J・D・カー『嘲るものの座(猫と鼠の殺人)』

(本書の内容を開示している他、関連するカーの諸作およびモーリス・ルブランの短編小説の題名を注で挙げているので、ご注意ください。)

 

 『嘲るものの座(猫と鼠の殺人)』(1941年)は、1940年代前半の典型的なカー作品である。

 余分な夾雑物のないシンプルなプロットで、たったひとつの謎にすべてを賭けている。独創的なトリックや新しいアイディアが用いられているわけではないが、最後の謎解きで真相が明らかになる瞬間は、奇術の舞台で、箱のなかに消えた術者が、一瞬で客席に現われる驚きがある。まさに、目からうろこが落ちる。

 ハヤカワ・ポケット・ミステリ[i]に収録されていたが、1981年に創元推理文庫から新訳が出て[ii]、手に取りやすくなった。後者の翻訳を担当した厚木 淳があとがきを書いていて、そこで「本書はカーのミステリの中で訳者がもっとも高く買う作品の一つである」[iii]とある。この文章につられ意気込んで読んだら、期待にたがわぬ出来栄えだったことを覚えている[iv]。すごいぞ、厚木 淳。でも、タイトルは、カー自身が長年温めていた[v]という『嘲るものの座(Seat of the Scornful)』のほうが良かったかな。

 だが、期待しすぎると、拍子抜けするかもしれない。江戸川乱歩は「カー問答」で、本作を第三位の10作品のなかに挙げていて、どれも不可能興味とサスペンスがあるが「解決がそれに比べて何となくあっけない」[vi]、と述べている。この評価はよくわかる。40年代前半の長編は、比較的短いが無駄なくまとまって、名刀のような切れ味(ちょっと大げさかな)があるが、反面、重厚さに欠け、30年代の作品のように、描写の積み重ねで雰囲気を盛り上げて作品世界に引き込む魅力、引き込まれる快感は薄い。すらすら読めるが、あっという間に読み終わる、という物足りなさも残る。本書の場合も、終盤に人けのなくなったプールで登場人物のひとりが何者かに襲撃されるスリリングなシーンが出てくるが、こうしたある意味余分な場面は他にはほとんどなく、殺人の謎のみがひたすら追求される。

 謎と言っても、密室とか足跡のない殺人とかの謎ではない。もっと微妙なもので、よくいえば心理的な謎である。

 峻厳な判事として、犯罪者に対し冷酷な態度を取ることで知られる人物が本書の主役で、作品の謎は、ただただ、この人物の性格に関わる、と言ってよい。彼の娘と婚約した男が、例によってカー作品にお馴染みの胡散臭い美青年である。ナイト・クラブを経営しているというジゴロのような男で、過去に愛人とのトラブルで発砲騒ぎまで起こしている。当然、疑惑にかられた判事は、自分が手塩にかけてきた若い弁護士を娘と結婚させようと考えていることもあり、初めから敵意むきだしで婚約者に会う。予想通りの男とみた判事は、金を渡して手を引かせる約束をする。翌晩、判事の住むバンガローから、助けを求める通報があり、警官が急行すると、婚約者の青年が書斎の電話の傍らで頭を撃たれて死亡している。側には凶器の銃を手にしたまま、茫然と椅子に腰を下ろしている判事がいた。

 実は、婚約者は、案に相違して、娘を食い物にしようとしたわけではなく、成功した青年実業家だったことがわかる。判事の態度に腹を立てた彼は、約束した金を判事に叩きつけ、娘と結婚するつもりだったのだ。それでも、必ずしも好意的に描かれていないところがカーらしいが、父親と婚約者の話を盗み聞きしていた娘や、判事の薫陶を受けてきた青年弁護士らが絡んで、事件は混迷の度合いを深めていく、という展開。

 事件の謎は、要するに判事が犯人かどうか、この一点に絞られる。最大の動機をもつのは、いうまでもなく彼である。他に、婚約者が自分を金で売ったと思い込んでいた娘や、彼女に思いを寄せているかにみえる弁護士の青年などが、容疑者に含まれるが、謎はほぼ、判事が犯人だとすれば、なぜこれほどあからさまな状況で殺人を実行したのか、という点に集約される。犯罪に通暁し凡庸な犯罪者を軽蔑していた判事が、どうしてこのような稚拙な犯行に踏み切ったのか。わざと疑いを自分に向けて、後で無実の証拠を出そうというのだろうか。それにしては、あまりに無手勝流過ぎ、あまりに無防備である。そうなると、ほかに犯人がいるのか。いきなり最後に、あっけにとられるような犯人と予想外の動機を引っ張り出すのがカーの常套手段だとしても、登場人物はそんなに残っていない。結局、判事が犯人だとしても、他に犯人がいるにしても、たいして意外な結末になどなりそうもない状況なのだ。

(以下、真相)

 それでも、やっぱりというか、なんというか、判事が犯人なのである。

 それじゃあ、破れかぶれの犯行だったのか、それとも、いくら犯罪を知り尽くしていても、いざ実行するとなると失敗するものだ、という教訓なのか、と思っていると、さにあらず。偶然の積み重ねで、このような奇妙な殺人事件となったことが明らかとなる。基本的なアイディアは目新しいものではなく、むしろ陳腐なものである。致命傷を受けた被害者がある行動を取った後息絶える、そのことによって不可思議な状況が生まれる、というのは、例えば、これを密室に応用したモーリス・ルブランの傑作短編[vii]がある。カー自身にもその応用例[viii]がある。乱歩は、「カー問答」のなかで、このアイディアを死体移動トリックに分類しているが、頭に銃弾を受けても死なずに動き回る、という本作のアイディアを「想像の外だよ」[ix]、となかば呆れ、なかば称賛している。しかし、頭を撃たれようがなにしようが、ミステリを読みなれた読者はさほど驚かないだろう。本作のアイディアは、そうしたミステリ・マニアのほうが面白がるのかもしれない。定石のようなアイディアなので、ここでその手を使うのか、という驚きが本作の意外性に繋がっているように思える。この点を面白いと思うかどうかが、本書に感心するか、失望するかの分かれ目のような気がする。

 本書の犯人の類型は、要するに、一番疑わしい容疑者がやはり犯人だった、というものである。このアイディアの作品もすでにカーにはある[x]。しかし、その長編がいささか強引な力技だったのに比べると、本作は、巧みに読者の盲点を突いたカード・マジックのような軽やかさがある。

 さらに別の角度から見ると、『嘲るものの座』のプロットは、40年代のカー作品に顕著な、「犯人の計画が破綻することによって生まれる謎」を扱っている。『かくして殺人へ』(1940年)や『九人と死で十人だ』(同)でも同様だが、犯人はへまをして計画に失敗する。ところが、そのことによって意外極まる事態が生じるのである。本書では、策を弄するのは被害者のほうで、彼が死亡することで、その計画もまた頓挫するのだが、その結果、犯人に対しても、思いもよらない不可解な状況を突きつけることになる。

 犯人の単純な殺人計画が、被害者や第三者の介入によって複雑化したり、犯人の計画が破綻して修正を余儀なくされることで、新たな謎が生まれる。都筑道夫が提唱したモダン・ディテクティヴ・ストーリー[xi]に連なる作品群が、40年代のカーによって幾つも産み出されていたことに、改めて注目すべきだろう[xii]

 

[i] 『嘲るものの座』(早川節夫訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1955年)。1995年に再刊が出た。というか、再刊まで40年かかっている。売れなかったのね。

[ii] 『猫と鼠の殺人』(厚木 淳訳、創元推理文庫、1981年)。

[iii] 同、286頁。

[iv] つまり、ハヤカワ・ポケット・ミステリ版は未読だった。二階堂黎人は、本書をして「翻訳の力がどれだけ作品の評価に影響を与えるかという良い見本だ」、と評している。二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、375頁。

[v] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、284頁。

[vi] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、342-43頁。

[vii] モーリス・ルブラン「テレーズとジェルメーヌ」『八点鍾』(1923年)所収。

[viii] 『三つの棺』(1935年)。

[ix] 同、354頁。

[x] 『死時計』(1935年)。

[xi] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)参照。

[xii] 考えてみれば、30年代の『帽子収集狂事件』(1933年)や『三つの棺』も、偶然や犯人の計画の失敗で謎が生まれる、というプロットだった。ただ、それを活かすテクニックが、40年代前半の諸作では格段に洗練されてきている。