J・D・カー『ロンドン橋が落ちる』

(犯人やトリックを明かしてはいませんが、ところどころ真相に触れています。)

 

 『ロンドン橋が落ちる』(1962年)[i]は、前年の『引き潮の魔女』に続き、歴史ミステリとして発表された。『ビロードの悪魔』(1951年)以来、カー名義では、現代ミステリと交互に出版してきたのに、どうしたことだろう。

 多分、『引き潮の魔女』の舞台が1907年で、もはや歴史ミステリと言いにくいほど現代に近づいてきたので、もっと時代小説らしい作品を書きたくなったのだろう。

 そう考えると、本書の設定が1757年で、『ビロードの悪魔』の17世紀末ほどではないが、カーの歴史ミステリのなかでも古い時代を扱っている理由がわかる。ナポレオン戦争時代の『ニューゲイトの花嫁』、『喉切り隊長』より古く、『恐怖は同じ』の1795年より以前である。つまり、久々の歴史冒険活劇ミステリである。

 同時に、主人公がボウ・ストリート・ランナーズの捕吏なので、『火よ燃えろ!』(1957年)、『ハイチムニー荘の醜聞』(1959年)、『引き潮の魔女』(1961年)の「スコットランド・ヤード三部作」シリーズに連なる。三連作の続編、いや、シリーズ前日譚で、近代警察機構の確立以前における治安維持と犯罪捜査の一断面を描く「警察」歴史ミステリでもある。

 しかし、主人公のジェフリー・ウィンの目的は、恋人のペッグ・ラルストンが売春容疑でニューゲイト監獄に送られるのを阻止して、彼女と結婚することなのだから、普通の犯罪捜査ものにはなりようがない。殺人も辞さぬ覚悟でロンドン橋に住む老婆グレース・デライト[ii]から物盗りまでしようというのだから、実際に、何者かの手によってグレースが殺害された後も、客観的な捜査とは程遠い。やはり本書は警察小説というより、冒険活劇といったほうがよさそうだ。

 その老婆殺しは、刺し傷も殴打のあともない、殺害方法のわからない、一種の不可能犯罪だが、その謎解きは、ふ~ん、と頷く程度の出来で、こんなしょぼいトリックなら、いっそ不可能犯罪の謎などやめておいたほうがよかったのでは、と思わないでもない。それでもカーの小説なのだから、やっぱり、ないよりはましか。作者にしても、忠実な読者へのサーヴィスのため、これだけは入れておこうと思ったのか。「不可能犯罪のないカーなんて。」・・・そう言われればそうだが、なんだか因果な話だ。二階堂黎人による評価でも、「トリック自体はたいしたことがない」[iii]、の一言で片づけられている。という以前に、そもそも、わずか二行のコメントで、明らかに「全作品を論じる」建前なので、仕方なく二行だけでも書いてみた模様だ。

 もっとも、日本人にもお馴染みの「ロンドン橋が落ちる」という俗謡がトリック解明のヒントになるあたりは、いかにもカーらしい、そしてパズル・ミステリらしい趣向で楽しい[iv]。橋の両側に住居が立ち並んでいるという中世以来のヨーロッパの都市の景観描写も興味深い。冒頭、ジェフリーがペッグに、絶対に聞くはずのないものを聞いた、ロンドン橋の上で沈黙を聞いたよ、という箇所など、とくに印象的である[v]。きっと、この文句を書きたかったんだろうなあ[vi]。例の「好事家のための覚書」でも真っ先に取り上げている[vii]ように、ロンドン橋を描くことがこの小説の狙いのひとつであるのは確かなようだ。

 キャラクターは相変わらずの相変わらずで、主人公は終始不機嫌で、恋人のペッグに当たり散らす。ヒロインもヒロインで、当たり散らされて当然のような扱いづらい美少女で、自分勝手で我儘し放題。男に媚びて、同性に嫌われるタイプの典型のような娘である。盲目の判事ジョン・フィールディングや作家のローレンス・スターンなど、なかなか魅力的に描かれている人物もいるのだが、これまた相変わらずの回りくどいセリフの応酬で、話がちっとも進まない[viii]。誰かが何かをするよう指示されても、必ず一言口答えしてからでないと言うことを聞かないので、何でこいつら、こんなに面倒くさいのか、と読者は地団太を踏む。

 ヒロインの貞操がやたら問題になるのも特徴のひとつだが、性愛に関してあけすけなところがあるのが、この時代ということなのか、カーも調子に乗って主人公に名言(?)を吐かせる。

 

  「セックスを行使したことがないということで女を讃えるのは、頭脳を使ったこと

 がないといって男を讃えるようなものです」[ix]

 

 いや、これ、単なる女性蔑視発言でしょ。

 犯人の正体はまずまず上手に隠されているが、ペッグを追ってロンドン橋にやってきた主人公が偶々出会った人物が、彼らが敵対する別の人物と深い関係にある、などという(またしても)都合のよい偶然で物語が進行するので、どうみても、あまり上出来とはいえない。

 とまあ、散々悪口を連ねてきたが、実は初読以来、結構気に入っている作品である。細かな伏線や犯人の失態による手がかりなど、新味はなくとも熟練の技で、そつなくまとめられている。

 それに、巻頭早々から始まる主人公とヒロインのコメディ・タッチの痴話喧嘩がけっこう面白く、それがほぼ全編に渡るのは、辟易する人も多いだろうが、ヒロインも無鉄砲でおきゃんな(死語か)性格ながら、まんざら馬鹿でもなく、主人公への返しもなかなかのものである。

 

  「あんたはお金をもらっていますね?」

  「もっているわよ。・・・何故?それまで盗もうというの?」[x]

 

 例によって、主人公をしつこく付け狙う敵役の悪漢が二人も出てきて、どちらがどちらか全然見分けがつかないが、その一人との、中盤での銃による対決シーンは双方の駆け引きもあって、なかなか描写にも精彩がある。結構迫力もあって劇的である。この場面を読むと、やはり、こういうシーンを久しぶりに書いてみたいと思ったらしいことがわかる。

 主人公が(ヒロインに怒っているとき以外は)あまり感情を表さず、上記のような、そして小説のラストのような警句[xi]を時々吐くほかは、寡黙で秘密主義なところなど、何だか時代小説版ハードボイルド・ミステリのようでもある。ロス・マクドナルドあたりを参照したのだろうか。

 1973年の刊行以来、文庫化されることもなく、中途半端な時期に訳されたこともあって、1990年代以降のカー長編の怒涛の翻訳ラッシュに乗ることもなかった不遇の一編で、さして注目されることのないまま現在に至っているが、カー本来の歴史ミステリの性格を備えた最後の作品ともいえそうだ。この後、カーは実質二年のブランクを経験することになる[xii]ので、一つの節目に当たる小説であることは確かだろう。

 

[i] 『ロンドン橋が落ちる』(川口正吉訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1973年)。

[ii] 細かいことだが、主人公が、被害者とペッグが親子であることを説明する場面で、グレースが1677年生まれである、と書かれているが、その後の記述と明らかに矛盾している。おかしいなと思って原書を見ると、1677ではなく1688年だった。現行のままだと、60歳近くなって娘を生んだことになるので、できれば訂正しておいたほうがよいでしょうけどね。『ロンドン橋が落ちる』、255頁。John Dickson Carr, The Demoniacs (Bantam Books, 1968), p.163.

[iii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、389頁。

[iv] 『ロンドン橋が落ちる』、154-56頁。

[v] 同、17頁。

[vi] “I have heard something I never thought to hear.”… “I have heard silence on London Bridge”, The Demoniacs, p.5.

[vii] 『ロンドン橋が落ちる』、299-300頁。

[viii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、439頁参照。

[ix] 『ロンドン橋が落ちる』、39頁。

[x] 同、127頁。

[xi] 同、298頁。

[xii] 1963年は長編の刊行はなし。翌1964年の『深夜の密使』は旧作の再刊だった。