J・D・カー『バトラー弁護に立つ』

(本書のトリックその他のほか、F・W・クロフツの長編の密室トリックを明かしています。)

 

 『バトラー弁護に立つ』(1956年)は、『疑惑の影』(1949年)以来、パトリック・バトラーが7年ぶりに登場したミステリである。といっても、バトラーが探偵を務める作品は、これら二作だけだが。それに、同じく『疑惑の影』に出ていたフェル博士は、どうしてしまったのか。不遇な扱いに涙が出る。

 本作がフェル博士向きでないことは事実だ。1950年代以降、カーの仕事の中心は歴史ミステリになったが、恐らく、資料集めなどを含めて執筆に時間がかかるのだろう。その反動か、現代ミステリのほうが、歴史ミステリ以上にパズル要素が減って、スリルとアクションを強調する作風になった。本書はその典型で、歴史ものをさらに軽く、読みやすくした感じである。軽本格というか、名前を挙げるのは失礼かもしれないが、我が国の島田一男のような印象だろうか。

 主人公の弁護士ヒュー・プレンティスが殺人の罪を着せられ、逃亡する彼をバトラーが助けて、事件を解決するという筋立てである。助けるのは、事件の解決ばかりではない。腕っぷしでも頼りになれば、すこぶるつきの美女も紹介してくれる。何かと有能なバトラーである。

 その腕っぷしをふるう場面。プレンティスとバトラーが、被害者の妻が出演する劇場に向かう途中、犯人の意を受けた謎の黒幕配下のならず者たちに待ち伏せされる。ロンドンの夜の霧のなかから三人の無頼漢が現れるシーン[i]は爆笑ものである。マカロニ・ウェスタンじゃないんだから。

 このように、本書のもうひとつの特徴は、こちらも軽本格らしく、ユーモアである。もっとも、上記の場面、作者は、ギャグのつもりではないのだろう。例えば、ヘンリ・メリヴェル卿シリーズのユーモアは、ヘンリ卿自身の滑稽な言動によるものだが、本書のユーモアは、それとは異なって、なんというか、コントのようなギャグである。例えば、次のようなものだ。

 冒頭、プレンティスが、婚約者のヘレンと事務所の彼の部屋で時間をつぶしている。堅苦しいしゃべり方のヒューに、ヘレンが、あなたは本当は冒険好きの男の子で、今晩だって、突然、謎のアラビア人が訪ねて来て、密室の謎を解いてくれ、なんていう。内心、そんなことを期待しているのよ、とからかうと、プレンティスが、バカなことを言わんでくれ、と言い返す。その途端、ノックの音が聞こえて、ドアを開けると、アラビア人の男が立っている[ii]

 アブーと名乗るその男は、金銭を騙し取られたので相談に来た、と言い、すべての原因は「あなたの手袋にある」[iii]、と奇妙な発言でヒューを困惑させる。

 ヘレンが帰ったあと、男を部屋に待たせて、ヒューが同僚のジム・ヴォーンとドアの前で話し合っていると、室内から突如悲鳴があがる。慌ててヒューが駆けよると、男は胸を刺されて死にかけている。最後の言葉は「あなたの手袋」だった。

 動転するヒューとジム。パトリック・バトラーに助けを求める、と言い捨てて、止めるジムを置いてヒューが事務所を飛び出すと、ビルの入り口で警官と正面衝突してしまう[iv]

 何とかごまかして、バトラーのフラットにたどり着いたヒューだが、主人の所在を聞くと、応対した書記は、バトラーなら警視庁に行っている、と教える[v]

 警視庁にやってきたヒューは、入り口の警官に、バトラーという名の弁護士(a barrister named Butler)を探しに来た、と言うところを、思わず、弁護士という名のバトラー(a butler named Barrister)を探しに来た、と言いそうになる[vi]

 この後、パメラ・ド・サックスという、頭がお花畑のような美女が登場して、彼女とバトラーとの掛け合いが、またおかしい。カー長編には珍しいタイプで、読者は、ヒロインは当然ヘレンのほうだと思うのだが、彼女が意外に腹黒い女であることが判明して、ヒューはパメラのほうに魅かれていく。ただ、パメラが実は思慮深い利口な女性で、愚かな女のふりをしていただけ、とわかると、何だか、ぶりっ子アイドルみたいで、興ざめである。もっとも、いつまでも天然なままでは、主人公とのロマンスに発展しにくいので困るのだが。実は、性格が悪いとわかったヘレンのほうが、最後にバトラーといい仲になりそうになるのも面白い。

 パズル要素としては、ダイイング・メッセージを扱っているのが、カーにしては珍しいが、それを解く鍵が、前作の『喉切り隊長』同様、フランス語にある。前作では、何のことかわかんねえぞ、という非難の手紙でも来たのだろうか。本作では、プレンティス以上にフランス語が解らない筆者でも理解可能な、フランス語の発音から生じる簡単な錯覚を利用している。

 密室の謎のほうは、もはや、この時代のカーに、かつてのトリック・メイカーぶりを期待すべきではない。しかし、つまらないというわけでもなく、クロフツなどにも類似例のある、開け放したドアの後ろに隠れる、というお手軽なトリックで[vii]、軽いタッチの本作にはむしろ合っている。このほかにも、上記のアクション・シーンに、ちょっとした手がかりが仕込んである[viii]のも、カーらしい周到さである。しかし、犯人の背後にいる闇の大物がバトラーとプレンティスをおびき出す手口は大雑把すぎてたわいない、とダグラス・グリーンはいうが、そして、確かにそのとおりではあるが、そもそも、その黒幕の人物の娘がパメラだった、というのも、あんまりな偶然だろう[ix]

 たわいない、というのは、本書を形容するのにぴったりかもしれない。トリックもお手軽で、プロットも行き当たりばったり、歴史ミステリを書く間の箸休めの一作?と思えば、高評価は期待できそうもないが、腹も立たない。実際、二階堂黎人によれば、「可もなく不可もなし」[x]。ポケット・ミステリ版には、あとがきも解説もない。もし書かれていたにしても、多分、大して褒められはしなかっただろう。どちらにしても、傑作にはほど遠い。

 しかし、個人的には好きな作品である。好き嫌いでいえば、カーのベスト10に入れてもいいとさえ思っている。パトリック・バトラーを始めとするキャラクターと事件の展開、トリックやユーモアなどとのバランスが取れていて、大変面白い。今回、再読して、三回目か四回目だが、やはり楽しかった。別に、楽しいんだからいいだろう!(開き直ってますな。)  

 賛同する人はいないと思っていたが、一人思い出した。都筑道夫である。カー追悼号のハヤカワ・ミステリ・マガジンで、「大衆冒険小説の味が洗練されている」[xi]ので好きだ、とのこと。さすが、都筑先生、お目が高い。気分がよくなったところで、終わりにしよう。

 

[i] 『バトラー弁護に立つ』(橋本福夫訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1957年)、104頁。

[ii] 同、15頁。

[iii] 同、20頁。

[iv] 同、32頁。

[v] 同、39頁。

[vi] 同、41頁。John Dickson Carr, Patrick Butler for the Defence (Penguin Books, 1959), p.31. もちろん、バトラー(Butler)という名が執事(もともとは、封建時代の王侯の酒蔵係りを指す)を意味する普通名詞から来ていることから、弁護士(barrister)とかけたギャグである。

[vii] F・W・クロフツ『二つの密室』(1932年)。

[viii] 暴漢のひとりが肩をナイフで貫かれて、しばらく呆然としたあと、悲鳴を上げる箇所。『バトラー弁護に立つ』、107頁。

[ix] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、416頁。

[x] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、385頁。

[xi] 都筑道夫「私のカー観」『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』No.255(1977年7月号)、133頁。