カーター・ディクスン『恐怖は同じ』

(本書のトリックを明かしていますが、犯人は明かしていません。)

 

 『恐怖は同じ』(1956年)は、『騎士の盃』以来、三年ぶりのカーター・ディクスン名義の長編だった。そればかりではなく、同名義の最後の長編小説となってしまった。しかも、ヘンリ・メリヴェル卿のシリーズではなく、歴史ミステリである。

 あれほどお気に入りだったヘンリ卿を前作で見限った格好だが、その後も、H・Mシリーズを再開させる意欲はあったらしい[i]。それが結局断念されたのは、もはや戯画的な探偵は時代に合わない、と思い切ったせいだろうか。ヘンリ卿のようなタイプの名探偵は、ジョイス・ポーターのドーヴァー警部、レジナルド・ヒルのダルジール警視など、一つの定番としてミステリの歴史に命脈を保っている[ii]が、ドーヴァー警部の登場[iii]がもう少し早ければ、H・Mシリーズもさらに続いていただろうか。

 ディクスン名義のラストが歴史ミステリだったことも、なんとも座り心地の悪さを感じさせる。歴史ミステリを始め、新境地を開いたり、異色作はカー名義で、というのが最初からの方針のようだった。ディクスン名義は、H・Mシリーズ専用と思い込んでいたのに、あにはからんや。とはいっても、状況はよくわかる。同年のカー名義長編は『バトラー弁護に立つ』で、フェル博士シリーズからの派生作品、今風に言えばスピン・オフで、ディクスン名義には合わない(カー名義の短編集にヘンリ卿が登場する短編が収録されるなどといった例はあるが)。ディクスン名義のほうの出版社の要請もあって、歴史ミステリだが、やむなく、そちらに回したのだろう。

 ちなみに、これもいつもと違って、通例、歴史ミステリといえば、カーが得意気に付記する「好事家のための覚書」が本書には付いていない。原書をもっていないので確かめられないが、訳書でカットしたというわけではないのだろう。その代わり、あとがきで訳者の村崎敏郎が、作品の背景をかなり詳しく解説してくれている。何かと物議を醸した村崎氏だが、歴史的文学的教養の深さはさすがである。余計なことかもしれないが、村崎氏というと、例の「ガラガラ事件」を思い出す。都筑道夫早川書房編集長の頃、ある訳者が、作中に登場する、初期イギリス警察の警吏が持っていた「鳴子」(都築氏の訳)のような音を立てる道具を「ガラガラ」と訳して、氏を閉口させた、という逸話である[iv]。都筑は、配慮して訳者の氏名は伏せているのだが、これはどうみても村崎敏郎ですな[v](間違っていたら、ごめんなさい)。いろいろ叩かれたこともあったが[vi]、氏のおかげでカーの小説をたくさん読めたのも事実で、やはりカーとは切っても切れない名前だろう。

 話がどんどん逸れているが、本書は、歴史ミステリとしては四作目、二作目の『ビロードの悪魔』と同じく、現代人が過去に戻って殺人事件を解決する、というタイム・スリップものの第二弾である。というより、むしろ、最近の我が国のライト・ノヴェルで人気の「異世界転生もの」に近い。過去に戻る原理も理由もわからないまま、ただ主人公たちが時間と空間を飛び越えて、事件に翻弄されるというプロットだからである。『ビロードの悪魔』では、過去の事件を解決したい主人公が悪魔と契約する、という理由と手段がはっきりしていた(悪魔の力を借りて過去に戻るというのが、真っ当な説明と言えればの話だが)。

 主人公のフィリップ・クラバリングとジェニファ・ベアドは、20世紀に生きていたという以外の記憶をほとんど失ったまま、1795年のイギリスで別人同士として再会する。クラバリングには冷え切った関係の妻クロリスがおり、ジェニファには婚約者のディック・ソーントンがいるが、クラバリングは前世(未来だから、前世もおかしいが)においても、妻と同じような関係にあったことを思い出す。何よりも、二人には、現代でも、同じように愛し合っていた、おぼろげな記憶が残っている。クラバリングは、ジェニファの結婚を阻止しようとして、父親のソーントン大佐と激しく対立するが、大佐は、実はクロリスの愛人でもあり、クロリスは大佐との逢瀬のために、いつも侍女のモリーを身代わりに部屋に残していた。クラバリングは、クロリスと直談判しようと部屋に押し入って、そのことを知る。そしてその後、クラバリングが異常な眠気を感じて寝入ってしまうと、その間に、内部から鍵のかかった部屋の中でモリーが殺害されているのが発見される。殺人の疑いをかけられたクラバリングは、ジェニファとともに、官憲の手を逃れ、彼を狙うソーントン大佐や賭けボクシングの胴元をしているサミュエル・ホーダーとの対決のすえ、ついに殺人の謎を解く。

 というストーリーだが、もうひとつの注目は、歴史上の人物、とりわけ、ときの摂政皇太子ジョージ・オーガスタス・フレデリック(後のジョージ4世、在位1820-30年)の存在である。そもそも、ハノーヴァ朝は、カーがごひいきのステュアート朝に代わって、ドイツからやってきた王朝(1714-1901)で、カーが好意を抱いていたとも思えないのだが、そして、実際、本作でのジョージ皇太子は、あんまりいいようには描かれていない(むくんだような赤ら顔でデブ、と、どうみてもカッコよくはない。もちろん、歴史的事実に基づいているのだろうが)。しかし、この皇太子が、劇作家のシェリダンなどとともに、なかなか活躍する。

 ところが、初めて顔を合わせた晩餐会で、クラバリングは、皇太子がかつてカトリックの女性と秘密結婚していたという極秘事実を暴露してしまう。すぐに、まずいと気づくのだが、これは(例によって)歴史に造詣が深いという設定の主人公にしては、ありえない失言だろう。1689年の名誉革命権利章典が「王位継承者は国教会信徒に限る」と定めたように、カトリックの信仰はこの時代の表舞台では御法度である。いくら過去に戻って混乱していたにしても、こんな失態はうっかりすぎる。

 犯人当てのほうは、鍵のかかっていた秘密の出入り口が道具を使って簡単に開けられるなど、いいかげんだなあ、と思うところもあるが、なかなか巧妙にできている。『ビロードの悪魔』や『喉切り隊長』のような意外な犯人の大技ではないので、一見パッとしないが、二階堂黎人によれば、「非常にオーソドックスなフーダニットの佳作」[vii]であり、ダグラス・グリーンも「『恐怖は同じ』は力強い物語だ」[viii]、と言い、さらに「ジョン・ディクスン・カーの歴史物の最高傑作」(「おそらく」つきだが)[ix]とまで評価している。

 個人的には、初読のときには、あまり面白いと思わなかったのだが、やはり結末の意外性を期待しすぎていたのだろう。読み返すと、諸氏の評価のとおり、力作感が強い。主人公達が次々に迫りくる危機に次第に追い詰められていく様が、非常な緊迫感をもって描かれ、ページを繰る手を休ませない。またまた恒例のように、主人公がいらぬ挑発に乗って決闘に応じるなど、危険を自ら招いているようでイライラするが、しかも、最後、クラバリングとジェニファが追っ手を逃れて雨のなかを走り抜けていくと、いつの間にか現代に戻っている。戸惑う二人の前に、警察がやってきて、現代でフィリップが疑いをかけられていた殺人事件のほうも、犯人が自殺して解決したことを伝える。一件落着の結末に、安易だなあ、と思わないでもないが、いつの間にか過去へと転生し、いつの間にか現代に戻ってくる、というプロットは、これで正解だったようだ[x]

 グリーンによる「歴史物の最高傑作」という評価もあながち間違ってはいない。意外な結末こそないが、終盤、主人公がヒロインにつぶやく「すべての時代ごとに、あらゆるものが変わる。・・・しかし恐怖は同じだ」[xi]、という言葉は、本書のようなアイディアの小説ならではの決めの一言といえる。最後、ジェニファに「あれは夢だったの」と問われて、フィリップが答える「わたしにはわからない」、という言葉は、カーの全作中で、もっとも深い余韻を残す。

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、406-409頁。

[ii] 芦辺 拓/有栖川有栖/小森健太郎二階堂黎人編緒『本格ミステリーを語ろう![海外編]』(原書房、1999年)、217頁。

[iii] ジョイス・ポーター『ドーヴァー1』(1964年)。

[iv] 都築道夫『死体を無事に消すまで』(晶文社、1973年)、30-31頁。原語はrattlerらしい。rattleは「ガラガラ鳴る」という意味で、確かに「ガラガラ」には違いない。rattlesnakeは「ガラガラヘビ」である。そういえば、ラトルスネイクスというポップ・グループが昔あったなあ。

[v] 『恐怖は同じ』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1961年)、200、213頁。

[vi] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)を参照。

[vii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、386頁。

[viii] グリーン前掲書、411頁。

[ix] 同、413頁。

[x] カーは、最初、過去に戻る「論理的な」(?)説明方法を模索していたらしい。同、410頁。

[xi] 『恐怖は同じ』、257頁。