J・D・カー『死が二人をわかつまで(毒殺魔)』

(1930年代および40年代前半におけるカーの密室ミステリ、およびヴァン・ダインの長編小説のトリックに触れています。)

 

 『毒殺魔』[i]もしくは『死が二人をわかつまで』[ii](随分対照的な邦題だな[iii])は、三年ぶりのフェル博士シリーズ作品である。『嘲るものの座(1941年)以来、1942年はシリーズ外の『皇帝のかぎ煙草入れ』、1943年は、初めてカー名義の長編が出版されず、1944年の本書が久々の博士登場作だった。

 ところで、二階堂黎人によると、「カーの邦訳された本の中で、長い間最も入手困難だったのが、創元推理文庫に入っていたこの作品(『毒殺魔』)だった」[iv]、という。

 へえ、そうなんだ・・・。まあ、わたしは持ってるけどね(と、そっくりかえる)。

 吉祥寺の古本屋で、100円で購入したけどね(と、さらにそっくりかえる)。

 ただ、残念ながら初版本ではない(1961年の再版)。クゥ~っ。

 無駄な自慢はそれくらいにして、本書はまた、三年ぶりの密室ミステリでもある。しかも、同じ1944年のディクスン名義の『爬虫類館の殺人』[v]も密室殺人を扱っている。年二冊の密室ミステリというと、カーでも、他に1935年しかない(『三つの棺』と『赤後家の殺人』)。これはクレイトン・ロースンとの親交なども影響しているのだろうか[vi]

 ちなみに、『三つの棺』のおなじみ「密室講義」では、密室トリックの大分類として、「犯人が密室内にいなかった場合」と「犯人が密室内にいた場合」の二つを立てているが、本作以前のカーの密室ミステリは、ほぼすべて前者に属している。『夜歩く』(1930年)、『弓弦城殺人事件』(1933年)、『黒死荘の殺人』(1934年)、『赤後家の殺人』(1935年)、『三つの棺』(同)、『孔雀の羽根』(1937年)、『ユダの窓』(1938年)、いずれもそうである。もうひとつの大分類の「犯人が密室内にいた場合」というのは、要するに、犯行後、犯人がドアや窓に細工して外部から施錠するトリックだが、カーはこの分類の密室小説を書いてこなかったのだ。言い換えると、カーの密室は、大体、被害者が部屋を密閉するタイプである(『夜歩く』と『弓弦城』はそもそも施錠されていないので、例外)。

 ところが1941年の『連続殺人事件』では、大盤振る舞いで二つの密室が扱われているが、うち一つでは、ドアを外から施錠するトリックが用いられている。そして本書と『爬虫類館の殺人』の密室も同じパターンである(ただし、本書は窓を使い、『爬虫類館』は施錠ではなく、部屋を外から密封する)。この発想の変化はなにに起因するものなのだろうか。

 外からドアを施錠するトリックで一番有名なのは、ヴァン・ダインの某長編[vii]だろう。本書のトリックも同じ原理(いわゆる「針とピン」のトリック)を利用している。ただし、この手のトリックはドアの下に隙間がないと成り立たないが、本作では、隙間のない窓の掛け金を外からかけるために、別の工作を加えることで可能にしている。それが本書の密室トリックの眼目だが、「針とピン」を使う小手先芸の密室トリックを嫌っていたかに見えるカーが、あえてこうした小技を用いている点が、まず本作の特徴だろう。30年代のカーの密室ミステリが、ヴァン・ダインの用いたトリックと異なるパターンを多用したのは、逆に、ヴァン・ダインの影響力の大きさを意味しているのかもしれない。40年代になると、さしものカーも、30年代に多用したパターンを書き尽くしてしまい、発想を変えて別の角度からトリックの案出に取り組むことにした、ということだろうか。その際、自身の「密室講義」を参照したのかどうか、したとすれば、自作を読みふける作者。結構面白い図だが、今となっては知るすべもない。

 もう一つの本書の特徴は、恋愛の扱いかたの変化である。従来のカー作品では、恋愛は刺身のつまで、大抵本筋とは関係ない(言い過ぎ?)。巻頭から、語り手の青年がヒロインと出会って恋をするが、そのままプロットと無関係に恋愛が進行し、事件の解決とともに二人の恋も成就して、その熱々ぶりに読者はいらいらする(そんなことはない?)。

 しかし、本書では、いきなり主人公の青年が、著名な犯罪学者から、君の婚約者は三人の男を毒殺した魔女だ、と告げられる。ショックを隠せない主人公は、自分が彼女の過去を全く知らないことに気づくが、その一方で、かつて主人公との間を噂されていた娘が、いまだに彼に思いを寄せて、よそ者である婚約者の正体を探ろうとしている。彼女が、婚約者の女性と言い争いになって、殴られた、と主人公に訴えると、主人公は二人のどちらを信用すればよいのか、葛藤することになる。こうしたスリラーあるいはサスペンス・ミステリのようなストーリーはこれまでにない展開で、30年代のカー作品と異なり、恋愛がよりシリアスに、よりプロットに有機的に関係するようになる。こうした変化は、実は、前作の『皇帝のかぎ煙草入れ』でも見られた。同作でも、主人公が二人の男性との関係に揺れ動くが、同作の場合は、ヒロインの心理的不安は、すべてトリック成立のための仕掛けに過ぎなかった。本作の主人公の抱える不安も、やはりプロットに必要なものではあるが、カーが男性作家であるせいか、より臨場感と切迫感が増している。この背景には、すでによく知られていることだが、この頃、カー自身が妻以外の女性と同棲していた、という事実が関係しているようだ[viii]。戦争でカー一家が離散していた時期のことで、こうした体験が、戦後の風潮と併せて、この後のカー作品における性愛というテーマに影響を及ぼしていく。

 ただし、本作では、こうした緊張感が全編続くわけではなく、作半ばにフェル博士が登場すると、犯罪学者は偽者で、主人公に伝えた話は嘘、詐欺師の手管に乗せられただけだった、と判明する。

 もちろん、それがミステリとしてのトウィストで、被害者の詐欺師は、自分が語った嘘の話どおりの死を遂げる。どうやら、犯人は、詐欺師の話を真に受けて、自分の正体を暴露されることを恐れたヒロインが、犯罪学者(詐欺師)を密室で毒殺したかに見せかけようとした、と推定される。果たして、詐欺師の話を鵜吞みにして犯行に至った人物は誰か?

 というプロットだが、当然、ここに本書のメインとなる仕掛けがある[ix]。40年代のカー作品に恒例の状況を反転させるアイディアである。ヒロインが毒殺魔だと信じた人間が犯人、と見せかけるのが犯人の狙い(ん?)、というのが真相で、この偽装によって、容疑者ががらりと変わるところがミソである。

 こうした状況を反転させて、読者の予想をひっくり返すのが、この時期のカーの得意技だが、どうも本作の場合は、そこまでの効果を発揮していないようだ。例えば、『殺人者と恐喝者』(1941年)ほど単純明快でないせいだろうか。ただし、犯人の意外性には十分なものがある。

 この犯人に対する疑いの手がかりとして、人間の心臓には四つの心室がある、という理科の基礎知識が出てくるが、それがまず、犯人が、被害者の詐欺師を疑った理由として持ち出され、最後に、その証言自体が嘘とわかって、犯人特定の手がかりになるあたりも巧妙である。現代の常識からすると、心臓の四つの心室(心房)など、小学生レヴェルの知識だろうが。

 江戸川乱歩は、「カー問答」を書いた時点で、ちゃんと本書を読んでいるが[x]、とくに言及はしていない。順位は、第三位で最下位ではないが、傑作という評価でもない。何となくあっけない、というのがこれら諸作に対する感想で、40年代の長編は(『皇帝のかぎ煙草入れ』を除き)ほとんどこの順位だから、これはそのまま40年代の諸作に対する評価ともとれる。乱歩の評価はもっぱらミステリとしての面に向けられているが、40年代前半の作品は、確かに小説としても、あっけないという印象はぬぐえない。そのなかで、本書は、前半のサスペンス・ミステリ風の部分で、主人公の疑惑と不安をかなりよく書き込んでおり、その意味で、戦後の歴史ものを中心とした大長編に繋がっていく要素を備えているといえるだろう。

 

[i] 『毒殺魔』(守屋陽一訳、創元推理文庫、1960年)。

[ii] 『死が二人をわかつまで』(仁賀克維訳、国書刊行会、1996年)、同(ハヤカワ・ミステリ文庫、2005年)。

[iii] 原題はTill Death Do Us Part

[iv] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、379頁。

[v] 『爬虫類館の殺人』(中村能三訳、創元推理文庫、1960年)。

[vi] 『爬虫類館の殺人』とロースンの「この世の外から」(1948年)をめぐる逸話はよく知られている。ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、305頁。

[vii]カナリア殺人事件』(1927年)。さらに『ケンネル殺人事件』(1931年)も。

[viii] 同、295-97頁。

[ix] このあたりの本書の狙いは、国書刊行会版の橘かおるによる解説で、丁寧に説明されている。『死が二人をわかつまで』(国書刊行会)、282-83頁。

[x] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、342頁。