『テニスコートの殺人』[i](1939年)は、『テニスコートの謎』[ii]として創元推理文庫に収録されていた長編小説の新訳版である。旧訳本は、1980年代にカーの翻訳をいくつも手掛けて、ファンを狂喜させた厚木 淳訳。新訳は、最近のカー作品の翻訳を和邇桃子らとともに担っている三角和代。ジョン・ディクスン・カーも、近年ようやく翻訳者に恵まれるようになった感がある(あ、でも、村崎敏郎訳も大変立派なものです)。しかも、『テニスコートの謎』は比較的最近の翻訳だったのに-といっても、1982年だから、年が知れるが-、早くも改訳された。最近の創元社がカーの改訳にかける情熱は、一体どうしてしまったのか(よい意味で)、と思わないでもない。
カーの長編のなかでは、比較的手を伸ばしやすかった、ともいえる本書だが、ミステリとしてのテーマは、いわゆる「足跡のない殺人」である。
金網に囲まれ、砂を敷き詰めたテニスコートの真ん中に、男が絞殺死体となって横たわっている。しかし、周囲には殺人者の足跡は残っていない。
またしても、という感じの、この不可能殺人に挑むのが、おなじみフェル博士だが、最初に読んだときの感想はこうだった。
「・・・くだらない。心底、くだらない。」
犯人:テニス好きの君のために、ラリーの相手をしてくれるテニス・ロボット(!?)を作ってやろう。
被害者:マジすか。
犯人:ロボットはネットと並行に動くので、金網を支えている鉄柱にロープを結び付けて、と。ロープのもう一方のはじをもって、コートの縁をぐるりと回って反対側の金網のところに立つよ。さあ、これで、コートを横切るロープに沿って、ロボットが動くわけだ。・・・ああ、ロボットの高さを決めなければいけないな。君の身長に合わせるから、ロープで輪をつくって、それに首を通してみてくれないか。それで高さの見当がつくから。
被害者:いいすよ。
犯人:やあ、ロープを首の周りに巻き付けたね。では、ちょっとロープを引っ張って、と・・・。
被害者:キューッ。
犯人:やれやれ、これで一丁あがりだ。あとは、ロープを手もとに引っ張って、死体を何度かころがせれば、はずれるだろう。
こんなマヌケな被害者がいるだろうか。
カーの名誉のために言っておくと、彼には、これ以前に『白い僧院の殺人』(1934年)、『三つの棺』(1935年)など、このテーマの歴史的名作を書いている。それが、四、五年でこのざまなのは、どうしたことか。それとも、ギャグ?・・・いや、ギャグなのか!確かに笑えるトリックだが。
そう思ったのを、今でもまざまざと思いだす。
そこで、今回、新訳版で読みかえした。その結果は?訳者が変わったからといって、評価が一変するわけもない。トリックが最低なのは同じである。しかし、・・・。何というか・・・。
面白い。
いや、トリックはアホだが、ミステリとしては大変面白い。新訳版の解説で、大矢博子が指摘しているように[iii]、前半は、主人公とヒロイン中心のサスペンス小説的ストーリーで、これが無暗に面白い。
もともと本書の設定は不可能犯罪ではない。実は、死体のそばには被害者の足跡のほかに、被害者の婚約者(ヒロイン)の往復した足跡が残っている。死体を発見したヒロインが、思わず駆け寄ったためについたものだが、このままでは彼女が犯人にされてしまう。かねてヒロインに思いを寄せて、被害者と不倶戴天の敵同士だった主人公がヒロインを助けようと色々工作を施すが、これが上手くいったり、いかなかったりする。現場に現れたハドリー警視とフェル博士との間で、虚々実々の駆け引きが展開されるのである。
サスペンスといっても、アイリッシュ風ではなく、むしろ倒叙ミステリ的で、主人公とヒロインの企む隠蔽工作は非常に理詰めである。そこが実に面白い。
ヒロインは重いトランクのようなものを抱えたまま死体のそばまで歩いて行ったので、足跡は女性のものとは思えない深さになっている(この設定はちょっと苦しい)。そこで、何者かが彼女の靴を履いて犯行に及んだのだ、と言いぬけようとする。ところが、今度は、主人公が(女性の靴は履けないので)手に靴をはめて、逆立ちして被害者に近づいたのではないか、と疑われる、という具合で、この主人公=ヒロインとハドリー警視=フェル博士の間の腹の探り合いはまさに手に汗を握る。単純に不可能犯罪の設定にしなかったカーの熟練の技で、『曲がった蝶番』(1938年)や『緑のカプセルの謎』(1939年)など、この時期のカーのプロットづくりの巧みさには感嘆のほかはない。
ところが、このサスペンスフルな展開が持続するか、というと、そうではないのが、カーの一筋縄ではいかないところだ。
一夜明けて、主人公が父親の弁護士に相談する(主人公も弁護士)あたりから、妙にコメディ・タッチになってくる。そもそもこの父親が、それまでの雰囲気をぶち壊すような滑稽な人物に描かれていて、やたらと引用する癖がある。
「悪態をついてはならんぞ、ヒュー。″彼は言うべき言葉を知らず、悪態をついた
〝。バイロンだったかな。」
ヒューのバイロンに対する評価がたいして高かったことはないが、また一段下がっ
た[iv]。
そのほかにも、「母さんをスコットランドへやろう。旅券なしで行かせるならあそこがいちばん遠い」[v]、というところも妙におかしい。
もう一つ引用すると、主人公の隠蔽工作について、父親はこう指摘する。
「だが、わかっているだろうな。まあ、その、真実があきらかになれば、おまえの
弁護士人生は終わりだと」
沈黙がながれた。
「そうなっても構いません」
「それでも、わたしのために少しは構ってくれ。おまえはせっかちだ、とてもな」[vi]
この時期になると、カーの会話によるギャグ・センスもだいぶ磨かれてきたようだ(この辺は、新訳のほうが快調だ)。
そのあと、主人公はヒロインとともに劇場に向かう。そこに出演している空中ブランコ乗りの芸人に恋人がおり、実は彼女は被害者にもてあそばれ、捨てられていた。そのためブランコ乗りの男が被害者を付け狙っていた。ところが、その男は、殺人のあった時刻に現場におり、ヒロインが死体に駆け寄る瞬間(つまり、ヒロインは犯人ではないという証拠)も、殺人が行われた瞬間もカメラに収めていた、と二人に明かす。このブランコ乗りがまた気のいい奴で、主人公とヒロインに写真を渡すと、自分はあんたたちの味方だ、とくる。前半のはらはらしたスリルはどこへやら、すっかりほのぼのした展開となる。しかし、そのブランコ乗りが、リハーサル中に銃で撃たれて墜落するという第二の殺人が起きると、再びスリルが高まる・・・はずだが、このトリックもメイン・トリックに輪をかけて阿保らしいので、どんどん緊張感は下落する(もちろん、殺人の場面がおちゃらけているわけではないので、読了後の感想ではあるが)。
この、前半のサスペンス・ミステリ的展開から、後半ののんきなユーモア・ミステリ風への変化は、一体どういうことだろう。無論、この後、犯人逮捕の場面が来て、そこは劇的なのだが、どうも、作者の狙い、この作品全体のトーンがよくわからない。それとも、やはり、メイン・トリックのあほらしさに見合った、一種のファース・ミステリなのだろうか。どうもつかみどころのない小説だ。
そもそも前半のサスペンス・ミステリ的な部分も、上述のように、アイリッシュ風の孤独感や絶望感はない。主人公たちが対決しなければならないのは、ハドリー警視とフェル博士なので、最後は主人公たちの味方をしてくれるという安心感(読者にも、作中人物にとっても)がある。スリルといっても、いかに相手の考えを読んで、それに対抗するかという、あくまで知的な議論の応酬によるものだ。要するに、ゲーム感覚で、そのようにみていけば、後半でユーモア色が強まるのも、作者としては、あくまで本書を推理ゲームとして楽しんでほしい、ということなのかもしれない。
もう一つ注目したいのは、前作との関連である。『緑のカプセルの謎』の原題がThe Problem of the Green Capsuleで、本書がThe Problem of the Wire Cage。明らかに対になっているのだが、どちらの作も、主人公が、他の男と婚約している女性に恋をする。婚約者は、どちらも尊大な若者で、主人公は、当然そいつが大嫌いである。違いは、『緑のカプセルの謎』では、婚約者の青年が犯人だが、本書では被害者になるところ。しかし、実は、本書の犯人は、被害者の師匠のような存在で、輪をかけて傲慢で冷酷なことが明らかとなる。というわけで、ある意味両書は犯人の設定でも共通点がある。
もっと技巧的な面に目を向けると、どちらもそれまでのカー作品に比べて、登場人物を極端に絞って、数少ない容疑者のなかから犯人を当ててみろ、と挑戦してくる。その自信に相応しく、本書でも、犯人を隠すアクロイド的な叙述トリックを駆使して、読者をひっかけようとする。この場面、作中人物にとっては何の意味もないのだが、読者に対しては、犯人への疑いを逸らす効果がある。ずるいトリックであるが、さすがカー、とニヤリとさせる。
というわけで、ミステリとしては欠点も長所も同じくらいある作品だが、果たして、佳作なのか、駄作なのか。もう一度読み直したほうがよさそうだ。
[i] 『テニスコートの殺人』(三角和代訳、創元推理文庫、2014年)。
[ii] 『テニスコートの謎』(厚木 淳訳、創元推理文庫、1982年)。
[iv] 同、210頁。
[v] 同、208頁。
[vi] 同、211-21頁。