カーター・ディクスン『赤後家の殺人』

(犯人やトリックを明かしてはいませんが、内容に触れています。)

 

 『赤後家の殺人』(1935年)は、ヘンリ・メリヴェル卿シリーズの第三作で、『黒』、『白』に続くMurders in Colours(ただの造語です)三部作の最後の長編である。

 現在では、創元推理文庫から、これら三作品が揃って刊行されているが、かつては、『赤後家の殺人』[i]のみで、『黒死荘の殺人』も『白い僧院の殺人』も読めない、という悲惨な状態が続いていた。つくづく良い時代になったものだ。

 『プレーグ・コート』、『ホワイト・プライオリ』そして『レッド・ウィドウ』の三作は、ヘンリ・メリヴェル卿シリーズの代表作で、カー(ディクスン)の長編のなかでも指折りの佳作といえる。いずれも不可能犯罪を扱い、そのトリックは読者を驚嘆させること請け合いである。

 ただし、『赤後家』の場合、密室トリックの核となるのは、江戸川乱歩が「如何なる探偵小説通と雖も気付き得ないような一種不可思議な」[ii]、と讃嘆したものであるが、明かされてみると、案外小粒なアイディアで、『黒死荘』同様、それを密室に応用した発想が優れていた。『白い僧院』に同じく、途中で偽の解決方法が示されるが、(マスターズ警部には悪いが)これが割とくだらない仮説で、『白い僧院』ほど効果的ではない(『白い僧院』の場合、仮説が否定されるたびに、不可能状況が際立っていく絶妙な展開となる)。とはいえ、この仮説によって、謎の一部が解けるようになっており、そのあたりはさすがに老獪である。

 メイン・トリックを除くと、副次的な謎やトリックにはこれというものがない。犯人特定の手がかりとして、密室の早業トリック[iii]を応用したようなアイディアが用いられており、盲点をついてはいるが、眼をみはるというほどではない。パズル・ミステリとしては、『黒死荘』と『白い僧院』に一歩譲るというところだろうか。

 乱歩は、先の引用のとおり、本作を高く評価し、『帽子収集狂事件』や『プレーグ・コート』などとともに第一位に挙げている[iv]松田道弘は、この乱歩の選定には否定的だが、理由はとくに述べていない[v]二階堂黎人は、密室殺人の場面設定を絶賛しているが、それ以上に、フランス革命をめぐる「伝奇部分」を評価している。「カーの歴史趣味の発端がここにあり、しかも見事なほど面白い」[vi]

 確かに、二階堂が指摘するように、作品を彩るムードや描写には見所が多い。

 冒頭、マントリング邸に招かれたテアレン博士が、薄暗いホールのなかでトランプのカードが舞い踊るのを目撃する場面は、とくに印象的である。「いったい、部屋が人間を殺せるものかね?」という言葉から、誘われるままに夜のロンドンを歩いていくと、突然呼びとめられ、屋敷へと招き入れられる、という導入部は、ミステリ・ファンならわくわくするだろう。ひとりでいると死ぬ、という部屋にカードで選ばれた客のひとりがこもる。その間、一族の来歴が語られて、フランス革命で多くの国家反逆者をギロチンで屠ったサンソン家の末裔であることが知らされる。何とも濃密で、陶酔へと読者を誘い込むカー一流の語りが最高度に効果を発揮している。

 この奇怪でグロテスクな、しかし蠱惑的雰囲気は、フランス革命が背景にあることもあって、バンコランのシリーズを彷彿とさせる。『黒死荘』の暗黒のイメージに負けない、強烈な暗赤色の恐怖を湧きあがらせる。

 本作の犯人も、これまでと一味違ったキャラクターの持ち主である。イーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』(1922年)やヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929年)の犯人のような、いわば知的強者だが、反面、姑息さや卑小さを内に隠しているカーらしい犯人像である。惜しむらくは、もっと知的強者に相応しい思想や信条が発せられれば-作中で一か所、ナチス・ドイツのような優生思想を披瀝するが-、より印象は強くなっただろう。しかし、そこはあまりカーの得意とするところではない。

 それにしても、最後に、テアレン博士が次のように発言する。

 

  「まあ、あの女性としては、最後まで夫に忠実であるべきでしょう。そうでなけれ

 ば、とりえのない女になってしまいますからね。」[vii]

 

 博士は、密かに、この女性(犯人の婚約者、実は秘密裏に結婚していたことが明らかとなる)に思いを寄せていたらしい。随分、嫉妬心丸出しの発言だが、その後、こうも述べる。

 

  「これはけっきょく、われわれは生涯独身でおるべきだという、よい教訓になりま

 したね。」[viii]

 

 これを書いていた時、カーは夫人と喧嘩でもしていたのだろうか。それとも、順調な結婚生活の裏返しの余裕の発言だったのだろうか。もう過ぎたこととはいえ、しかも余計なお世話だが、いささか気になる。

 

[i] 『赤後家の殺人』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1960年)。

[ii] 江戸川乱歩幻影城』(1951年、講談社文庫、1987年)、137頁。

[iii] 密室に突入した後、まだ生きている被害者のもとに犯人がいち早く駆け寄って、他の目撃者が気づかぬうちに殺害するというトリック。

[iv] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、313頁。

[v] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、206頁。

[vi] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、358-59頁。

[vii] 『赤後家の殺人』、392頁。

[viii] 同、393頁。