カーター・ディクスン『青ひげの花嫁(別れた妻たち)』

(本書のアイディア、真相に触れています。)

 

 本書はハヤカワ・ポケット・ミステリ[i]に収録されたあと、1982年にハヤカワ・ミステリ文庫[ii]に収められた。訳者は変わっていないので、改題ということになる。旧題だと、単に離婚しただけのように受け取られるからだろうか。もちろん、タイトルは「死に別れた」、「私の死んだ妻たち(My Late Wives)」という意味である。

 題名が示唆するように、次々に女性と結婚しては、殺害していく殺人鬼を素材にしている。この手の犯罪者は、現代なら、さしずめシリアル・キラーということになって、ミステリ作家の大好物だが、カーター・ディクスンディクスン・カー)も例外ではない。以前から、作品のなかにしばしば現実の殺人魔の名を挙げていたが、満を持してということなのか、あるいはネタに困ったのか、結婚相手を殺しては、次の獲物を探す現代版青髭をテーマに、異色の犯罪実話風ミステリに挑戦している。アプローチの仕方は異なるが、同時期のエラリイ・クイーンの『九尾の猫』(1949年)を連想させる作品である。

 といっても、実話をなぞっただけでは面白くない。当然、ミステリらしい仕掛けが欲しいところで、まずその第一は、人気舞台俳優が休暇に訪れた保養地で、青ひげに扮して、それらしく振る舞う、というプロットである。

 十年ほど前に、四人の女性が殺害されて、しかし、その死体が発見されないという事件が起こった。犯人とみられるロージャー・ビューリーなる人物は、最後の事件で、目撃者に死骸を見られながら、結局、監視の警察官の手を逃れて、死体もろとも姿を消してしまった、と思われている。そして、十年後、俳優のブルース・ランサムのもとに、何者かから劇の原稿が送られてくる。その内容は、かつてビューリーが犯したとみられる犯罪を題材とした脚本だった。脚本に興味を示すランサムは、その結末をめぐって、演出家のベリル・ウェストと口論になるが、サフォークのオールドブリッジ[iii]近くの町で休暇を過ごすというランサムに、ビューリーのふりをして若い娘を誘惑してはどうか、とベリルが提案する。脚本では、ビューリーと思われていた怪しい人物が実は高名な小説家だった、という結末になっていて、ベリルは、現実では、そんな結末ではハッピー・エンドにならないと主張していたからだった。いいとも、やってみよう、と言い出すランサムに、軽率なことはやめろ、と友人のデニス・フォスターは忠告するが、数週間後、ランサムに呼び寄せられたフォスターとウェストがオールドブリッジを訪れてみると、案の定、ランサムは、ダフネ・ハーバートという娘と親密な間柄になっており、しかも、ランサムがビューリーだという噂が周辺に広まっていた。おかげで、ダフネの父親のジョナサン・ハーバートが娘を思いとどまらせようとするなど、事態はこじれていき、しかも、ヘンリ・メリヴェル卿とマスターズ主任警部が介入してくると、ビューリーが実際に当地に潜んでいることが明白となってくる。

 こうして、いかにもという展開になっていくが、このプロットの捻りは、ランサムが本当にビューリーかもしれない、と思わせるところにある。正体不明の送り主が寄こした原稿には、ビューリーしか知らない事実が述べられており、それがビューリーがオールドブリッジに住んでいる証拠なのだが、ランサムは原稿が届く前から、その事実を知っていたようにも見え、彼に対する疑惑の原因となる。ランサムがビューリーなら、いかにもミステリらしい真相だが、もちろん、カーはそんな単純な手は使わない。ランサムの様子は確かに怪しいが、実は、彼が事件に入れ込むのには、理由があったことがわかる。しかし、この展開は、ビューリーがそのような因縁のあるランサムにたまたま原稿を送ったということになって、偶然で済ますには少々無理があるようだ。

 その他の、ミステリ的アイディアは、ビューリーが死骸を見られた十年前の最後の事件の偽装のトリックと、死体隠滅の方法。後者は、現実の殺人鬼たちは、死体の処分方法として、大体、手近なところ、例えば地下室の壁に塗り込める(『夜歩く』?)、といった方法を取る、と説明しておいて、裏をかいて、ゴルフ場をトリックに用いている。ただ、ゴルフ場は、掘り返したりすれば、すぐ痕跡でわかってしまうので、死体の処分には向かない[iv]、と一旦否定しておいて、これはカーの常套手段だが、そのあと、でも、バンカーの砂のなかなら隠せるよね[v]、というのが種明かしなのは、正直、平凡過ぎて、あまり盲点を突いたトリックとも思えない。まだ、ゴルフが人口に膾炙するスポーツとはなっていなかった時代で、当時は充分意外な方法だった、ということなのだろうか。

 いずれにしても、犯罪実話風なので、カーも、密室だとか、幽霊による殺人だとかの現実離れした謎や装飾は排して、現実的なトリックや犯罪を用いてパズル・ミステリを書こうとしたらしい。その意欲は買えるが、出来栄えとしてはいまいちか。

 ダグラス・グリーンの評価は、ビューリーが「死体を消す方法の説明は、うんざりするほど見え透いている」が、「殺人者の正体は意外な人物だ」、というもの[vi]二階堂黎人は、「けっこう意外な犯人が出てきて、しかも充分納得できる」[vii]、と、こちらも高評価。最後に、御大、江戸川乱歩の評価は、「J・D・カー問答」では、最低の第四位[viii]。この頃の乱歩の関心対象から言って、当然の結論だろう。ちなみに、この時点で、本書が、乱歩が読んだ一番新しいカー長編だったらしい。

 確かに、ランサムをうまく使っているので、犯人をなかなか上手に隠せているようだ。その辺がプラスの評価だろうが、全体としては、やはりかなり地味な印象である。地味なのはいいのだが、40年代前半の長編のような、鮮やかな背負い投げを食わせるようなアイディアが見当たらないのは、やはり物足りない。とはいえ、カーの本質が、トリックよりも、犯人の隠し方の上手さにある、ということを実証している作品ともいえる。いつもと異なるプロットづくりが読ませどころ、ということになるだろうか。

 

[i] 『別れた妻たち』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1957年)。

[ii] 『青ひげの花嫁』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)。

[iii] サフォークのオールドブリッジは、『弓弦城殺人事件』(1933年)の舞台になっている。『弓弦城殺人事件』(加島詳造訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。サフォークというとイングランド東部だが、なぜまた13年ぶりに舞台に選んだのだろう。

[iv] 同、217頁。

[v] 同、322頁。

[vi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、364頁。

[vii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、380頁。

[viii] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、344頁。