エラリイ・クイーン『スペイン岬の謎』

(本書および他の「国名シリーズ」作品の内容に触れています。)

 

 『スペイン岬の謎』(1935年)をもって、「国名シリーズ」は幕を閉じる。しかし、「読者への挑戦」は次の『中途の家』(1936年)でも踏襲され、それなら、もう一冊、国名を冠した長編を書いて、きりのいい10冊にしてくれていたらよかったのに、と思わずにいられない。Halfway Houseというタイトルが気に入ったのだ、と言われても、はい、そうですか、と納得はできない。「国名シリーズ」と呼べばいいのか、「読者への挑戦シリーズ」と呼べばいいのか、迷うではないか(「挑戦」のない「国名シリーズ」作品もあるが)。

 『スペイン岬』について言えば、内容的に、本来の「国名シリーズ」に戻った感がある。『アメリカ銃の謎』、『チャイナ橙の謎』のようなトリック小説や、『シャム双子の謎』のようなパニック小説的作品から、推理に特化した初期三作へ回帰した印象の長編である。逆にいうと、他にあまり目立った特徴のない作品ともいえる。

 中心となる謎は、いうまでもなく、なぜ被害者はマントをはおっただけの裸にされていたのか、というもの。ほぼ、この謎だけで引っ張っていくのは、「なぜ被害者の帽子が持ち去られたのか」、という処女作の『ローマ帽子の謎』を思わせる。

 そして、この謎の解決も、意外性と単純さを兼ね備えた見事なもので、推理の部分に関しては、久々の会心作ともいえる。『シャム双子』の犯人特定推理が思いつき程度のものだったり、『チャイナ橙』では、犯人の推理よりもトリックの解明に重きが置かれていたことを考えると、とくにそう感じる。

 ただ、鮮やかな分、あっけない印象も受ける。被害者が全裸ではなく、マントを羽織っていたのは、それがなければ、エラリイが一瞬で真相を見抜いてしまい、短編小説で終わってしまうからだが、作者としても、最初から全裸死体では、エラリイと同じ推理をする読者が多数出ると危惧したのだろう。副次的ストーリーを絡めて容疑者の数を増やし、読者の疑いを登場人物に分散させておいたうえで、決定的なデータである、殺害後、第三者が被害者にマントを羽織らせた、という情報を、エラリイにも、読者にも開示する段取りになっている。ただ、かなりぶ厚い長編のわりに、延々と盗み聞きや盗み見で被害者の悪行の掘り起こしにページを費やしているので、いたずらに筋を引き延ばしたかのような印象を与えるのもやむを得ない。飯城勇三が指摘しているように[i]、中心となる謎以外はすべて不用であるように見えてしまうのは、作者の計算違いだったかもしれない。

 ミステリとしてのもう一つの仕掛けは、冒頭の誘拐事件がトリックになっていることで、「被害者=犯人」のパターンの一類型である。フランシス・M・ネヴィンズの指摘にあるように[ii]、30年代の長編では、このアイディアが多用されているので、またか、という気は確かにする。それ以上に、この誘拐シーンは、いかにも取って付けたようで、怪しさがプンプン臭う(真相がわかってしまうと、そう思えてしまうだけなのかもしれないが)。犯人にとっても、こんな茶番劇は必要なかったのではないか。まさか、ずっと行方不明のままで過ごすつもりではなかったろうし、被害者と間違われたとしても、あっさり解放されたりしたら変である。殺されたことにするつもりだったというわけでもなさそうだ。実際に、終盤で描かれている、嵐をついて脱出する、という海洋冒険小説まがいの展開を最初から考えていたとすると、天候頼りで、あまりに無策すぎる。

 もちろん、作者としては、犯人を海上に行かせなければならず、派手な誘拐のほうが小説のつかみとしても有効だし、海釣りに行ってました、などという理由より、むしろ、わざとらしくない、と考えたのかもしれない。

 その、犯人は海上にいる、というのが、犯人推理の基礎となっており、その意味でも、本書は、初期三作(『ローマ帽子の謎』、『フランス白粉の謎』、『オランダ靴の謎』)に近いといえるかもしれない。つまり、容疑者を、陸上にいるものと海上にいるものとに分類して、後者に犯人を限定していく、という推理手法である。初期三作は、公共の場で不特定多数の容疑者を、場の関係者とそうでないものとに分け、前者を有資格者(というのもおかしいが)と判定する、という手法を取っていた。人間集団を二つに分類することで容疑者のグループを限定していくのだが、それだけでは、まだ犯人の範囲を狭めたに過ぎない。

 本作でも、海上にいる、というだけでは、犯人を一人に絞ることはできないはずだが、初期三作のような、公共の場での殺人ではないので、はじめから事件当事者は限られている。そのなかで海上にいたものは一人である、と推理していくので、犯人はただちに明らかとなる。しかし、それだけでは、さすがにクイーンのミステリとしては安易だと思ったのか、犯人たりうる六つの条件を挙げて、唯一海上にいた容疑者がそれらに当てはまることを論証することで、推理を補強している。ただ、それらの条件は、泳げること、といった当たり前の前提で、結局は、殺害現場となった屋敷の住人もしくは招待客のなかで、当夜、海上にいたもの、という結論に集約される。屋敷内に共犯者がいる可能性とか、エラリイの知らない利害関係者の存在などは無視されており、果たしてこれで完璧かとなると、少々心もとない。

 もう一点、冒頭の誘拐シーンで気になるのは、デイヴィッド・クマーと姪のローザを拉致したキャプテン・キッドが、二人をさらっていった別荘で、雇い主らしき人物に電話をかけ、それをローザが盗み聞きする。ところが、誘拐は狂言なので、この電話もキッドの一人芝居のはずだが、そのなかに「海に出て・・・」[iii]というセリフが出てくる。そして、ローザが、閉じ込められた部屋の窓から外を見ると、キッドがクマーを乗せてモーターボートで海に出ていく様子を目撃する[iv]。目撃できなかったとしても、音でボートが出ていくのがローザには聞こえるだろうから、つまり、犯人は、キッドとクマーが「海に出た」という事実を強調したいらしいのだが、一体なぜだろう。犯人は、実際に海上に出て、そこから犯行に及ぶつもりのはずなのに、なぜ、ことさら、そのことを印象づけようとするのだろうか。このキッドという人物は、即興でセリフを考えつきそうな頭の持ち主には描かれていないので、電話の内容も、犯人に指示されたとおりしゃべっている、と推察される。明らかに、キッドとクマーが海に出た、とローザに証言させることが目的のようだが、動機がわからない。

 もちろん、作者にとっての目的は、はっきりしていて、「海上にいる」ということが犯人の条件だからである。しかし、作中の犯人にとっては、そうではない。むしろ、海から注意をそらしたほうがよいはずである。

 どうしても「海に出た」と強調したい理由が、もし、あるとすれば、「実際は海に出なかったから」、ということしか考えられない。つまり、海に出たとみせかけて、近くの浜辺に上陸した。それをごまかすために、海に出たように見せかけた、ということで、それなら、キッドに電話で話させて、それをローザに聞かせる意味が出てくる。だが、そうなると、犯人は海上にいた人物だ、というエラリイの推理と矛盾をきたすことになってしまう[v]

 そもそも、犯人が犯行当時、海上にいた、という事実も証明されたわけではない。キッドがボートを出して、そのなかにクマーが乗せられていた、と推測されているだけである。小説の最後、嵐のなか、クマーが浜辺に泳ぎ着き、ずっと海上に囚われていた、と証言するが、これは、上記の電話やボートを出したことと矛盾をきたさないための偽証で、実際は、どこか陸上に隠れていたとも考えられる。しかし、そうすると、今度は、クマーは、なぜそんな、わけのわからない行動を取ったのか、が疑問となる。彼が犯人であるなら、上記のとおり、海上に出て殺人を実行しようとしているのに、わざわざ海に出る、と強調するのはおかしい。・・・いけない、推理が堂々巡りしてきた・・・。

 褒めるだけのつもりだったのに、ついまた、あら捜しをしてしまったようだ。しかし、まあ、それもエラリイ・クイーンの魅力ということで(どこが?)。

 ついでにもう一つ疑問を述べると、最初に読んだ時に思ったのは、なぜ、この犯人は全裸で犯行に及んだのか、ということだった。何で水着を着ていかなかったの、ということだが、エラリイは、被害者が全裸だったのは、犯人が全裸だったからだ、と断定するだけで、なぜ犯人は全裸だったのか、そもそもの理由を説明しないが、なんで?急所は隠すものじゃないの。それとも、えーと、・・・自信があったから?(失礼しました。)

 無論、犯人が水着でやってきていたら、この謎自体が成り立たない。水着を身につけていれば、そのまま陸路を通って逃亡できる、とエラリイが説明している[vi]。それなら、遊泳禁止区域だったという設定にして、水着で公道を往来するところを目撃されたくなかったから、という理由にしては、とも思うが、水着を着けていれば、その上に服を着ればよいので、そうすると被害者の下着まで取る必要はない。パンツ一丁(失礼しました)の被害者では、なんだか間抜けだから、その設定はやめたのだろうか(いや、水着は濡れているはずだから、脱ぐか。しかし、そもそも、自分が殺害した被害者の下着まで脱がして身につける、というのも、相当度胸がいりそうだが。別に、ノーパンでいいじゃん)。

 犯人が全裸だった理由を、さらに考えてみると、もし犯行現場付近で水着姿を誰かに目撃されたとしたら、誘拐が狂言だったことが、たちまちバレてしまう。全裸なら、何とか隙をついて脱出してきた、という風に装うことができる、ということなのだろうか。でも、全裸にされていたって、なんだかイケない想像をしてしまいそうになるが・・・。いえ、それは、こちらの勝手な妄想でした。

 

[i] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、50頁。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『エラリー・クイーン 推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、76頁。

[iii] エラリイ・クイーン『スペイン岬の秘密』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2002年)、47頁。

[iv] 同、48-49頁。

[v] クマーの告白では、実際に、ボートを陸に着け、キッドだけを上陸させたことになっている(同、459頁)。つまり、海に出たように見せかけたのは、キッドを陸路で逃がすためだった、ということなのだろうか。しかし、共犯者のためといっても、自身が疑われる危険を冒すのは、やはりおかしい。それに、キャプテン・キッドのような体格の人間が、陸路で逃げおおせると考えるのも、そもそも無理がある。ローザが自力で脱出して、その晩のうちに自宅に戻る可能性もないわけではない(ローザが絶対に脱出できないような状況を、この犯人がつくるはずがない)。そうなれば、直ちに海上が捜索されるだろう。

[vi] 同、440-41頁。