カーター・ディクスン『かくして殺人へ』

(本書の内容に触れています。)

 

 『かくして殺人へ』(1940年)は、ディクスン・カーカーター・ディクスン名義だが)の長編中でも知名度は底のほうだろう。

 1956年に翻訳されていたが、1999年に新樹社版[i]が出版されるまで、かけねなしの幻の長編だった。それが現在では創元推理文庫[ii]にまで入った。

 一向知られるところがなかったのは、内容も関係している。カーには珍しく、これといった不可能トリックが用いられていない。それらしきものは出てくるが、その謎解きは実にもって何と言うこともない代物である。また、それに代わる魅力的な謎や伏線の妙なども感じられなかった。

 従って、個人的にも初読時の印象は、いたって悪かった。同様の印象を、二階堂黎人の解説にもみることができる。「カーの作品で一番取り柄も何もないのは、この作品ではなかろうか」[iii]、というのが氏の結論である。ところが、「追記」で、この印象ががらりと変わった、と述べている。

 

  「新訳が出たので再読したが、けっして取り柄がないなどということはなかった。 

 むしろ、技巧的なダブルミーニングが物語全体に施されていて、カーの騙しの技巧に 

 改めて感動したほどである。」[iv]

 

 確かに、文庫版で再読して、同じような感想を抱いた。

 1940年代前半のカー長編は、全体に小粒な印象だが、分量(語数)自体も1930年代の諸作に比べて少なくなっているようだ。それが、戦争の勃発と関係があるのかどうかはわからないが[v]、しかし過剰な描写が影を潜めて、登場人物も整理され、格段に読みやすくなっている。トリックも小味だが、気の利いたものが多く、それ以上に読者の意表を突くアイディアが必ず用意されており、犯人に関する手がかりも巧みである。1930年代の大仕掛けの奇術ショー的作品もゴージャスでよかったが、40年代は、むしろスマートにまとまった、何というか、「頭のよい作品」が増えている。『かくして殺人へ』はそうした40年代の作風の皮切りとなった長編と言えそうだ。

 テーマはシンプルで、脚本の執筆で撮影所に招かれたヒロインの人気作家が、繰り返し命を狙われる。この脚本の原作を書いたミステリ作家が主人公で、彼のほうはヒロインの原作小説の脚本を書いている、という設定自体がコメディ風だが、彼等のロマンスの進行と並行して、ヒロインへの攻撃がエスカレートする。ついに殺人が起こるが、ヒロインが購入した毒入りの煙草を吸って倒れたのは、別の女流作家だった、というお話。

 主人公が書いて、ヒロインが脚本化しているのが『かくして殺人へ』というミステリで、二階堂が指摘しているように、それが、ヒロインへの襲撃が殺人そのもの(結局、未遂だが)へと至る本書の展開と重なってくる。このプロットといい、タイトルといい、アガサ・クリスティの『ゼロ時間へ』(1944年)を思わせるが、クリスティが、本書にヒントを得たのかどうかはわからない。

 それはともかく、本書の狙いは、三度にわたるヒロインへの襲撃の意味が、事件の展開につれて変化してくるところにある。犯人の立場から説明するほうがわかりやすいだろう。

 犯人は、ヒロイン作の映画で主演を務める大女優の夫であり、マネージャーであるが、かつて女流作家(ヒロインではないほう)と秘密結婚をしていた。そのことを暴露されることを恐れての犯行なのだが、最初の襲撃は、ヒロインを元妻と間違えたのである。しかし、その失敗が、殺人計画を修正していく契機となる。再度ヒロインを襲撃して、彼女が狙われていることを強調しておいて、最終的に、ヒロインを殺そうとして誤って元妻を殺したように見せかける(書いてるこっちが、わからなくなるなあ)。もちろん、動機を隠すためである。

 「Aを殺そうとして、誤ってBを殺してしまう」間違い殺人、「Aを殺そうとして、誤ってBを殺してしまったように見せかける」偽装殺人、という二つのプロットは、別段新しいものではなく、いずれも動機を隠ぺいする効果を狙っている。前者では、犯人の目的は達せられないので、再度本命に対する殺人が試みられるのが定石である。後者の場合は、自分自身が狙われているように見せかけて、本当に殺したい相手が間違って殺害されたかのような状況をつくるケースが多い。これらのプロットも、実はクリスティのお家芸であるが、本書は、これら二つのパターンを組み合わせて新味を出そうとした、と読める。犯人の計画が修正を余儀なくされることで謎が生まれる、というのは、都筑道夫が主張したモダン・ディテクティヴ・ストーリー[vi]のひとつの姿だが、この時期のカーの長編には、この手の発想による作品が幾つもみられる[vii]

 もっとも、本書の場合、そもそも殺人の動機となる秘密結婚を推測させるようなデータが皆無で、推理のしようがない。推理のしようがないものを隠されてもなあ、という感じだが、この「間違い殺人(未遂)」と「間違い殺人と見せかける偽装殺人」というプロットの組み合わせも、精妙すぎて、一読してもなかなかその真価が伝わらない。玄人好みというか、通好みというか、玄人でも、通でもないのでわからないが、そんな印象を受ける。

 ストーリー展開も、映画界が舞台のせいか、いつものカーらしくない。あるいはイギリスっぽくない。二階堂が比較対象に挙げているように、エラリイ・クイーンのハリウッド・シリーズを連想させるところもある。サスペンスを狙ったシーンもあるのだが、それも何だか映画っぽいのは、こちらに先入観があるせいだろうか。

 主人公とヒロインのロマンスも映画的というか、最初激しくいがみ合うのだが、後半になって突如互いに対する好意に気づくラヴ・コメ風展開。読んだことはないが、何だかハーレクイン・ロマンスみたい(ファンの皆さん、すみません。悪口ではありませんので)。主人公とヒロインのロマンスをストーリーの軸にする手法も、まだ、取って付けた感が強くて、後続の長編のように、ロマンスがストーリーに有機的に絡むというほどには至っていない。

 これも二階堂の指摘通り、全体にパロディくさいので、何となく書き飛ばした印象も残って、そのあたりも損をしている。本書がカー作品のなかで注目されにくい要因だったかもしれない。

 しかし、軽いタッチは現代ミステリと言われても遜色なく、カーのファンにとっても、意外な掘り出し物といえるだろう。

 

[i] 『かくして殺人へ』(白須清美訳、新樹社、1999年)。

[ii] 『かくして殺人へ』(白須清美訳、創元推理文庫、2017年)。

[iii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、372頁。

[iv] 同。

[v] 本書とは合致しないが、江戸川乱歩は、カーが、戦後イギリスにおけるミステリの復興が思うように進んでいないことを嘆いている、という話を繰り返し紹介している。江戸川乱歩『随筆探偵小説』(『鬼の言葉』所収、光文社文庫、2005年)、324-25、368、469頁。また、同じく乱歩は、F・W・クロフツから日本の愛読者に宛てて書かれた手紙を翻訳掲載しているが、そこにも戦後間もなくの厳しい出版事情が語られている。乱歩の訳も素敵で、クロフツの柔和で紳士らしい人柄が伝わってくる。江戸川乱歩幻影城』(光文社文庫、1987年)、68-69頁。

[vi] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)。犯人の計画が修正されて謎が生まれる、という好例はニコラス・ブレイクの『野獣死すべし』(1938年)。

[vii] ディクスン名義の次作『九人と死で十人だ』(1940年)、カー『嘲るものの座(猫と鼠の殺人)』(1941年)など。