J・D・カー『疑惑の影』

(本書の内容のほか、フランシス・アイルズの『殺意』の結末に触れています。)

 

 『疑惑の影』(1949年)は初読の時、かなり感心した記憶がある。ところが、再読したら、そうでもなかった。

 犯人やトリックを知っているから、というわけでもなく、無実のヒロインを救い出す、というプロットの捻り方に感心したと覚えているのだが、そこが読み直すとそうでもなかったのである。理由はよくわからないが、こうしたアイディアは、そう珍しいものでもないように感じたので、似たような小説を読んだせいなのかもしれないが、今すぐには思い浮かばない。

 書いていてももどかしいので、はっきり記すと、年老いた女主人の世話をしている秘書の娘がいる。毎晩、屋敷は使用人が別棟で休むため、そのテイラー老婦人と秘書のジョイスの二人きりとなるが、ある朝、使用人が寝室を覗くと、主人が毒を飲んで死んでいる。殺人の疑いがヒロインにかかる、というもの。彼女の弁護に乗り出すのが、主人公のパトリック・バトラーという弁護士で、態度は控えめだが、実は熱血という、カー作品のいつもの主人公達に比べると、おしゃべりで自信満々、傲岸不遜なアイルランド人で、常日頃、俺は絶対間違えない(どこかのドクターみたいだが)、と豪語している。

 バトラーの弁護により、ジョイスはあっけなく無実を宣告され、自由となるが、同じ日、死んだ老婦人の姪の夫リチャード・レンショーが、自宅で、伯母と同じ毒を飲まされて死亡する事件が起こる。実は、何件もの毒殺事件が続いており、これらの事件とも関係があるらしい。その事実をバトラーに告げるのがフェル博士で、連続毒殺事件を仕組んでいるのは、謎の悪魔崇拝の魔女教団(!)だという。にわかに、毎度お馴染みのカーらしくなってくるが、事件が進むと、殺されたレンショーが教団のボス(!)で、テイラー夫人はその補佐役(!)だった、という驚愕の事実が判明。殺人動機は、教団内部の権力闘争らしい。一方、バトラーは、未亡人となった老婦人の姪のルシアという美女にメロメロとなり、ジョイスのことは頭からすっ飛んでしまったように見える。

 こうして、二件の毒殺事件と悪魔崇拝の魔女教団とが絡んで、なんだか第二次大戦後のミステリとは思えない大時代な怪奇冒険小説風の展開となるが、実際そのとおりで、本作は明らかに、1950年代以降、カーの仕事の中心となる歴史ミステリの原型的な作品である。バトラーはカー作品には珍しい主人公といったが、この後の歴史ミステリの主人公は、皆基本的にこのタイプなのである。やたらフェア・プレイにこだわり、直情径行な正義感で、突然興奮して暴れ出す(それほど、ひどくはないか)、感情の起伏の激しい冒険青年たちで、そしてもちろん、絶世の美女たちに振り回される。本書でも、ジョイスとルシアという二人の美女の間で目移りするが、最後にルシアと婚約する(が、1956年の『バトラー弁護に立つ』では、結婚はしたものの、別れたらしい[i]。それどころか、ジョイスのことを、「わたしが唯一愛した女性」、などとのたまう[ii])。

 この結果から想像がつくように、犯人はジョイスなのだが、彼女が殺害したのはレンショーのほうで、テイラー夫人殺害では無実なのだ(夫人は誤って毒を飲んだとわかる)。事故というか、一種の「間違い殺人」と「無実を証明された容疑者がやっぱり犯人」というアイディアを組み合わせたところが本書のミステリとしての技巧である。このアイディアは、案外、アントニー・バークリー(フランシス・アイルズ)の『殺意』(1931年)の結末-主人公の殺人犯が裁判で無罪となりながら、別の事件の容疑で有罪を宣告される-あたりからヒントを得たものかもしれない。これをアイルズのように、皮肉な結末ではなく、あくまでパズル・ミステリの意外な解決にもっていくところがカーである。

 とはいえ、カーのいつもの伏線の妙があまりないので、その点、物足りない。ただ、ひとつ面白い手がかり-といえるのかわからないが-は、ジョイスの無罪を勝ち取ったバトラーが、二人きりになって、彼女から、本当は、私のこと有罪だと思っているんでしょう、と詰め寄られると、即答で、うん、君は有罪だよ、と返すところである[iii]。本心で言っているのか、女性を落とす手口なのか、よくわからないが、探偵役が、冒頭で、君が犯人だ、と断言する相手がそのまま犯人、という、これは新発明なのか(なんだか、ドーヴァー警部みたいだ)。

 これ以外にも、地の文で、ジョイスは「全く無実だった。実際にテイラー夫人を殺さなかったのだ」[iv]、と書いたり、ジョイスの心情を表現して「『わたしは無罪よ!有罪じゃないのよ!』」[v]、と心のなかで叫ばせたり、相変わらず詐欺師まがいの手口で、読者の裏をかこうとする。「実際に、テイラー殺しでは無実なんだから、嘘は書いてないよね。でへへ」、とニヤつくカーの顔が眼に見えるようだ。そうか、この辺のやり口が面白いと思ったのか。

 本書は、江戸川乱歩の「J・D・カー問答」では論評されていないのだが、当時の最新作として名前が挙げられている長編である。「評判によると、・・・ちょっといいものらしいんだね」、と本文で触れているのだが、「後記」として「其後、一読したが、さして面白くなかった」[vi]。これには、だあーっ、となるが、冒険小説風のところが欧米では受けたのだろうか。ダグラス・グリーンは、むしろ技巧的な部分に触れていて、上記のバトラーの発言のような、読者を惑わせる叙述トリック風の語り口について詳しく解説している[vii]。バトラーのモデルは、なんとエイドリアン・ドイルだそうだ[viii]二階堂黎人は、「一九三〇年代にカーがこれを書いていたら、相当の傑作になったはずだ」[ix]、と書いていて、やはり語りのトリックに感心した模様のようだ。フェル博士よりもバトラーを主人公に据えたことが、出来が落ちた要因とみている[x]

 もう一点、本書で興味をそそるのは、そのタイトルである。below suspicionというのは慣用句にはないようだが、above suspicionならある。「疑わしくない」というような意味で、ハヤカワ・ミステリ文庫の新訳版で、訳者の斎藤数衛は、「『疑惑の影』とは、わかったようでわからない訳語であるが、・・・正しくは、〝疑惑に値しない″とか〝疑惑の外にある″という意味である」、とあとがきで解説している。作中では、17章の終わりで、フェル博士がバトラーに対し、例によって例のごとく、探偵小説を引き合いに出して、ミステリ小説では「なんびとも″疑惑に値する″んだ。しかし、そこには″疑惑に値しない″タイプが若干いる」、とまたしても煙に巻くような発言をする。この原文が、”In a detective story … no person is above suspicion.  But there are several types who are below it.”[xi]なのだ。続けて、この「タイプ」とは「探偵役」や「ほんの端役に過ぎない連中」、そして「召使」だというのだが、その前の会話で、博士は、レンショー家の召使であるキティ・オーエンを「疑惑に値しない(below suspicion)」[xii]と言っており、それを受けて、上記の「なんびとも・・・」発言が来る。実は、キティは「疑惑に値しない」どころか、謎の教団にも、殺人にも加担していたことがわかる[xiii]。「疑惑に値しない」とは、疑わしくない、という意味ではないようだ。

 その後、ジョイスと対決したバトラーは、彼女が裁判で無罪となった結果、誰もが彼女を疑惑の対象からはずしてしまった、「きみがもう″疑惑の外″にあると思ってしまった」[xiv]、と語りかける。このときの″疑惑の外″というのが、またbelow suspicionである[xv]。訳者も色々と苦労している、とみえる。

 above suspicionもbelow suspicionも、訳せば同じような意味になるのだろうが、どうやら、カー自身、本作の犯人(ジョイス)の意外性に結構な自信をもっていて、意外な犯人の類型に関するプチ講義でそれを強調しようとしたらしい。above suspicionは、単に「疑惑の対象外(疑惑を超越している)」の意味だが、below suspicionは、読み進めるうちに読者の「疑惑の対象からこぼれ落ちてしまう」犯人という意味のようだ。本作のジョイスは、冒頭の裁判で無罪となることによって、読者も容疑者のなかから除いてしまうのだ、というわけであろう。

 もっとも、カーの思惑通り、読者は騙されてくれたかどうか。ミステリの歴史的名作を読み尽くした現代のマニアならずとも、1940年代のミステリ愛好家達も、そうそう甘くはなかったと思うのだが。

 

[i] 『バトラー弁護に立つ』(橋本福夫訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1983年、再版)、39頁。

[ii] 同、66頁。

[iii] 『疑惑の影』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)、85頁。

[iv] 同、27頁。

[v] 同、60頁。

[vi] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、347頁。

[vii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、305頁。360-61頁。

[viii] 同、361頁。

[ix] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、382頁。

[x] ちなみに、フェル博士の登場は本作でひとまず打ち止めとなる。次の登場は、1958年の『死者のノック』まで、ない。

[xi] John Dickson Carr, Below Suspicion (International Polygonics LTD, 1986), p.162.

[xii] 『疑惑の影』、306頁。

[xiii] 『疑惑の影』、307頁。

[xiv] 同、340頁。

[xv] Below Suspicion, p.181.