii]

 1930年代のカー作品は、天翔ける奇想天外なトリックに、これでもか、という怪奇の衣装を着せて、さながら、観客の度肝を抜く野外アトラクションのごときスケールだったが、40年代の小体なパズル小説を経て、50年代に入ると、次第に現実味のあるトリックとシチュエイションにシフトしてきた。それは確かに、『囁く影』や『わらう後家』のような、底が抜けたような冗談すれすれのトリックもあったが、全体としては、おとなしい現実的な方向に変化してきた。そもそも不可能犯罪にさほど拘らなくなった。

 また、50年代のカーは、一方で歴史ミステリに軸足を移し、H・Mものを含む現代ミステリは、軽く流している風な作品が目立ち始めた。『死者のノック』は、そんなカーが、現代を舞台に、まさに第二次大戦後の「現代ミステリ」を意識して書いた一編だったように思える。

 殺人が起こって、フェル博士が登場する第三部以降は、当然、事件の解決と密室の謎解きが中心となるが、カー一流のねじ曲がった会話と文章のオンパレードで、フェル博士も他の登場人物も、誰一人として率直な話をせず、思わせぶりな発言を散々繰り返す。まるで、誰が一番はぐらかすのが上手か、競っているようだ。そして、どうやらカーは、こうした曖昧な会話劇が、心理ドラマっぽいと思い込んでいたようだ[iv]

 それが、カーにとっての50年代に相応しいミステリだったとすれば、相変わらず、カーの小説観は偏向しているが、時代に即応したミステリを書こうという奮起の表われだったとすれば、カーの努力も認めてあげなければいけないだろう。

 とはいえ、マークとブレンダの夫婦間の危機から始まった本書は、いつの間にか、二人の関係が曖昧なまま元のさやに納まって、「やっぱり君を愛しているよ」、「今でもあなたを愛しているわ」という、カーらしいハッピー・エンドで終わる。最初の心理小説風のシリアスなドラマはどこに行ってしまったのか。二人の間の問題は何も解決しておらず、こいつら、また同じ騒動を起こすぞ、と思わせる。小説の最後、マークを残して、ブレンダが家を出ていくラストにすれば、フランス・ミステリ風になっただろうが、カーにそれを求めても仕方ないし、その必要もないか。

 

[i] 『死者のノック』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)、『死者のノック』(高橋 豊訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)。

[ii] 多分、森村誠一の長編小説に、これと似た発想のトリックが使われていた記憶がある。

[iii] 二階堂黎人によると、トリックの解説部分の訳が間違っているそうだ。二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、387、395頁。

[iv] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、421-22頁参照。