J・D・カー『火よ燃えろ!』

(犯人やトリックは明かしていません。)

 

 第五作『火よ燃えろ!』(1957年)[i]で、ディクスン・カーの歴史ミステリは新たな段階に入ったといえる。

 いわゆる「スコットランド・ヤード三部作」[ii]の第一作で、イギリス近代警察誕生秘話(フィクションだが)というべき内容である。

 警察機構の発展は、より大きな枠組みで捉えれば、近代国家形成の一局面で、死刑執行権を始めとして近代国家が暴力を独占行使していく過程で、外に対しては軍事力によって国家主権を担保する一方、内に対して、個人の暴力行使を原則禁止して法の支配を貫徹する歴史段階を表わしている。

 ハワード・ヘイクラフトの有名な評論によれば、ミステリは、独裁国家においては抑圧され、民主国家において栄えるという[iii]が、その観点からすれば、公平で客観的な捜査に基づいて犯罪を摘発する近代警察の創設は、エドガー・アラン・ポーによる近代ミステリの誕生と時間的に一致している点に注目すべきである。いくら名探偵が警察の無能を嘲笑っても、名探偵の推理を受け入れてくれる警察が存在しなくては、ミステリは成立しないし、犯人が明らかになっても、法の処罰を免れてしまうのでは、読者にとっても、およそフラストレーションのたまる結末にしかならないだろう。ミステリの発展も、近代警察機構の確立あってこそのものである。

 カーが果たしてそこまで意識してイギリス警察の草創期を歴史ミステリで扱うことにしたのかどうかはわからないが、警察官を主人公にすることによって、従来の歴史ものとはかなり違った印象の小説となった。もちろん、活劇シーンは健在で、本書でもヴァルカン(実在の人物らしい)の賭博場での乱闘場面は圧巻の迫力だし、もう一人の嫌な奴、ホグベン大尉との再三にわたる対決は、最後のカタストロフィに至るまでプロットを引っ張っていくが、これまでの剣戟(『ビロードの悪魔』)やボクシング(『恐怖は同じ』)対決とはだいぶ様相が異なる。そもそも、本書以前の歴史ミステリでは、主人公は爵位をもつ貴族が多く、名誉とかスポーツマンシップとかが主人公の行動規範となっていたが、そして、本書の主人公のジョン・チェビアトも、性格は彼らとさほど変わらないのだが、その行動を支えているのは、草創期の警察官が社会のなかで蔑視され、貶められることも多かった時代だからこその職業人としての矜持と使命である。

 また、カーの歴史ミステリは、1930年代のDevil Kinsmere (または『深夜の密使』)のようなロマンスや『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』のようなノンフィクションが17世紀の王政復古時代、すなわち近世を扱っていたことを考えると、少々意外なことに、18世紀末から19世紀にかけての近代を舞台にしたものが多い。『ニューゲイトの花嫁』がナポレオン戦争終結直後の1815年、『喉切り隊長』がまさにナポレオン戦争真っただ中の1805年、『恐怖は同じ』は、その直前の1795年である。つまり、1660年から1689年の王政復古時代が描かれるのは『ビロードの悪魔』のみということになる。そして『火よ燃えろ!』は、ナポレオン戦争の余韻が残る、従って反動的なウィーン体制下の1829年のロンドンで事件が起こる。一方で19世紀は、本書でも(第一次)選挙法改正(1832年)への言及が見られるように、自由主義の広がりと国民国家の世界的叢生とが進展する時代でもある。カーがこの時代を多く舞台に選んでいることから見ても、テーマが近代における警察機構創立の歴史へと向かうのは必然だったのかもしれない。

 恐らく、この時代(18世紀末から19世紀)のほうが書きやすいということもあるのだろう。資料も豊富で、風俗や習慣、人々のしゃべり方もそれほど現代と変わらない(ということもないだろうが)。17世紀のイギリス社会を正確に再現するのは、チャールズ2世大好き人間のカーにも骨が折れるということだろう。読む側からしても、新しい時代を対象とした小説のほうが読みやすいし、親しみやすい。19世紀も後半ともなれば、近代ミステリが生まれ、シャーロック・ホームズの登場もすぐそこである。新しい時代をテーマにという、読者からの要望もあったのかもしれない。もっとも、いっそ現代ミステリを書いてくれ、という声のほうが大きかったかもしれないが。

 ミステリとして見た場合、他の歴史ものと比べて、パズル興味が強まっていることが指摘できる。密室状況における不可能犯罪で、屋敷の広い廊下で、主人公を含む三人の目撃者に見つめられていた被害者が、誰ひとり銃を持った者はいないのに、どこからか発射された銃弾を受けて死亡する。

 そのトリックは、現実の事件で使用されたもので、カーにしては平凡であるが、その分、現実味がある。ここが本作のミステリとしての大きな特徴で、事件そのものがはなはだ現実的で、この作者には珍しい。チェビアトは、現代警察における指紋鑑定などの技術が利用できない不便さを嘆きながらも、手堅い捜査で事件の真相に迫っていく。名探偵ものというより、警察小説のようである(いや、「警察」小説なのだが)。意図的に、現実的なミステリを書こうとしたのではなく、スコットランド・ヤードをテーマにしたので、自然と現実味のある事件になったのだろう。『ビロードの悪魔』などとは大違いである。

 しかし、一方で、小説の主題自体は『ビロードの悪魔』に酷似している。現代人が過去に戻って、殺人事件に巻き込まれる(あるいは、自ら関与していく)というもので、このテーマでは、『ビロードの悪魔』(1951年)、『恐怖は同じ』(1956年)に続く「タイム・トラベル三部作」とも言える。もっともチェビアトは、悪魔と契約はしないし、現代でも過去でも殺人の罪で逃亡中というわけでもない。警視庁までタクシーに乗ったら、いつの間にか、1950年代から1829年に飛んでしまったのだ。その後、これはいつも通りだが、フローラという美女と乳くり・・・、いや、いい雰囲気になったり、猛烈に怒らせたりしながら、最後には、絶体絶命の瞬間に現代に舞い戻る。説明は一切なくて、一体何のために過去に戻ったのか、なんでそんなに都合よく現代に戻れたのか。そんな疑問をこの作者にぶつけても無駄である。

 しかし、このラストの鮮やかさは、カーの作品中でも屈指のもので、本書はこの最後の一行でミステリの快作たりえている。事件そのものの現実味とは対照的だが、この現実的なプロットと幻想小説のような結末の対比が見ものである。

 

 まったくの蛇足だが、本作でも、警察官がもつrattle(rattlerではないらしい[iv])は、「がらがら」である。旧訳の村崎敏郎訳だけではなく、新訳(といっても1980年)の大社淑子訳でもそうで[v]都筑道夫には気の毒だ[vi]が、やっぱり「がらがら」としか訳しようがないようですね。

 

[i] 『火よ燃えろ!』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)、『火よ燃えろ!』(大社淑子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)。

[ii] 第二作は『ハイチムニー荘の醜聞』(真野明裕、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、第三作は『引き潮の魔女』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)。

[iii] ハワード・ヘイクラフト『娯楽としての殺人 探偵小説・成長とその時代』(1941年:林 峻一郎訳、国書刊行会、1992年)、「第15章 独裁者、民主主義と探偵」、350-56頁。この文章は、江戸川乱歩によって、しばしば引用されてきた。江戸川乱歩「論理性を」『幻影城通信』(講談社、1988年)、13-14頁、「探偵小説の再出発」、同、19-22頁。

[iv] John Dickson Carr, Fire, Burn! (Carroll & Graf Publishers, 1987), pp.9, 136, 179.

[v] 『火よ燃えろ!』(村崎敏郎訳)、20頁、『火よ燃えろ!』(大社淑子訳)、19頁。

[vi] 都築道夫『死体を無事に消すまで』(晶文社、1973年)、30-31頁。都筑がエッセイに書いているのは『恐怖は同じ』ではなく、本書のほうだったようだ(出版が本書のほうが先)。