J・D・カー『曲がった蝶番』

(本書のトリック等に触れています。)

 

 『曲がった蝶番』はジョン・ディクスン・カーの代表作のひとつに挙げられるが、どのような意味での代表作なのか、判断に迷うところがある。

 江戸川乱歩は「カー問答」のなかで本作をカー長編の第二位の7冊のうちに入れている[i]。『幻影城』収録のエッセイでも、「追記」のかたちではあるが、カーの代表作として(『修道院の殺人』と)本作を挙げて、「いずれも充分邦訳するねうちがある」[ii]、と評価している。  

 一方中島河太郎は、『アラビアンナイトの殺人』の解説で、同作と『曲がった蝶番』をカーの代表作とするハワード・ヘイクラフトの評価を紹介したうえで、「カーの六十編中の代表作かというと、いろんな見方があるものだと思うほかはない」、と一蹴している[iii]創元推理文庫のカー作品は中島が解説を書くのがお決まりになっていたが、『曲がった蝶番』の旧訳にはそもそも解説がついていない[iv]。中島は、たいして面白くないと感じていた本作の解説を書く気になれなかったのかもしれない。

 しかし英米においても、近年の日本での評価でも、本作の評判は非常に高い。ホック編アンソロジーに掲載された密室ミステリの人気投票で、本作は堂々第4位にランクしている[v]。ダグラス・G・グリーンも「『曲がった蝶番』は、カーの作品中、まぎれもない傑作の一つである」[vi]、と述べている。

 日本では、瀬戸川猛資が「『曲がった蝶番』が印象的なのも、トリックに理由があるのではなく、タイタニック号の遭難をバックにした人間入れかわりのドラマになっているからだ」[vii]、と述べ、また対談のなかで、有栖川有栖二階堂黎人は、次のように意気投合している。

 

有栖川◆ 『曲がった蝶番』はトリックが明らかになった時に浮かび上がって広がっていく不気味な感覚があって、これこそミステリーがめざしていてなかなか達成できない感触だと思うんです。それを見事に成功させている。

二階堂◆ 他の作品は、怪奇から始まって現実で終わるんですよ。ところがこの作品に限っては、現実から始まって怪奇で終わるんですよね[viii]

 

 しかし、以上の評者らの意見にはどうももやもやしたところがある。瀬戸川の批評は「トリックは面白くないけれど」、と言っているようだし、有栖川と二階堂の指摘も、パズル・ミステリとしての評価はどうなのか、と聞きたくなる。

 そもそも、乱歩は、本作を「準密室小説」と分類し、上記のホック編アンソロジーでも本作は密室ミステリの傑作とみなされている。

 しかし、本作は密室ミステリではない。

 密室状況ないし不可能状況のミステリであるとは言えるが、周囲から目撃されていた被害者が、側に何者もいないのに突然転倒し、喉を切られた死体となって発見される。被害者は迷路状の木立の中に立っていたが、丈は腰のあたりまでで、目撃者にみられずに誰かが被害者に近づくことは不可能だった、という設定は、確かに魅力的だが、明かされる真相は少なからず拍子抜けさせられる。瀬戸川や有栖川・二階堂の批評も、トリック以外の部分に長所を見つけようとするあまりの意見では、と勘繰りたくなる。

 もっとも、瀬戸川のエッセイは、松田道弘の「新カー問答」[ix]以来、カーのストーリー・テラーとしての本質が理解されるようになった、という文脈で書かれたものなので、トリックを評価していない、というわけではないのかもしれない。有栖川・二階堂の評価も同様だろう。

 以上の『曲がった蝶番』に対する内外の評価の変遷は、新訳版の解説で、福井健太が要領よくまとめている[x]。福井は、近年のカー評価の傾向に即して、彼のストーリーテリングの妙技を、読者の予想を巧みに外していく手際などを例に論じている。「意外性の演出に長けたカーの全著作中でも屈指の衝撃的な真相」[xi]とも絶賛している。ここでも密室(状況)の解明には、具体的に触れていないことが注目される。

 どうやら、日本における本作の評価は、密室ミステリの傑作としてではなく、その「衝撃的」で「怪奇的」な真相に対するものであるようだ。

 これらの評価は、確かに当を得ていると思われる。というのも、『曲がった蝶番』はパズル・ミステリではないからだ。

 なぜパズル・ミステリではないか、といえば、本作の手掛かりから真相に到達することは、(よほど想像力がぶっ飛んでいる人以外)不可能だからだ。

 ここで言っているのは、いうまでもなく犯人の身体的特徴のことである。

 もちろん、論理的に伏線を考察すれば犯人を指摘できる、などというパズル・ミステリはまれである。というより、ほぼ皆無かもしれない。しかし、『曲がった蝶番』の場合は、そうしたレヴェルの問題ではない。こうした犯人の身体的特徴を言い当てるには、推理ではなく、想像力に頼るしかない。

 グリーンが述べているように、確かに、カーも手がかりをそこここに撒いている。

 

 「引きずっているというほどではないが、歩きぶりは若干ぎこちなかった。」[xii]

 

 「深く座り直すと、いささか苦労しながら脚を組んだ。」[xiii]

 

 しかし、いくらこうした暗示的描写[xiv]を積み重ねても、これらからこの人物の身体的特徴を言い当てるのは無理である。とても「十分に手がかりが示されている」[xv]、とはいえない。それに問題なのは、こうした身体的特徴は、現実にその人を眼前にしていればすぐにわかってしまうだろう、ということだ。グリーンも、この点をめぐって幾つかの見解を紹介しているが[xvi]、『曲がった蝶番』を実写化したとすれば、この身体的特徴が推測できるように演出しなければならない。しかし、それでは真相の「衝撃」は随分と薄れてしまうだろう。本作は、『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』などと同様、紙の上でこそ効果を発揮するミステリなのである。

 

 本作はパズル・ミステリではない、と、ただいま言った。その舌の根も乾かぬうちに、というわけではないが、本書にはパズルとしての面白い工夫がこらされている。従来、カーがあまり重要視してこなかった殺人動機について、かなり巧妙なアイディアが使用されているのである。

 本書のメイン・アイディアは、瀬戸川が激賞した、貴族のお家騒動というか、二人の自称相続人のいずれが本物かを争う、一種のリーガル・ミステリである。作中で言及している「ティチボーン事件」[xvii]からヒントを得たのか、あるいはディテクション・クラブでの会話から[xviii]かもしれないが、むしろカーの天才が発揮されるのは、両者が直接対決し、ある時には一方が偽物らしく見え、次の場面では、もう一人のほうが疑わしく見える、という巧妙なプロットづくりにおいてである[xix]。もちろん、こうした白熱するバトル・シーンは、結局どちらかが本物なのだから、後になって、不自然でないように、あれはこういう理由で間違ったことを言ってしまったのだ、と説明できなければならない。そうした点でも、カーの筆致には遺漏がない。

 この後、指紋の鑑定によって本物を決定しようとしたさなかに殺人事件が起こる、という劇的展開となるが、福井が解説で指摘しているように、いかにも狙われそうな、鑑定を行う元家庭教師のマリーではなく、現当主のジョン・ファーンリーが殺害される場面は、確かに衝撃的だ。だが、パズル・ミステリとしての独創は、この後の、殺人動機のミスリードの仕方にある。(以下、犯人を明かす。)

 殺人発覚後、マリーが、現当主のファーンリーのほうこそ偽者だ、と明かし、このことによって、相続人に名乗り出たパトリック・ゴアの動機は消滅する。本物である彼に偽者を殺害する動機はありえない。あるとすれば、「復讐」だが、合法的に地位も財産も回復できるのに偽者を殺害するのは、パズル・ミステリの動機としては推理不可能な突発的感情を持ち込むことになる。ところが、にもかかわらず、犯人はゴアなのである。これは相当に意外な結末で、作者も、してやったり、とほくそ笑むところだろう。地位と財産を取り返すことが目的なのに、それを失いかねない殺人をあえて犯す動機を、作者は、登場人物間の意外な共犯関係[xx](ただし、犯行自体は単独)に求めている。単なる作品の装飾のようにみえていた魔女集団に関する噂や、ある独身女性の不審な死の事件が結びついて、ここで活きてくる。また、この共犯関係は、説明されてみると、なるほどと思わせる説得力をもっている。

 最後の解決の一歩手前で、フェル博士が、真相を知っているらしい執事を追い詰めて、共犯者のほうを犯人として名指しする。博士が説明する(偽の)殺人トリックは、吹き出したくなるようなあほくさい代物だが、実は真相は間違っていない。殺人の動機は、フェル博士が解明した通りなのだ。ただ、異なるのは、実行者がゴアだった、という点である。最後の章で、犯人が手記のなかで自ら名乗りを上げる瞬間は、作者にとって会心の場面だっただろう。本書は、殺人動機をミスディレクトすることで意外な犯人を作り出したフーダニットである。

 ただし、この二人がどのようにして人目を盗んで共犯関係を結ぶようになったのかが説明されていない。まさか、一目会ったその日から以心伝心、ではないだろう。

 もう一点、犯人たちからすれば、殺人ではなく、自殺とみせかけるほうが好都合なはずだが、犯人のゴアは、用意した凶器ではなく、自分のものと特定されうるナイフを誤って犯行に用いてしまい、自殺に見せかけられなくなる。海千山千の犯人にしては、実にうっかりさんのミスだが、これは作者のカーにとって必要だから、犯させたミスであるはずだ。理由は何だろう。

 自殺としか見えない状況より、どちらともつかないシチュエーションのほうがストーリーを引っ張りやすいと判断したのだろうか。確かに、終盤のフェル博士による偽の解決の提示から真犯人の暴露へ至る怒涛の展開を考えると、自殺ではなく不可能犯罪の設定にしておいたほうがよさそうだ。しかし、その前の検死審問で、ある女性の証言によって自殺説が覆され、殺人の評決が下される場面がすでに描かれている。あえて、犯人に致命的な失敗を犯させる必要はなさそうである。この作品、二人のうちのどちらが本物なのか、自殺なのか殺人なのか、という疑問のいくつかについて、最後まで読者を迷わせるような曖昧な書き方がされている。ゴアが本物であることは、フェル博士自身が断言しているのに、結末近くになっても、登場人物がそれに疑念を抱いたりしている[xxi]。あえて、すっきりした結末にしたくないようなのである(真相も犯人の告白によるもので、フェル博士は何も証明していない)。ひょっとすると、フェル博士の解明したトリックが正しくて、自称犯人のゴアは共犯者をかばっている?それとも、殺人動機を隠すために、ゴアが偽者である可能性を残そうとしたのだろうか。

 ともあれ、結論として、本書は、本物の相続人はどちらか、というプロットを使って、本物のほうが偽者を殺す、という意外な解決を狙った作品といえる。しかも、殺人動機をめぐっては、綿密な作者の計算が働いている。これを見る限り、カーは、本書をまっとうなパズル・ミステリとして書こうとしたらしい。しかし、肝心の殺人トリックのほうは、ほとんど推理不可能な摩訶不思議なものだった。

 果たして、本書はパズル・ミステリなのだろうか。それともパズルを越えた「奇想小説」なのだろうか。

 

[i] 江戸川乱歩「カー問答」『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(宇野利泰永井淳訳、東京創元社、1983年)、314頁。

[ii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社文庫、1987年)、139頁。

[iii] ディクスン・カー(宇野利泰訳)『アラビアンナイトの殺人』(東京創元社、1960年)、518頁。

[iv] 『曲がった蝶番』(中村能三訳、創元推理文庫、1966年)。

[v] エドワード・D・ホック編『密室大集合』(1981年、早川書房1984年)、「まえがき」5-9頁。

[vi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、191頁。

[vii] 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』(早川書房、1987年)、45頁。233-34頁。

[viii] 芦辺拓有栖川有栖、小森健太郎二階堂黎人本格ミステリーを語ろう』(原書房、1999年)、208頁。

[ix] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、201-41頁。

[x] 『曲がった蝶番』(三角和代訳、創元推理文庫、2012年)、367-74頁。

[xi] 同、371頁。

[xii] 同、42頁。

[xiii] 同、56頁。

[xiv] さらに、同、94、97頁。作品後半では、こうした描写もなくなるが、カーも面倒くさくなったらしい。逆に203-204頁には、この人物が「リンゴを蹴りとばした」、という文章がある。どんな風に蹴り飛ばしたのかは書かれていないが、身体的特徴を知られたくない人間が、こんな動作をあえてするだろうか。この人物、というより、カーが、真相を悟られないように、こうした描写を加えたのかもしれないが、むしろアンフェアだろう。

[xv] グリーン前掲書、190頁。

[xvi] 同、190-91頁。

[xvii] 同、19頁。

[xviii] 同クラブのメンバーでもあったバロネス・オルツィの短編「トレマーン事件」(1904年)にヒントを得たという可能性もあるだろう。同短編中にも、ティチボーン事件への言及がある。詳しくは、以下の全集における訳者解説を参照。バロネス・オルツィ平山雄一訳)『隅の老人【完全版】』(作品社、2014年)、279-93、595頁。カーとバロネス・オルツィとの交流については、グリーン前掲書、215頁を参照。

[xix] 記憶喪失を使ったのは、ちょっとずるいような気もするが、巧みである。

[xx] アガサ・クリスティの『ナイルの死』(1937年)を思わせる。

[xxi] 『曲がった蝶番』(2012年)、251-52頁。