J・D・カー『引き潮の魔女』

(本書の犯人やトリックを明かしてはいませんが、ほのめかしてはいます。また、『帽子収集狂事件』、『白い僧院の殺人』のトリックに言及しています。)

 

 本書は1961年出版のディクスン・カーの歴史ミステリである。1957年の『火よ燃えろ!』、1959年の『ハイチムニー荘の醜聞』に続く「スコットランド・ヤード三部作」の完結編ということになっている[i]

 タイトルは、海水浴用に砂地に建てられた小屋の一室で女の死体が発見される。発見者の主人公の医師が、恋する女性に向かって口にするのが「引き潮の魔女」である。引き潮で露わになった砂の上には、発見者の主人公と、後から駆けつけた恋人の二人の足跡しか残されていない。「引き潮の魔女」の仕業なのか、というのが上記のセリフとなる。1958年の『死者のノック』に続いて、懐かしの不可能犯罪、足跡のない殺人事件である。しかし、かつてのような怪奇ムードはかけらもない。イギリスの保養地の明るい陽光のなかで、事件はいたって淡々と進行する。

 「スコットランド・ヤード三部作」とはいうものの、警察の捜査が事細かに描かれるわけではなく、もっぱらトウィッグという警部ひとりが警察を代表して主人公であるデイヴィッド・ガースにつきまとう。というより、恋人のベティ・コールダーを犯人と疑い、ガースを共犯者と睨んで追求するので、またしても恒例の主人公の敵役扱いで、丁々発止のやり取りを繰り広げるが、これで一体どこが「スコットランド・ヤード三部作」なのか、という感が拭えない。

 それに歴史ミステリと銘打っているが、前述の『死者のノック』や前作の『雷鳴の中でも』(1960年)と比べて、それほど内容や背景が異なるわけでもない。もちろん、1907年が舞台なので、自動車が登場したり、初期の海水浴で用いられた車輪付きの小屋が「18世紀の遺物」[ii]として紹介され、まだまだ人前で肌を晒すことが憚られた風潮を暗示している。しかし、全体の印象は、カーの現代ミステリとさほど変わりなく、時代はエドワード朝だが、カーとしては、ヴィクトリア朝ないしシャーロック・ホームズの世界を舞台にミステリが書いて見たかったのだろう、と推察する。

 そう思うのは、これもカーについては毎度のことだが、しゃべり方が現代ミステリと全然変わらないからだ。カーの場合、現代ミステリの登場人物も大時代な話し方をするので、歴史ミステリで登場人物が同じような口調でしゃべっても、まったく違和感がない。というか、どっちがどっちでもいいようなものだ。

 しかも、もはや取り上げるのも億劫だが、どうしてカー作品の登場人物たちは、こうも話が回りくどいのか。そのうえ、喧嘩っ早い。ガースとトウィッグの猫と鼠、あるいはハブとマングースのような戦いは本作の見もののひとつだが、その他の登場人物では、友人のヴィンセント・ボストウィックの妻マリオン、同じく知人で警視総監秘書のカリングフォード・アボット、そして助手のマイケル・フィールディングに対してまで、ガースがやたら喧嘩腰なのはどういう性格なのか。以上の人々の会話も、相変わらず、言質を取られないことだけを目的としているような曖昧さで、この連中、どれだけ人に知られて困ることを隠しているんだよ、と呆れてしまう。

 肝心の足跡のない死体のトリックは、1934年の代表作の焼き直し[iii]で、同作はさらに前年の代表作[iv]の応用なので、オリジナルのトリックとはいえ、二次使用どころか、三次使用で、コスト・パフォーマンスは抜群だ。そつなく、手際よくまとめられているのだが、何となく白けてしまうのは、元ネタがわかっているからばかりではなく、やはり時代が変わってしまったからかもしれない。

 それでも、犯人の正体はなかなかよく隠されている。前半、マリオンの後見人のジョン・セルビーがガースを訪ねて、助言を求める。ここでの会話が、また、意味の掴めないモダモダしたものなのだが、この会見自体が重要な手掛かりになっている。『ハイチムニー荘の醜聞』や『雷鳴の中でも』においても用いられた曖昧な会話の中に手がかりを仕込む常套的手法で、ここ数年のカーが凝っていたテクニックである。性的な関係が動機となっているのも、戦後のカー作品の特徴であるが、この犯人の設定は、作者自身が初老の年齢に入りかけていたことと関係しているのだろうか。それとも、前作の『雷鳴の中でも』の犯人とちょうど対照的な構図で、要するに、年齢差のある不倫関係が動機なのだが、前作とは逆になっているのだ。要するに、単純に前作と男女の年齢を入れ替えて犯人とした、というだけなのかもしれない。

 実は、第二部になって、ガースの甥ヘンリー・オーミストンが登場して、この男がカー作品に典型的な「嫌な奴」で、読者は、「出た、出た、こいつが犯人だ」、と、半ば苦笑しつつ予想するのだが、この甥の若造、次に出て来たときには、すっかり従順な態度になっている。一体、最初の勢いはどうした。エピソードをひとつ読み飛ばしたのかな、と思うがそうでもなく、なんだか、作者も、「また、こういうタイプか、書くの飽きたな」、と思って、「めんどうだ、適当なこと言わせて、引っ込めちまえ」、とでも考えたかのような雑な扱いかたなのである。それとも、毎回似たような犯人を登場させていることに、カー自身も気づいて、それを逆手にとって、「またこいつが犯人と思った?ざーんねーんでーしーた」、と読者にしっぺ返しを食わせたかったのか。

 もっとも、カー作品で極端に嫌な奴というのは、主人公にコテンパンにボコられるためだけに登場するザコなので、最初から犯人にするつもりはなかったのかもしれない。しかし、それならそれで、例によって、ガースがボクシングかなにかで叩きのめすのかと思いきや、前述のとおり、急にしおらしくなって退場してしまう。一体、何のために出て来たのか、本書の最大の謎だ。

 

[i] 『引き潮の魔女』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1963年)、「歴史探偵小説三部作」(訳者あとがき)、265-66頁、ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、435-36頁。グリーンによると、イギリス版のみ「好事家のための覚書」が付いているらしい。翻訳では訳されていない。しかし、そうすると、『恐怖は同じ』(1956年)にも、イギリス版原書には付いていたのだろうか。

[ii] 『引き潮の魔女』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、105頁。

[iii] 『白い僧院の殺人』(創元推理文庫)。

[iv] 『帽子収集狂事件』(創元推理文庫)。